ネモフィラの中君は何度でも僕を忘れる
最初は、小さな違和感だった。
鍵の場所を一瞬忘れる。
昨日話した内容が思い出せない。
スマホを手にして「何をしようとしてたんだっけ」と立ち止まる。
雪月はそのたびに笑ってごまかした。
「ちょっと、疲れてるだけですね。」
縁も深くは考えなかった。
仕事が忙しい時期だからだろう、と。
けれど、少しずつそれは積み重なっていく。
職場でのメモが増えた。
確認しても、同じことを何度も聞いてしまう。
「さっき言ったよね」と言われることが増えた。
ある日、帰宅した雪月は玄関で立ち止まったまま動かなくなった。
「どうした?」
縁が声をかけると、雪月はゆっくりと顔を上げる。
「……ごめんなさい。」
「何が?」
「今日、会社で……お客さんの名前、思い出せなくて。」
言葉が途切れる。
「何回も聞いてしまって……怒らせちゃいました。」
縁は少しだけ黙って、それから靴を脱いだ。
「それだけで怒る人ばかりじゃないよ。」
「でも……前は、こんなことなかったんです。」
雪月の声は小さくなる。
夜。
二人で夕食を食べていても、雪月はふと箸を止めることが増えた。
「これ、さっきも食べた気がする……」
「今、何の話してましたっけ……」
そのたびに、縁は静かに答えた。
「大丈夫。」
「ゆっくりでいい。」
けれど、雪月の不安は少しずつ顔を出していく。
「私、ちゃんとできてますか?」
ある夜、そう尋ねられたとき。
縁は一瞬だけ言葉に詰まった。
できている、と言いたい。
何も変わっていないと言いたい。
でも、現実は確かに変わり始めていた。
「雪月。」
縁はゆっくりと彼女を見た。
「無理して一人で抱えなくていい。」
雪月は少しだけ笑おうとして、うまく笑えなかった。
「怖いんです。」
「何が?」
「自分が、自分じゃなくなるみたいで。」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになる。
縁はしばらく黙ったあと、短く言った。
「一緒に考えよう。」
それは優しい言葉だった。
けれど同時に、これから先の時間に確かに影が差し始めていることを、二人ともどこかで感じていた。
不明の体調不良は、日を追うごとに形を変えていった。
眠っても疲れが抜けない日が増え、言葉が途中で抜け落ちる。
昨日のことが、まるで遠い記憶のように感じることもあった。
雪月は「大丈夫です」と笑おうとしたが、その笑顔には少しだけ影が混じっていた。
縁に勧められ、まずは近くの主治医の病院を受診した。
血液検査、尿検査。
結果はどれも「異常なし」。
「内科的には特に問題はありませんね。」
そう告げられた言葉に、雪月は少し安心したようで、同時にどこか納得できない顔をしていた。
それでも症状は続いた。
縁と相談し、大きな病院の総合診療科を紹介された。
白い診察室。
淡々とした空気の中で、医師は一枚のプリントを差し出した。
「これ、いくつか質問がありますので、はい・いいえ・どちらでもないに丸をつけてください。」
雪月は静かに頷き、一つひとつに答えていった。
不安、疲労、集中力の低下、気分の波。
書き終えた紙を医師に渡すと、再び検査が続いた。
血液検査、尿検査。
結果はやはり「内科的には問題なし」。
医師はカルテを見つめながら、少しだけ言葉を選ぶように言った。
「桜庭さん、抑うつ状態の点数が高いですね。75点です。」
雪月はその数字を、うまく理解できないまま聞いていた。
「心療内科、近くにあるか探しますね」
「大在のほうに、心のクリニックがありますね。」
「では紹介状を書きます。一度そちらで詳しく見てもらいましょう。」
帰宅後、雪月は静かにスマートフォンを開いた。
紹介状を送ってもらい、予約を取る。
画面を見つめる指先が、少しだけ震えていた。
心のクリニックの診察は、思っていたよりも淡々と進んだ。
問診。心理検査。生活の記録。
医師は結果を見ながら、静かに言った。
「双極性障害の可能性が高いですね。」
その言葉は、雪月の中にゆっくりと沈んでいく。
「ただ、これは今後変わる可能性もあります。」
そう付け加えられた言葉に、わずかな希望が残った。
それでも、半年が過ぎても診断は変わらなかった。
薬と通院、繰り返す波。
良い日と、そうでない日の差。
そして何よりも、雪月自身が「自分が自分でない時間」が増えていくことに怯えていた。
