指先で君を覚えている
離れる理由
最近、そらの歌は少しだけ揺れていた。
音が外れているわけじゃない。
でも、どこか遠くで迷っているみたいだった。
るみはそれに気づいていたけれど、何も言えなかった。
図書館の机は、もう二人にとって当たり前の場所になっていた。
点字の手紙が置かれ、そらがそれを指でなぞり、
そのあとに歌が返ってくる。
それが“会話”だった。
けれどその日だけは、違った。
そらは手紙に触れたまま、しばらく動かなかった。
いつもより長い沈黙。
るみは胸の奥が少しだけざわつくのを感じる。
「……何か、あった?」
思わずそう聞いてしまう。
そらはすぐには答えなかった。
指先が、点字の上をゆっくりと動く。
まるで言葉を探しているみたいに。
そして、小さく息を吐いた。
「ねえ」
その声は、いつもより少しだけ硬かった。
「少し、距離を置いたほうがいいかもしれない」
るみの指が止まる。
意味はすぐには理解できなかった。
「……どういうこと?」
そらはすぐに答えない。
代わりに、机の上の手紙をそっと閉じる。
その仕草が、妙に丁寧で、怖かった。
「君といるの、嫌とかじゃない」
そう言ってから、少し間を置く。
「むしろ逆なんだ」
るみは息を止めたまま、次の言葉を待つ。
そらはゆっくりと続けた。
「……近くにいるほど、ちゃんと残したくなる」
「残す?」
そらは小さくうなずく。
「でもさ、それってさ」
声が少しだけ揺れる。
「もし僕の目が、もっと見えなくなったら……」
そこまで言って、言葉が途切れた。
図書館の静けさが、急に重くなる。
そらは視線を上げないまま続ける。
「君のこと、ちゃんと覚えられなくなるのが怖い」
るみはその言葉の意味を、すぐに理解できなかった。
覚えられなくなる?
でも、心は先に答えを出していた。
“見えなくなる”ということは、
“失っていく”ということだ。
そらは、少しだけ笑った。
でもそれは優しい笑い方じゃなかった。
自分を納得させるための、弱い笑い方だった。
「だからさ」
そらはようやく、るみのほうに顔を向ける。
もちろん、目は合わない。
それでも、まっすぐ向かってくる気配だけがあった。
「しばらく、会うのやめよう」
その瞬間、るみの中で何かが静かに崩れた。
声は出なかった。
止める理由も、言葉も、全部頭の中で散らばっていく。
そらは続ける。
「会わなかったら、ちゃんと覚えられる気がする」
「君のことも、自分のことも」
その言葉は、優しさだった。
でも同時に、逃げでもあった。
るみはようやく、小さく声を出した。
「……それ、本当に正しいの?」
そらはすぐには答えない。
少しだけ長い沈黙のあと、静かに言った。
「正しいかどうかは、わからない」
「でも、これしか思いつかなかった」
その言葉のあと、そらはゆっくり立ち上がる。
机の上の点字の手紙には、もう触れなかった。
一歩、二歩。
離れていく背中。
るみは動けなかった。
呼び止めることもできないまま、ただ見ていた。
そらは入口の前で一度だけ止まる。
そして振り返らずに言った。
「……ありがとう」
それは別れの言葉みたいで、
でも完全な別れじゃなかった。
扉が閉まる音がしても、
図書館の静けさは戻ってこなかった。
そこに残ったのは、まだ言葉にならない“好き”だけだった。
音が外れているわけじゃない。
でも、どこか遠くで迷っているみたいだった。
るみはそれに気づいていたけれど、何も言えなかった。
図書館の机は、もう二人にとって当たり前の場所になっていた。
点字の手紙が置かれ、そらがそれを指でなぞり、
そのあとに歌が返ってくる。
それが“会話”だった。
けれどその日だけは、違った。
そらは手紙に触れたまま、しばらく動かなかった。
いつもより長い沈黙。
るみは胸の奥が少しだけざわつくのを感じる。
「……何か、あった?」
思わずそう聞いてしまう。
そらはすぐには答えなかった。
指先が、点字の上をゆっくりと動く。
まるで言葉を探しているみたいに。
そして、小さく息を吐いた。
「ねえ」
その声は、いつもより少しだけ硬かった。
「少し、距離を置いたほうがいいかもしれない」
るみの指が止まる。
意味はすぐには理解できなかった。
「……どういうこと?」
そらはすぐに答えない。
代わりに、机の上の手紙をそっと閉じる。
その仕草が、妙に丁寧で、怖かった。
「君といるの、嫌とかじゃない」
そう言ってから、少し間を置く。
「むしろ逆なんだ」
るみは息を止めたまま、次の言葉を待つ。
そらはゆっくりと続けた。
「……近くにいるほど、ちゃんと残したくなる」
「残す?」
そらは小さくうなずく。
「でもさ、それってさ」
声が少しだけ揺れる。
「もし僕の目が、もっと見えなくなったら……」
そこまで言って、言葉が途切れた。
図書館の静けさが、急に重くなる。
そらは視線を上げないまま続ける。
「君のこと、ちゃんと覚えられなくなるのが怖い」
るみはその言葉の意味を、すぐに理解できなかった。
覚えられなくなる?
でも、心は先に答えを出していた。
“見えなくなる”ということは、
“失っていく”ということだ。
そらは、少しだけ笑った。
でもそれは優しい笑い方じゃなかった。
自分を納得させるための、弱い笑い方だった。
「だからさ」
そらはようやく、るみのほうに顔を向ける。
もちろん、目は合わない。
それでも、まっすぐ向かってくる気配だけがあった。
「しばらく、会うのやめよう」
その瞬間、るみの中で何かが静かに崩れた。
声は出なかった。
止める理由も、言葉も、全部頭の中で散らばっていく。
そらは続ける。
「会わなかったら、ちゃんと覚えられる気がする」
「君のことも、自分のことも」
その言葉は、優しさだった。
でも同時に、逃げでもあった。
るみはようやく、小さく声を出した。
「……それ、本当に正しいの?」
そらはすぐには答えない。
少しだけ長い沈黙のあと、静かに言った。
「正しいかどうかは、わからない」
「でも、これしか思いつかなかった」
その言葉のあと、そらはゆっくり立ち上がる。
机の上の点字の手紙には、もう触れなかった。
一歩、二歩。
離れていく背中。
るみは動けなかった。
呼び止めることもできないまま、ただ見ていた。
そらは入口の前で一度だけ止まる。
そして振り返らずに言った。
「……ありがとう」
それは別れの言葉みたいで、
でも完全な別れじゃなかった。
扉が閉まる音がしても、
図書館の静けさは戻ってこなかった。
そこに残ったのは、まだ言葉にならない“好き”だけだった。