仔猫のパティスリー
 思いもよらない、とはこのことだ。橘は言葉を続けた。
「君、去年、松下先生の小説創作授業を取っていただろう? そのときの作品を以前読ませてもらってね。僕の手で、指導してみたいと思ったんだ。だから松下先生に頼んで君を僕のゼミに引き抜いた。君は怒るかもしれないが、僕は君のセンスに惚れてしまってね。僕に君の小説指導をさせて欲しい。どうだい?」
 橘が、あたしを引き抜いた? あたしのセンスに惚れて?
 怒ればいいのか、喜べばいいのか、わからない。心臓がドキドキして、うるさい。橘はただ静かにあたしの言葉を待った。小説が書ける。それもプロの小説家の指導で。でもこの男はあたしの一番嫌いなタイプの男で。
「あたしには先生がおっしゃるほどのセンスなんて……」
 センスなんて、ありえない。自分の技術は自分が一番よく知っている。
 何かの間違いではないかと、あたしは橘の表情を窺うように覗き込んだ。
「君らしくもないね。まあ、しおらしい君も愛らしいが」
 そう言って橘は軟派な笑みを浮かべる。そう、やつはやっぱりこういう男なんだ。あたしの大嫌いなチャラい男。
「先生っ!」
 あたしが乱暴に紅茶のカップを置くと、褐色の液体が少し、こぼれた。
「時間はある。ゆっくり考えたらいいよ」
 あたしのことなど意に介さない様子で、橘は優雅に紅茶を飲んでいる。ホント、男のくせに綺麗でむかつく。
 そのとき、トントンと控えめに研究室のドアがノックされた。
「はい、どうぞ――――」
 橘はゆったりと立ち上がると、ドアへと向かった。ちらちと目を向けると、教務課の男性が書類を持って待っている。そうか、学生は出入り禁止なんだっけ。
「セミナーの件ですが……」
「ああ、万事問題ないですよ。あとは当日、生徒に手伝いをお願いしますから」
「そうですか、よろしくお願いします」
 書類を受け取ると、橘は再びあたしの前のソファーに腰をおろす。セミナーとは明日開催される、特別講師を呼んでの講演会のことだろうか。明日の講演にはライトノベル作家が来るということで、あたしも参加予定だ。
「悪かったね。明日のセミナーの件で……――――仔猫ちゃん、君も参加名簿にあったね」
「ええ、まあ」
 なんとなく彼に予定を把握されているのは悔しくて。でも、彼はそんなことお構いなしのマイペース男。あたしはこの研究室に足を踏み入れたことを後悔し始めていた。にっこりと微笑む橘に、あたしはわけもわからず引きつった笑みを返す。

「君、明日のセミナーの手伝いをお願いするよ」



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