ネモフィラの中君は何度でも僕を忘れる
季節が少しずつ変わっていく中で、雪月の時間は曖昧になっていった。

実家の部屋は静かで、外の音も遠い。

最初のうちは、写真を見るたびに胸が痛んだ。

スマホのアルバムを開くと、そこには縁と過ごした日々が並んでいる。

湯布院の湯けむりの中で笑っている写真。
門司港の海を背景にした横顔。
ひまわり畑で、指輪を受け取ったあの日。
車の中で眠ってしまった自分の顔。

見るたびに涙が出た。

「縁さん……」

そう名前を呼ぶだけで、心がぎゅっと締め付けられる。

けれど、その痛みも少しずつ薄れていく。

ある日。

雪月はいつものように写真を開いた。

縁の顔がそこにあった。

優しく笑っているはずのその顔を見て、胸の奥が少しだけざわつく。

「……この人。」

指先で画面をなぞる。

「誰だったかな……」

すぐに思い出そうとする。

けれど、記憶が途中で途切れる。

会ったことがある。
一緒に過ごしたはず。
大事な人だったはず。

そこまでは分かるのに、「誰か」がどうしてもはっきりしない。

「どこかで……会った気がする。」

そう呟いた瞬間、涙が一粒だけ落ちた。

理由の分からない涙だった。

胸の奥にだけ、名前のない感情が残っている。

会いたいような、謝りたいような、でももう届かないような。

縁の名前は、少しずつ記憶の表面から消えていく。

それでも、心の奥だけはまだ覚えていた。

名前を忘れても、感情だけが残るということを。

そしてそれが、雪月を一番静かに苦しめていた。
1年、2年と時間は静かに過ぎていった。

雪月の毎日は、波のように揺れながらも、少しずつ形を変えていた。

覚えていることと、覚えていないことが混ざる日々。

それでも、心の奥にだけ残る感情は、なぜか消えなかった。

ある晴れた日の朝。

窓から差し込む光を見ながら、雪月はふと立ち上がった。

「……ネモフィラ。」

理由は分からない。

ただ、その言葉だけが、胸の奥から浮かび上がってきた。

どこかへ行きたい気持ち。

青い景色を見たいという衝動。

それだけが、はっきりとそこにあった。

「見に行きたいな……」

そう呟いた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

でも、その痛みの意味は分からない。

ただ、涙が出そうになる。

雪月はゆっくりとスマホを開き、検索欄に「ネモフィラ」と打ち込む。

青い花畑の写真が並ぶ。

その中に、どこかで見たことがあるような景色があった。

風に揺れる青い海。

その中に、ぽつんと白い花。

「……きれい。」

そう言ったあと、なぜか息が詰まる。

誰かと一緒に見た気がする。

誰かが隣にいた気がする。

でも、その「誰か」がどうしても思い出せない。

「……行ってみようかな。」

雪月は小さく呟いた。

その声は、昔よりも少しだけ静かだった。

けれど、確かに前へ向かおうとしていた。

忘れてしまったはずの何かに、もう一度触れようとするように。

その胸の奥で、名前のない温度だけが、かすかに灯っていた。
車は静かに駐車場へと入っていった。

「ここでいいのか?」

運転席の父が確認する。

「うん。ありがとう。」

雪月は小さく頷き、シートベルトを外した。

扉を開けると、少し冷たい風が頬をかすめる。

青い空の下、記憶のどこかに引っかかるような景色が広がっていた。

「気をつけてな。」

父の声に、雪月はもう一度小さく頷いた。

「すぐ戻るね。」

そう言って、ひとりで歩き出す。

園内へ続く道を進むたびに、胸の奥が少しだけざわついた。

理由のない懐かしさ。

知らないはずなのに、知っているような感覚。

やがて視界が開ける。

一面に広がるネモフィラ。

青い風が、波のように揺れていた。

「……わあ。」

思わず息がこぼれる。

何度見ても綺麗だと思える景色。

なのに、なぜか胸が締めつけられる。

雪月はゆっくりと歩き出した。

花の間を進みながら、時々立ち止まる。

「ここ……来たことある気がする。」

そう呟いた瞬間、風が強く吹いた。

髪が揺れ、視界が少しだけぼやける。

青い花の中に、ぽつりと白いネモフィラが見えた。

その瞬間、胸の奥が強く反応する。

「……あれ?」

涙が勝手に溢れた。

理由が分からない。

悲しいのか、嬉しいのか、それすら分からない。

ただ、その白い花から目が離せなかった。

誰かがいた気がする。

隣に立っていた気がする。

名前も顔も思い出せないのに、確かにそこに「誰か」がいた。

雪月はその場にしゃがみ込む。

「……だれ?」

声は風に溶けて消える。

返事はない。

それでも、胸の奥だけが静かに痛んでいた。

忘れてしまったはずのものが、まだ確かにここに残っている。

青い世界の中で、たったひとり。

思い出せないまま、思い出しかけている時間だけが流れていった。
ネモフィラの海の中で、雪月はしゃがみ込んだまま動けなかった。

涙は止まらず、理由も分からないまま胸だけが痛い。

「……だれ……?」

その声は風に消えていく。

そのとき、背後から足音がした。

「大丈夫ですか?」

低く、落ち着いた声。

雪月はゆっくりと振り向く。

そこにいたのは、見知らぬはずなのに、どこか胸の奥がざわつく男性だった。

「……あの……」

うまく言葉が出ない。

立ち上がろうとした雪月の腕を、縁はそっと支えた。

