仔猫のパティスリー
3・仔猫はほだされる
昼休み、パンをかじっている最中に携帯が鳴った。メールの着信だ。
『授業後、ゼミの印刷の手伝いをよろしく』
橘だ。例の食事の後、彼は時々こうして私の携帯に連絡を寄越す。それも口説かれているとは思えないほど、雑用のメールばかりだ。別に、口説かれたいと思っているわけではないけれど。
「柚季ちゃん、次授業?」
友人の鈴花は弁当の卵焼きを頬張りながら言った。彼女のお母さんのお弁当はいつも美味しそう。一人暮らしのあたしにはうらやましい限りだ。
「ううん。もうあがり。図書館寄ろうと思ってたんだけど、呼び出し」
あたしは鈴花に携帯のメール画面を開いて見せた。
「柚季ちゃんお気に入りだね」
鈴花はそのメールを見ながら、くすくす笑った。まさか口説かれているのだとも言えなくて、ただ苦笑せざるをえない。
「やめてよ、おかげであたし目ぇつけられてるんだから」
「だれに?」
「あいつの取り巻き」
嫌がらせを受けるのは時間の問題かもしれない。それをやるだけの度胸がある人間がいれば、の話だけれど。
あたしは残ったパンを口に詰め込むと、それをミルクティーで流し込む。律儀に彼の元へ向かうあたしもあたしだけど、こればかりは性格だから仕方がない。世話焼きな自分がうらめしかった。
「いってらっしゃい」
可愛らしく手を振る鈴花に、あたしも手を振って彼の研究室へと向かう。
***
「失礼します」
辺りに学生がいないことを確認して、あたしは控えめにノックをしてから研究室のドアを開ける。
「いらっしゃい仔猫ちゃん」
パソコンに向かっていた橘が椅子を回転させて、こちらに向き直った。
「今日はどんな御用です?」
「つれないね。もう少し僕に優しくできないのかい?」
椅子から立ち上がって、拗ねたように言う橘をあたしは鼻で笑い飛ばす。橘が動くたびに香水がかおって、彼の存在を強調するようだ。
「用がないなら帰ります」
「冗談だよ。レジュメの印刷をお願いしたいんだ。20部頼むよ」
「かしこまりました」
「それと、終わったら食事でもどうだい?」
「――――橘先生」
「うん?」
「セクハラで訴えますよ」
ゆっくりと近づいてきた橘に、あたしの身体はいつの間にか本棚との間に挟まれて、その距離は教師と生徒という関係を超えている。橘は気だるげに本棚に片手をつき、空いた手であたしの髪を撫でている。これをセクハラといわずなんというか。
それでもドキドキしてしまうのは、この男の香水のせい。媚薬か惚れ薬でも入っているのだろうか。そうでなければこのあたしがこんな体勢を甘んじて受け入れるわけがない。
「緊張しているね。このまま食べてしまいたいくらい、可愛いよ」
「そうやっていつも生徒に手を出されているんですか?」
「まさか」
君だけだ、と耳元で橘は囁いて。
「れ、レジュメの印刷、してきます」
あたしは彼の身体をすり抜けると、ドアへと向かう。
「よろしく、仔猫ちゃん」
くすくすと笑う橘の甘い声を背中に聞いて、あたしは研究室のドアを開ける。外からの空気に橘の残り香が掻き消されて、なんだか妙に切なくなったのは、多分気のせい――――。
***
学生用研究室と掲げられた部屋の一角に印刷機が置かれている。学生がゼミや授業の印刷物をここで行う他、自習などが出来るよう数台の共用パソコンや机が置かれているが、学生がこの部屋を使うのはもっぱら印刷時だけだ。自習ならば図書館の方が静かだし、パソコンは専用のパソコン学習室がある。
今日もこの部屋を使用している生徒はおらず、あたしが部屋に入るとひんやりとした人の熱を持たない空気が足元に絡みついた。