縁はそのすべてを隣で見ていた。
何も劇的なことは起きない。
ただ、静かに、確実に。
二人の「普通の日常」は、少しずつ形を変え始めていた。
その日、雪月の両親から呼び出されたのは、夕方だった。
場所は静かな喫茶店。
窓の外では、雨が細かく降っている。
テーブルを挟んで向かい合った両親は、どこか疲れたような表情をしていた。
「縁くん。」
雪月の父が、静かに口を開いた。
「入籍する前で……本当に良かったと思っています。」
縁は一瞬、言葉の意味を探すように黙った。
続けて、母が少しだけ声を震わせながら言う。
「君の戸籍に傷がつかなくて済むから……」
その言葉に、縁の眉がわずかに動く。
「別れてほしいんです。」
空気が一瞬で重くなる。
父は視線を落としたまま続けた。
「双極性障害が治るかどうかも分からない状態で、これ以上あなたを巻き込みたくない。」
「半年も支えてくれたことは、本当に感謝しています。」
母も小さく頷く。
「その分のお礼は、きちんとお支払いします。迷惑をかけたままにはしたくないので。」
雨の音だけが、しばらく店内に響いていた。
縁はゆっくりと息を吐く。
そして、静かに顔を上げた。
「……なぜですか。」
短い言葉だった。
怒りでも、否定でもない。
ただ、理解できないという声だった。
父は少しだけ目を伏せる。
「この先、彼女はもっと不安定になるかもしれない。あなたの人生まで壊れてしまう可能性がある。」
「だからです。」
縁は一度だけ目を閉じた。
そして、もう一度静かに言った。
「それは、誰が決めるんですか。」
母が息をのむ。
縁はまっすぐ前を見たまま続けた。
「俺が雪月と一緒にいるって決めたのは、病気になる前でも後でもありません。」
「今の彼女です。」
少しだけ間を置く。
「支えるって、そういうことじゃないんですか。」
雨の音が強くなる。
父は何も言えなかった。
縁は椅子から立ち上がりかけて、もう一度だけ言った。
「お金はいりません。」
「俺は、別れを買われるつもりもありません。」
そして静かに頭を下げた。
「失礼します。」
店を出ると、雨は少しだけ強くなっていた。
けれど縁は傘をささず、そのまま歩き出した。
胸の中には、ただ一つだけ残っていた。
──別れる理由が、どこにも見つからなかった。
その夜、縁が雪月の部屋に着いたとき、そこはすでに静かに片付けが始まっていた。
雪月の両親が、荷物を一つずつダンボールに詰めている。
「雪月。」
縁が声をかけると、彼女は小さく振り向いた。
目元は赤く、でも涙はもう出ていなかった。
「ごめんね……」
それが最初の言葉だった。
何に対しての「ごめんね」なのか、縁にはすぐには分からなかった。
雪月の母が、縁のほうへ歩み寄る。
「縁くん。」
静かな声だった。
「申し訳ないけれど、これ以上あなたに負担をかけたくないの。」
父も続ける。
「君はまだ若い。これからの人生がある。」
「雪月のことは、私たちが見ます。」
少しだけ間を置いて、母が言った。
「君には……幸せになってほしいの。」
その言葉は、優しさの形をしていた。
けれど縁の胸には、冷たく沈んでいくものがあった。
雪月は荷物の前にしゃがみ込みながら、縁のほうを見上げる。
何かを言おうとして、唇が震える。
でも言葉は出てこなかった。
代わりに、小さく頭を下げる。
縁は一歩、雪月に近づいた。
「雪月。」
名前を呼ぶだけで、胸の奥が痛む。
彼女はやっと視線を合わせた。
その目は、どこか遠くを見ているようだった。
まるで、今ここにいるのに、少しずつここから離れていくように。
縁は静かに息を吸った。
「……行くのか。」
雪月は一瞬だけ唇を噛み、それから小さく頷いた。
「……ごめんなさい。」
また同じ言葉だった。
縁は首を振る。
「謝ることじゃない。」
声は落ち着いていた。
けれど、その静けさの中に、どうしようもない揺れがあった。
雪月の父が言う。
「縁くん、本当にありがとう。」
母も続ける。
「あなたのおかげで、雪月は救われていたと思います。」
ダンボールの蓋が閉じられていく音が、やけに大きく響いた。
雪月は立ち上がり、最後にもう一度だけ縁を見た。
「……縁さん。」
かすれた声。
縁は短く答える。
「うん。」
言葉が続かない。
何を言っても壊れてしまいそうで、どれも選べなかった。
雪月は少しだけ笑おうとして、うまく笑えなかった。
それでも、必死に言った。