「ここ、座りましょう。」

近くのベンチまで、ゆっくりと歩く。

その間も、雪月は何度も彼の横顔を見た。

知らない。
知らないはずなのに。

なのに、涙が止まらない。

ベンチに座らせると、縁は少しだけ距離を取って隣に座った。

雪月はハンカチを握りしめたまま、小さく息を整える。

縁は静かに前を見て、それから言った。

「初めまして。」

雪月が顔を上げる。

「藤井縁です。」

その名前が空気の中に落ちた瞬間、雪月の胸が強く痛んだ。

「……ふじい……えん……」

口の中でその音を繰り返す。

知っている気がする。

でも、思い出せない。

縁は続ける。

「ここ、よく来るんですか?」

雪月は少し戸惑いながら首を振る。

「今日、初めて……のはずです。」

そう言ったあと、自分でも分からない涙がまた落ちた。

縁は何も言わず、ただ静かに頷く。

「そうですか。」

それだけ。

優しい距離。

近すぎないのに、なぜか安心する距離。

雪月はネモフィラの方を見ながら、かすれた声で呟いた。

「ここ……なんか、すごく……悲しいです。」

縁は少しだけ目を伏せたあと、ゆっくりと言った。

「悲しいって感じるなら、それはちゃんと意味があると思います。」

雪月はその言葉に、また涙を流す。

理由は分からない。

でも、この人の言葉だけは、なぜか胸に届いた。

風が青い花を揺らす。

白いネモフィラが、その中で静かに揺れていた。

思い出せないまま、何かが確かに戻りかけている。

そんな時間だった。

ネモフィラの風が、少し強く吹いた。

青い花が揺れて、その中に立つ二人の距離だけが静かに縮まっていく。

雪月は涙を拭くこともできず、ただ縁を見つめていた。

「……ありがとうございます。」

かすれた声のあと、何かが胸の奥でほどける。

一瞬だった。

途切れていた糸が、ほんの少しだけ繋がるような感覚。

「……縁くん?」

その名前を口にした瞬間、雪月の瞳が揺れた。

「逢いたかった……」

声が震える。

「逢いたかった……あなたと、いたかった……」

涙が止まらないまま、言葉だけが溢れていく。

縁はその場から動かず、静かに頷いた。

「……大丈夫。」

「大丈夫だよ。」

その声は、昔と同じ温度をしていた。

雪月は小さく息を吸う。

「私……」

言葉が途切れる。

それでも、心の奥から出てきたものだけは止められなかった。

「愛してます……」

その瞬間、縁の表情がほんの少しだけ崩れた。

何も言わずに、一歩近づく。

そして、ゆっくりと雪月を抱きしめた。

強くはない。

でも、離さないと決めた腕だった。

雪月はその胸に顔を埋める。

「……やっと……」

言葉にならない声が、縁の服を濡らす。

縁は低く、静かに言った。

「遅くなって、ごめん。」

風は止まない。

ネモフィラは揺れ続ける。

それでもその場所だけは、時間が少しだけ戻ったように静かだった。

忘れられたはずの名前と、消えかけたはずの記憶が、もう一度同じ温度で重なっていく。

二人はそのまま、しばらく動かなかった。
ネモフィラの風が、さっきと同じように静かに吹いていた。

青い花が揺れて、さっき抱きしめられた温度だけがまだ胸に残っている。

雪月は涙を拭きながら、ゆっくりと顔を上げた。

「……あの……」

そこにいたはずの“安心できる人”の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。

目の前の男性を見つめる。

さっきまで確かに「縁くん」と呼んだはずなのに、その名前がもう遠い。

「……ごめんなさい。」

雪月は小さく後ずさるようにして言った。

「私……知り合い、でしたか?」

その一言に、空気が止まる。

縁はすぐには答えなかった。

ただ、雪月の顔を見ていた。

さっきまで確かにあった“戻ってきた時間”が、また静かにほどけていくのを見ているようだった。

「……そうですね。」

縁は少しだけ目を伏せて、静かに言った。

「知り合い、でした。」

雪月は申し訳なさそうに眉を下げる。

「すみません……なんか、すごく泣いてしまって……」

胸の奥に、理由の分からない痛みだけが残っている。

でも、その理由は掴めない。

縁はゆっくりと首を振った。

「謝らなくていいです。」

その声は、さっきと同じだった。

優しくて、少しだけ遠い声。

雪月はもう一度、ネモフィラ畑を見た。

青い海のような景色。

その中に、ぽつんと白い花が揺れている。

「……なんでだろう。」

小さく呟く。

「すごく、悲しいです。」

縁はすぐに否定も説明もしなかった。

ただ静かに隣に立っていた。

「それでいいと思います。」

その言葉だけが、風に乗って残る。

雪月はもう一度頭を下げた。

「ありがとうございます……」

そして、ゆっくりと父のいる駐車場の方へ歩き出す。

数歩進んだところで、ふと立ち止まる。

振り返りたい気がした。

でも、何を見たいのか分からない。

ただ胸の奥だけが、まだ誰かを探していた。

縁はその背中を見送る。

声をかけることはしなかった。

ただ、手を握った感覚だけが、まだ指先に残っている。

ネモフィラの風の中で、二人の距離はまた静かに離れていった。

それでも、確かに一度だけ重なった時間は、花の中に残り続けていた。
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