仔猫のパティスリー
4・仔猫は翻弄される
雨が降り続いている。天気予報は丸一週間、全て雨の予報だった。あたしが季節の変わり目に体調を崩すことは珍しくない。特にこの梅雨時期は風邪を引くことが多い。
でも。
今年はひどすぎる。あたしはうっすらと目を開け、カーテンの隙間から見える空を見上げた。薄暗い空は時間の感覚を曖昧にして、今が昼なのか夜なのか判別が困難だ。
息が苦しい。幼い頃に患っていた喘息は成人した今でも、こうして風邪をこじらせるたびに発作を起こさないまでもあたしを苦しめる。息を吸うたびにヒュッと乾いた音がして、咳をする体力すら残っていなかった。
手を伸ばして枕もとに置かれた携帯をやっとの思いで手にする。普段持ち歩いてる携帯のはずなのに、あまりの冷たさと重量に、重かった頭がようやくはっきりしはじめる。
着信5件――――。
知らない番号ばかりだ。最後の一件には、橘正宗の表示があった。そうだ、今日はゼミだったから……。時間を確認すると、授業は既に終わった時間で――――今は、もう夕方の五時を少し回った時間だった。完璧な無断欠席。後悔と倦怠感で頭が上手く働かない。
雨の音は孤独を膨らませ、世界にはあたししか存在しないんじゃないかと思うほどだ。
誰かに来て欲しかったが、実家は車で五時間かかるほど遠く、友人に頼るのも憚られて、あたしは再びベッドで目を閉じた。食欲はなくても空腹感はあり、喉は渇いていたが冷蔵庫の中は既にからだった。コンビニまでは歩いて三分もかからないほど近かったが、今はそれさえも遥か彼方に思える。
死が頭の片隅をかすめる。正常な思考は風邪をこじらせただけで死ぬわけがないと嘲笑したけれど、弱った身体の精神はそれすら蝕んで行く。誰にも気づいてもらえず、あたしはこれからどうなってしまうのだろう。
もしもこんなところで死ぬのなら、橘に一言言いたかった。迷惑なんかじゃないのだと。
秋元との一件から既に一ヵ月が経とうとしていた。橘はあれ以来、あたしとの接触を避けるようになった。ゼミは通常通り行われたが、雑務で呼び出されることはなくなった。あの翌日、不意に「藤崎くん」と呼ばれて、誰のことかわからなかった。橘はあたしを「仔猫ちゃん」とは呼ばなくなった。それが、切ない。
あんな男、大嫌いなはずだったのに。優しくて、どこか少年のようで、余裕がありそうなくせに……熱いから。甘くて切ない香水の香りも、うるさいくらいの心臓も、全てが今は懐かしかった。
会いたい。
橘に、会いたい。
迷惑なんかじゃないから、また仔猫ちゃんと呼んで欲しい……――――。
風邪でナーバスになっている自覚がある。こんなの、らしくないもの。
それでも。
零れる涙が熱い。こんなことで泣くほど、ヤワじゃないはずなのに。
「……うっ…ふ……」
気管支はヒリヒリと熱く、身体は溶けてしまいそうなほど重かった。
その時、息を飲むほどの甲高さで、インターホンがなった。それと共に、ドンドンと穏やかではないノック。
誰?
「僕だ、藤崎くん。いるんだろう?」
熱のあまり、幻聴でも聞こえてきたのかと思った。でも、これは確かにあの人の声だ。ああ、神様――――。
あたしは最後の力を振り絞ってベッドを降りると、ふらつく身体を壁で支えながら、ようやく玄関の鍵を開けた。それがドアの向こうでもわかったのだろう、すぐにドアが開けられて、あたしはそのまま前に倒れこんだ。
「仔猫ちゃんっ!」
それを受け止めたのは、甘く甘く切ない香り。
化粧はしてないし…ジャージだし、最低だ。こんなの好きな人に見せる格好じゃない。好きな、人?