「……ありがとう。」
縁は一瞬だけ目を閉じた。
そして、静かに言う。
「またな。」
その言葉が、嘘になるかもしれないことを、二人とも分かっていた。
玄関のドアが閉まる音がしたあと、部屋には段ボールと沈黙だけが残った。
縁はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
ただ一つだけ、胸の中で繰り返されていた。
──まだ、終わってない。
雪月の部屋から荷物が運び出されたあと、部屋は急に広く見えた。
静けさだけが残る中で、縁はテーブルの上に気づいた。
そこに、いくつもの封筒が重ねられている。
丁寧に並べられた手紙。
小さなプレゼント。
折り紙で作られた花。
どれも、雪月がこれまで縁に渡してきたものだった。
縁は一番上の封筒をそっと手に取る。
少しだけ震える指で、封を開けた。
中には、雪月の文字があった。
――縁くんへ
ありがとう。ごめんなさい。
たくさん幸せにしてくれたのに。
今もずっと、おばあちゃんになってもあなたをずっとずっと愛してます。
雪月より
文字を読み進めるうちに、視界がにじんでいく。
呼吸がうまくできない。
最後の一文を読んだところで、縁は手紙を持ったまま動けなくなった。
「……なんでだよ」
声にならない声が漏れる。
床に落ちそうになった手紙を、慌てて握り直す。
涙が止まらなかった。
静かな部屋の中で、縁だけが崩れていく。
その頃。
雪月は実家の部屋にいた。
見慣れない環境、知らない音、変わってしまった生活。
少し前のことさえ、うまく繋がらない。
さっき話したことも、すぐに遠くなる。
「縁さん……」
そう呟いても、その名前の輪郭が曖昧になっていく。
胸の奥に確かにあるはずの感情だけが、形を失わずに残っていた。
好きだという気持ちだけが、最後まで消えないままそこにあった。
縁はテーブルの前で、しばらく動けなかった。
手紙を胸に抱えるようにして、ただ泣いていた。
何も終わっていないのに、すべてが離れていくような感覚だけが残る。
その夜、縁は初めて気づく。
──守ることと、失わないことは、同じじゃない。
そしてそれでもなお、手の中の文字だけは、確かに彼女のままだった。
鍵の場所を一瞬忘れる。
昨日話した内容が思い出せない。
スマホを手にして「何をしようとしてたんだっけ」と立ち止まる。
雪月はそのたびに笑ってごまかした。
「ちょっと、疲れてるだけですね。」
縁も深くは考えなかった。
仕事が忙しい時期だからだろう、と。
けれど、少しずつそれは積み重なっていく。
職場でのメモが増えた。
確認しても、同じことを何度も聞いてしまう。
「さっき言ったよね」と言われることが増えた。
ある日、帰宅した雪月は玄関で立ち止まったまま動かなくなった。
「どうした?」
縁が声をかけると、雪月はゆっくりと顔を上げる。
「……ごめんなさい。」
「何が?」
「今日、会社で……お客さんの名前、思い出せなくて。」
言葉が途切れる。
「何回も聞いてしまって……怒らせちゃいました。」
縁は少しだけ黙って、それから靴を脱いだ。
「それだけで怒る人ばかりじゃないよ。」
「でも……前は、こんなことなかったんです。」
雪月の声は小さくなる。
夜。
二人で夕食を食べていても、雪月はふと箸を止めることが増えた。
「これ、さっきも食べた気がする……」
「今、何の話してましたっけ……」
そのたびに、縁は静かに答えた。
「大丈夫。」
「ゆっくりでいい。」
けれど、雪月の不安は少しずつ顔を出していく。
「私、ちゃんとできてますか?」
ある夜、そう尋ねられたとき。
縁は一瞬だけ言葉に詰まった。
できている、と言いたい。
何も変わっていないと言いたい。
でも、現実は確かに変わり始めていた。
「雪月。」
縁はゆっくりと彼女を見た。
「無理して一人で抱えなくていい。」
雪月は少しだけ笑おうとして、うまく笑えなかった。
「怖いんです。」
「何が?」
「自分が、自分じゃなくなるみたいで。」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになる。
縁はしばらく黙ったあと、短く言った。
「一緒に考えよう。」
それは優しい言葉だった。
けれど同時に、これから先の時間に確かに影が差し始めていることを、二人ともどこかで感じていた。
不明の体調不良は、日を追うごとに形を変えていった。