印刷機の電源を入れて、機械が温まる間、あたしは持っていた鞄を置き、印刷するレジュメを効率よく作業できるよう机に並べる。15頁を20部、一時間程度で済むというか、一時間もかかるというか。昭和初期の文学年鑑やら、先行論文などが書かれたプリントを見ながら、あたしは準備の出来た印刷機へとそれをセットする。
橘ゼミは思ったほどお遊びゼミではないのだと、最近ようやく思い始めた。最初の課題となった橘の作品こそ、あたし以外の生徒は褒めちぎっていたけれど、それだってあたしが反対意見を述べればきちんとした返答もあった。打てば響くような、激しい意見のやり取りはとても楽しくて、彼女たちをバカにしていた自分が恥ずかしくなったほどだ。
反面、ことあるごとにこうして橘に呼ばれるあたしを目の敵にしている生徒もやっぱりいて。橘ファンの中にもいい子はたくさんいて、ゼミに入ってから友人になった子もいる。けれどゼミにいいる数人のコアで熱狂的な橘の取り巻きたちは、呪い殺さんばかりの視線であたしを見てくるから、もういいかげんうんざりする。
印刷が半分ほど終わったところで、あたしは時計を見た。印刷をはじめて30分、やはり一時間はかかるようだ。今日は予定もないからいいんだけど。
そこへガラガラっと遠慮のない音を立てて、ドアが開かれる。どこか他のゼミが印刷しに来たのだろうか。手早く印刷してしまおうとあたしがプリントに手を伸ばしたときだった。
「藤崎さん」
掛けられた声に顔を上げると、部屋に入ってきたのは同じ橘ゼミの秋元さやかだったようだ。熱狂的シンパのリーダー格の彼女は、子どものようなちょっかいを掛けることはなかったが、ヒリヒリするようなあからさまな敵意を向けてきていた。そう、今のように。
一瞬にして、部屋が痛いくらいの緊張に侵食される。
「それ、橘先生に頼まれたの?」
にっこりと微笑む秋元の冷ややかな瞳にぶつかって、あたしは慌てて目をそらす。なんだか見てはいけないものを見てしまったような。
「うん。あ、印刷機使う? すぐ荷物、退かすから……」
昼休み、パンをかじっている最中に携帯が鳴った。メールの着信だ。
『授業後、ゼミの印刷の手伝いをよろしく』
橘だ。例の食事の後、彼は時々こうして私の携帯に連絡を寄越す。それも口説かれているとは思えないほど、雑用のメールばかりだ。別に、口説かれたいと思っているわけではないけれど。
「柚季ちゃん、次授業?」
友人の鈴花は弁当の卵焼きを頬張りながら言った。彼女のお母さんのお弁当はいつも美味しそう。一人暮らしのあたしにはうらやましい限りだ。
「ううん。もうあがり。図書館寄ろうと思ってたんだけど、呼び出し」
あたしは鈴花に携帯のメール画面を開いて見せた。
「柚季ちゃんお気に入りだね」
鈴花はそのメールを見ながら、くすくす笑った。まさか口説かれているのだとも言えなくて、ただ苦笑せざるをえない。
「やめてよ、おかげであたし目ぇつけられてるんだから」
「だれに?」
「あいつの取り巻き」
嫌がらせを受けるのは時間の問題かもしれない。それをやるだけの度胸がある人間がいれば、の話だけれど。
あたしは残ったパンを口に詰め込むと、それをミルクティーで流し込む。律儀に彼の元へ向かうあたしもあたしだけど、こればかりは性格だから仕方がない。世話焼きな自分がうらめしかった。
「いってらっしゃい」
可愛らしく手を振る鈴花に、あたしも手を振って彼の研究室へと向かう。
***
「失礼します」
辺りに学生がいないことを確認して、あたしは控えめにノックをしてから研究室のドアを開ける。
「いらっしゃい仔猫ちゃん」
パソコンに向かっていた橘が椅子を回転させて、こちらに向き直った。
「今日はどんな御用です?」
「つれないね。もう少し僕に優しくできないのかい?」
椅子から立ち上がって、拗ねたように言う橘をあたしは鼻で笑い飛ばす。橘が動くたびに香水がかおって、彼の存在を強調するようだ。