「せんせ…どうして?」
「君は無断でゼミを休むような子じゃないだろう。最近、風邪気味なのも気付いていたからね」
そう言って微笑む橘を見た瞬間、一度は止まった涙が再び溢れてきた。
「せん、せ……あたし、あたしっ……」
どうしてこの男はこんなにもタイミングがいいのだろう。あたしを抱きしめる腕は雨で湿っていたけれど、温かく、それだけで精気が戻るような心地だった。それでもそのまま玄関先で崩れ落ちるあたしを、橘は抱き上げてベッドまで運んでくれた。ベッドへあたしを横たえると、橘はそのままあたしに覆い被さる。
「橘、せんせ……」
「僕に心配をさせるな」
その表情は窺い知れない。いつだってそうだ。この人は、肝心なときにその表情を見せてくれない。
今もだ。
それを知る前に、唇を奪われたから。
風邪が移るからと懸命に唇を結ぶあたしに、橘の舌はやすやすとそれを越えて口腔に侵入してくる。この男は、キスまで甘い――――。
角度を変え、何度も何度も橘はあたしの存在を確かめるように口付けた。
「んっ……ふ、ぁん……」
息苦しさに喘ぐのか、快感に喘ぐのか、自分でもわからないくらいの深い口付けの後で、橘は小さく「熱いな」と呟いた。
「病院にはいったのかい?」
橘は名残惜しげに唇を離すと、体勢を変え、ベッドの端に腰掛けた。
あたしはほうっとする頭で、力なく首を振った。聞きたいことはたくさんあるはずなのに、上手く日本語にならなくて。
「まだ診療時間だから、病院に行こう」
「こんな、格好だし……着替えなきゃ」
「そのままでいい。君の魅力は着ているもので左右されるものではないだろう?」
「お金、いくらあったかな……」
「そんなもの僕がいくらでも何とかする」
「水…飲みたい……」
「買ってきた。飲んだら、行くよ」
情けない。こんなことが言いたいんじゃないのに。
橘は来る途中で買ってきたのだろう、コンビニの袋からミネラルウォーターのペットボトルのふたを開けると、あたしが起き上がるのを手伝ってくれる。背中に回された手が思っていた以上に大きくて、安心感。
その手に支えられながら飲んだ水は、今まで飲んだ水で一番美味しかった。
橘はしばらく水を飲み続けるあたしを無言で見つめていたが、半分ほど飲んだところで「行こうか」とあたしを促した。
***
マンションを出ると、漆黒のアウディのセダンが停まっていて、あたしはジャージ姿のまま助手席に乗せられた。車の中はやっぱり香水のいい匂い。
「ふふっ……」
雨が降り続いている。天気予報は丸一週間、全て雨の予報だった。あたしが季節の変わり目に体調を崩すことは珍しくない。特にこの梅雨時期は風邪を引くことが多い。
でも。
今年はひどすぎる。あたしはうっすらと目を開け、カーテンの隙間から見える空を見上げた。薄暗い空は時間の感覚を曖昧にして、今が昼なのか夜なのか判別が困難だ。
息が苦しい。幼い頃に患っていた喘息は成人した今でも、こうして風邪をこじらせるたびに発作を起こさないまでもあたしを苦しめる。息を吸うたびにヒュッと乾いた音がして、咳をする体力すら残っていなかった。
手を伸ばして枕もとに置かれた携帯をやっとの思いで手にする。普段持ち歩いてる携帯のはずなのに、あまりの冷たさと重量に、重かった頭がようやくはっきりしはじめる。
着信5件――――。
知らない番号ばかりだ。最後の一件には、橘正宗の表示があった。そうだ、今日はゼミだったから……。時間を確認すると、授業は既に終わった時間で――――今は、もう夕方の五時を少し回った時間だった。完璧な無断欠席。後悔と倦怠感で頭が上手く働かない。
雨の音は孤独を膨らませ、世界にはあたししか存在しないんじゃないかと思うほどだ。
誰かに来て欲しかったが、実家は車で五時間かかるほど遠く、友人に頼るのも憚られて、あたしは再びベッドで目を閉じた。食欲はなくても空腹感はあり、喉は渇いていたが冷蔵庫の中は既にからだった。コンビニまでは歩いて三分もかからないほど近かったが、今はそれさえも遥か彼方に思える。
死が頭の片隅をかすめる。正常な思考は風邪をこじらせただけで死ぬわけがないと嘲笑したけれど、弱った身体の精神はそれすら蝕んで行く。誰にも気づいてもらえず、あたしはこれからどうなってしまうのだろう。
もしもこんなところで死ぬのなら、橘に一言言いたかった。迷惑なんかじゃないのだと。
秋元との一件から既に一ヵ月が経とうとしていた。橘はあれ以来、あたしとの接触を避けるようになった。ゼミは通常通り行われたが、雑務で呼び出されることはなくなった。あの翌日、不意に「藤崎くん」と呼ばれて、誰のことかわからなかった。橘はあたしを「仔猫ちゃん」とは呼ばなくなった。それが、切ない。
あんな男、大嫌いなはずだったのに。優しくて、どこか少年のようで、余裕がありそうなくせに……熱いから。甘くて切ない香水の香りも、うるさいくらいの心臓も、全てが今は懐かしかった。
会いたい。
橘に、会いたい。
迷惑なんかじゃないから、また仔猫ちゃんと呼んで欲しい……――――。
風邪でナーバスになっている自覚がある。こんなの、らしくないもの。
それでも。
零れる涙が熱い。こんなことで泣くほど、ヤワじゃないはずなのに。
「……うっ…ふ……」
気管支はヒリヒリと熱く、身体は溶けてしまいそうなほど重かった。
その時、息を飲むほどの甲高さで、インターホンがなった。それと共に、ドンドンと穏やかではないノック。
誰?