眠っても疲れが抜けない日が増え、言葉が途中で抜け落ちる。
昨日のことが、まるで遠い記憶のように感じることもあった。
雪月は「大丈夫です」と笑おうとしたが、その笑顔には少しだけ影が混じっていた。
縁に勧められ、まずは近くの主治医の病院を受診した。
血液検査、尿検査。
結果はどれも「異常なし」。
「内科的には特に問題はありませんね。」
そう告げられた言葉に、雪月は少し安心したようで、同時にどこか納得できない顔をしていた。
それでも症状は続いた。
縁と相談し、大きな病院の総合診療科を紹介された。
白い診察室。
淡々とした空気の中で、医師は一枚のプリントを差し出した。
「これ、いくつか質問がありますので、はい・いいえ・どちらでもないに丸をつけてください。」
雪月は静かに頷き、一つひとつに答えていった。
不安、疲労、集中力の低下、気分の波。
書き終えた紙を医師に渡すと、再び検査が続いた。
血液検査、尿検査。
結果はやはり「内科的には問題なし」。
医師はカルテを見つめながら、少しだけ言葉を選ぶように言った。
「桜庭さん、抑うつ状態の点数が高いですね。75点です。」
雪月はその数字を、うまく理解できないまま聞いていた。
「心療内科、近くにあるか探しますね」
「大在のほうに、心のクリニックがありますね。」
「では紹介状を書きます。一度そちらで詳しく見てもらいましょう。」
帰宅後、雪月は静かにスマートフォンを開いた。
紹介状を送ってもらい、予約を取る。
画面を見つめる指先が、少しだけ震えていた。
心のクリニックの診察は、思っていたよりも淡々と進んだ。
問診。心理検査。生活の記録。
医師は結果を見ながら、静かに言った。
「双極性障害の可能性が高いですね。」
その言葉は、雪月の中にゆっくりと沈んでいく。
「ただ、これは今後変わる可能性もあります。」
そう付け加えられた言葉に、わずかな希望が残った。
それでも、半年が過ぎても診断は変わらなかった。
薬と通院、繰り返す波。
良い日と、そうでない日の差。
そして何よりも、雪月自身が「自分が自分でない時間」が増えていくことに怯えていた。
縁はそのすべてを隣で見ていた。
何も劇的なことは起きない。
ただ、静かに、確実に。
二人の「普通の日常」は、少しずつ形を変え始めていた。
その日、雪月の両親から呼び出されたのは、夕方だった。
場所は静かな喫茶店。
窓の外では、雨が細かく降っている。
テーブルを挟んで向かい合った両親は、どこか疲れたような表情をしていた。
「縁くん。」
雪月の父が、静かに口を開いた。
「入籍する前で……本当に良かったと思っています。」
縁は一瞬、言葉の意味を探すように黙った。
続けて、母が少しだけ声を震わせながら言う。
「君の戸籍に傷がつかなくて済むから……」
その言葉に、縁の眉がわずかに動く。
「別れてほしいんです。」
空気が一瞬で重くなる。
父は視線を落としたまま続けた。
「双極性障害が治るかどうかも分からない状態で、これ以上あなたを巻き込みたくない。」
「半年も支えてくれたことは、本当に感謝しています。」
母も小さく頷く。
「その分のお礼は、きちんとお支払いします。迷惑をかけたままにはしたくないので。」
雨の音だけが、しばらく店内に響いていた。
縁はゆっくりと息を吐く。
そして、静かに顔を上げた。
「……なぜですか。」
短い言葉だった。
怒りでも、否定でもない。
ただ、理解できないという声だった。
父は少しだけ目を伏せる。
「この先、彼女はもっと不安定になるかもしれない。あなたの人生まで壊れてしまう可能性がある。」
「だからです。」
縁は一度だけ目を閉じた。
そして、もう一度静かに言った。
「それは、誰が決めるんですか。」
母が息をのむ。
縁はまっすぐ前を見たまま続けた。
「俺が雪月と一緒にいるって決めたのは、病気になる前でも後でもありません。」
「今の彼女です。」
少しだけ間を置く。
「支えるって、そういうことじゃないんですか。」
雨の音が強くなる。
父は何も言えなかった。
縁は椅子から立ち上がりかけて、もう一度だけ言った。
「お金はいりません。」
「俺は、別れを買われるつもりもありません。」
そして静かに頭を下げた。
「失礼します。」
店を出ると、雨は少しだけ強くなっていた。
けれど縁は傘をささず、そのまま歩き出した。
胸の中には、ただ一つだけ残っていた。