「用がないなら帰ります」
「冗談だよ。レジュメの印刷をお願いしたいんだ。20部頼むよ」
「かしこまりました」
「それと、終わったら食事でもどうだい?」
「――――橘先生」
「うん?」
「セクハラで訴えますよ」
ゆっくりと近づいてきた橘に、あたしの身体はいつの間にか本棚との間に挟まれて、その距離は教師と生徒という関係を超えている。橘は気だるげに本棚に片手をつき、空いた手であたしの髪を撫でている。これをセクハラといわずなんというか。
それでもドキドキしてしまうのは、この男の香水のせい。媚薬か惚れ薬でも入っているのだろうか。そうでなければこのあたしがこんな体勢を甘んじて受け入れるわけがない。
「緊張しているね。このまま食べてしまいたいくらい、可愛いよ」
「そうやっていつも生徒に手を出されているんですか?」
「まさか」
君だけだ、と耳元で橘は囁いて。
「れ、レジュメの印刷、してきます」
あたしは彼の身体をすり抜けると、ドアへと向かう。
「よろしく、仔猫ちゃん」
くすくすと笑う橘の甘い声を背中に聞いて、あたしは研究室のドアを開ける。外からの空気に橘の残り香が掻き消されて、なんだか妙に切なくなったのは、多分気のせい――――。
***
学生用研究室と掲げられた部屋の一角に印刷機が置かれている。学生がゼミや授業の印刷物をここで行う他、自習などが出来るよう数台の共用パソコンや机が置かれているが、学生がこの部屋を使うのはもっぱら印刷時だけだ。自習ならば図書館の方が静かだし、パソコンは専用のパソコン学習室がある。
今日もこの部屋を使用している生徒はおらず、あたしが部屋に入るとひんやりとした人の熱を持たない空気が足元に絡みついた。
印刷機の電源を入れて、機械が温まる間、あたしは持っていた鞄を置き、印刷するレジュメを効率よく作業できるよう机に並べる。15頁を20部、一時間程度で済むというか、一時間もかかるというか。昭和初期の文学年鑑やら、先行論文などが書かれたプリントを見ながら、あたしは準備の出来た印刷機へとそれをセットする。
橘ゼミは思ったほどお遊びゼミではないのだと、最近ようやく思い始めた。最初の課題となった橘の作品こそ、あたし以外の生徒は褒めちぎっていたけれど、それだってあたしが反対意見を述べればきちんとした返答もあった。打てば響くような、激しい意見のやり取りはとても楽しくて、彼女たちをバカにしていた自分が恥ずかしくなったほどだ。
反面、ことあるごとにこうして橘に呼ばれるあたしを目の敵にしている生徒もやっぱりいて。橘ファンの中にもいい子はたくさんいて、ゼミに入ってから友人になった子もいる。けれどゼミにいいる数人のコアで熱狂的な橘の取り巻きたちは、呪い殺さんばかりの視線であたしを見てくるから、もういいかげんうんざりする。
印刷が半分ほど終わったところで、あたしは時計を見た。印刷をはじめて30分、やはり一時間はかかるようだ。今日は予定もないからいいんだけど。
そこへガラガラっと遠慮のない音を立てて、ドアが開かれる。どこか他のゼミが印刷しに来たのだろうか。手早く印刷してしまおうとあたしがプリントに手を伸ばしたときだった。
「藤崎さん」
掛けられた声に顔を上げると、部屋に入ってきたのは同じ橘ゼミの秋元さやかだったようだ。熱狂的シンパのリーダー格の彼女は、子どものようなちょっかいを掛けることはなかったが、ヒリヒリするようなあからさまな敵意を向けてきていた。そう、今のように。
一瞬にして、部屋が痛いくらいの緊張に侵食される。
「それ、橘先生に頼まれたの?」
にっこりと微笑む秋元の冷ややかな瞳にぶつかって、あたしは慌てて目をそらす。なんだか見てはいけないものを見てしまったような。
「うん。あ、印刷機使う? すぐ荷物、退かすから……」