「僕だ、藤崎くん。いるんだろう?」
熱のあまり、幻聴でも聞こえてきたのかと思った。でも、これは確かにあの人の声だ。ああ、神様――――。
あたしは最後の力を振り絞ってベッドを降りると、ふらつく身体を壁で支えながら、ようやく玄関の鍵を開けた。それがドアの向こうでもわかったのだろう、すぐにドアが開けられて、あたしはそのまま前に倒れこんだ。
「仔猫ちゃんっ!」
それを受け止めたのは、甘く甘く切ない香り。
化粧はしてないし…ジャージだし、最低だ。こんなの好きな人に見せる格好じゃない。好きな、人?
「せんせ…どうして?」
「君は無断でゼミを休むような子じゃないだろう。最近、風邪気味なのも気付いていたからね」
そう言って微笑む橘を見た瞬間、一度は止まった涙が再び溢れてきた。
「せん、せ……あたし、あたしっ……」
どうしてこの男はこんなにもタイミングがいいのだろう。あたしを抱きしめる腕は雨で湿っていたけれど、温かく、それだけで精気が戻るような心地だった。それでもそのまま玄関先で崩れ落ちるあたしを、橘は抱き上げてベッドまで運んでくれた。ベッドへあたしを横たえると、橘はそのままあたしに覆い被さる。
「橘、せんせ……」
「僕に心配をさせるな」
その表情は窺い知れない。いつだってそうだ。この人は、肝心なときにその表情を見せてくれない。
今もだ。
それを知る前に、唇を奪われたから。
風邪が移るからと懸命に唇を結ぶあたしに、橘の舌はやすやすとそれを越えて口腔に侵入してくる。この男は、キスまで甘い――――。
角度を変え、何度も何度も橘はあたしの存在を確かめるように口付けた。
「んっ……ふ、ぁん……」
息苦しさに喘ぐのか、快感に喘ぐのか、自分でもわからないくらいの深い口付けの後で、橘は小さく「熱いな」と呟いた。
「病院にはいったのかい?」
橘は名残惜しげに唇を離すと、体勢を変え、ベッドの端に腰掛けた。
あたしはほうっとする頭で、力なく首を振った。聞きたいことはたくさんあるはずなのに、上手く日本語にならなくて。
「まだ診療時間だから、病院に行こう」
「こんな、格好だし……着替えなきゃ」
「そのままでいい。君の魅力は着ているもので左右されるものではないだろう?」
「お金、いくらあったかな……」
「そんなもの僕がいくらでも何とかする」
「水…飲みたい……」
「買ってきた。飲んだら、行くよ」
情けない。こんなことが言いたいんじゃないのに。
橘は来る途中で買ってきたのだろう、コンビニの袋からミネラルウォーターのペットボトルのふたを開けると、あたしが起き上がるのを手伝ってくれる。背中に回された手が思っていた以上に大きくて、安心感。
その手に支えられながら飲んだ水は、今まで飲んだ水で一番美味しかった。
橘はしばらく水を飲み続けるあたしを無言で見つめていたが、半分ほど飲んだところで「行こうか」とあたしを促した。
***
マンションを出ると、漆黒のアウディのセダンが停まっていて、あたしはジャージ姿のまま助手席に乗せられた。車の中はやっぱり香水のいい匂い。
「ふふっ……」