──別れる理由が、どこにも見つからなかった。
その夜、縁が雪月の部屋に着いたとき、そこはすでに静かに片付けが始まっていた。
雪月の両親が、荷物を一つずつダンボールに詰めている。
「雪月。」
縁が声をかけると、彼女は小さく振り向いた。
目元は赤く、でも涙はもう出ていなかった。
「ごめんね……」
それが最初の言葉だった。
何に対しての「ごめんね」なのか、縁にはすぐには分からなかった。
雪月の母が、縁のほうへ歩み寄る。
「縁くん。」
静かな声だった。
「申し訳ないけれど、これ以上あなたに負担をかけたくないの。」
父も続ける。
「君はまだ若い。これからの人生がある。」
「雪月のことは、私たちが見ます。」
少しだけ間を置いて、母が言った。
「君には……幸せになってほしいの。」
その言葉は、優しさの形をしていた。
けれど縁の胸には、冷たく沈んでいくものがあった。
雪月は荷物の前にしゃがみ込みながら、縁のほうを見上げる。
何かを言おうとして、唇が震える。
でも言葉は出てこなかった。
代わりに、小さく頭を下げる。
縁は一歩、雪月に近づいた。
「雪月。」
名前を呼ぶだけで、胸の奥が痛む。
彼女はやっと視線を合わせた。
その目は、どこか遠くを見ているようだった。
まるで、今ここにいるのに、少しずつここから離れていくように。
縁は静かに息を吸った。
「……行くのか。」
雪月は一瞬だけ唇を噛み、それから小さく頷いた。
「……ごめんなさい。」
また同じ言葉だった。
縁は首を振る。
「謝ることじゃない。」
声は落ち着いていた。
けれど、その静けさの中に、どうしようもない揺れがあった。
雪月の父が言う。
「縁くん、本当にありがとう。」
母も続ける。
「あなたのおかげで、雪月は救われていたと思います。」
ダンボールの蓋が閉じられていく音が、やけに大きく響いた。
雪月は立ち上がり、最後にもう一度だけ縁を見た。
「……縁さん。」
かすれた声。
縁は短く答える。
「うん。」
言葉が続かない。
何を言っても壊れてしまいそうで、どれも選べなかった。
雪月は少しだけ笑おうとして、うまく笑えなかった。
それでも、必死に言った。
「……ありがとう。」
縁は一瞬だけ目を閉じた。
そして、静かに言う。
「またな。」
その言葉が、嘘になるかもしれないことを、二人とも分かっていた。
玄関のドアが閉まる音がしたあと、部屋には段ボールと沈黙だけが残った。
縁はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
ただ一つだけ、胸の中で繰り返されていた。
──まだ、終わってない。
雪月の部屋から荷物が運び出されたあと、部屋は急に広く見えた。
静けさだけが残る中で、縁はテーブルの上に気づいた。
そこに、いくつもの封筒が重ねられている。
丁寧に並べられた手紙。
小さなプレゼント。
折り紙で作られた花。
どれも、雪月がこれまで縁に渡してきたものだった。
縁は一番上の封筒をそっと手に取る。
少しだけ震える指で、封を開けた。
中には、雪月の文字があった。
――縁くんへ
ありがとう。ごめんなさい。
たくさん幸せにしてくれたのに。
今もずっと、おばあちゃんになってもあなたをずっとずっと愛してます。
雪月より
文字を読み進めるうちに、視界がにじんでいく。
呼吸がうまくできない。
最後の一文を読んだところで、縁は手紙を持ったまま動けなくなった。
「……なんでだよ」
声にならない声が漏れる。
床に落ちそうになった手紙を、慌てて握り直す。
涙が止まらなかった。
静かな部屋の中で、縁だけが崩れていく。
その頃。
雪月は実家の部屋にいた。
見慣れない環境、知らない音、変わってしまった生活。
少し前のことさえ、うまく繋がらない。
さっき話したことも、すぐに遠くなる。
「縁さん……」
そう呟いても、その名前の輪郭が曖昧になっていく。
胸の奥に確かにあるはずの感情だけが、形を失わずに残っていた。
好きだという気持ちだけが、最後まで消えないままそこにあった。
縁はテーブルの前で、しばらく動けなかった。
手紙を胸に抱えるようにして、ただ泣いていた。
何も終わっていないのに、すべてが離れていくような感覚だけが残る。
その夜、縁は初めて気づく。
──守ることと、失わないことは、同じじゃない。
そしてそれでもなお、手の中の文字だけは、確かに彼女のままだった。