指先で君を覚えている

同じ時間の中で

高校を卒業した春、世界は少しだけ広くなった。

るみは福祉の仕事に就いた。

忙しさは増えたけれど、それでも彼のことを考えない日はなかった。

そらは、以前よりもゆっくりと世界を歩くようになっていた。

見えないものが増えるたびに、言葉の輪郭が少しずつ変わっていく。

それでも彼は、歌うことをやめなかった。

声だけは、ずっと自由だった。

⸻

会う時間は減った。

けれど、関係は途切れなかった。

そらは時々、るみの家の近くまで来ていた。

白杖を持つ手は、もう迷いが少なかった。

「今日、声聞きたくなった」

そんな理由だけで来る日もあった。

るみは笑って、「忙しいのに」と言いながらも、必ず隣に座った。

⸻

そして二人は、少しずつ「日常」を共有するようになっていく。

手紙はもう特別じゃなくなった。

会えない日の埋め合わせではなくて、
“いつもの会話”になっていた。

⸻

るみが20歳になった春。

彼女は一人暮らしを始めた。

小さな部屋だった。

でも、静かで、ちょうどよかった。

最初にそらを招いた日のことを、るみはよく覚えている。

ドアの前で、そらは少しだけ立ち止まっていた。

「ここ?」

「うん」

短いやり取りのあと、そらは部屋に入る。

しばらく何も言わなかった。

ただ、空気を確かめているみたいだった。

やがて、小さく息を吐く。

「いいね、ここ」

その一言で、るみは少しだけ安心した。

⸻

それからの日々は、静かだった。

そらはよく来るようになった。

るみの生活の中に、自然に溶け込んでいった。

料理の音。
玄関の開く音。
夜の歌。

全部が、少しずつ“二人の音”になっていった。

⸻

ある日。

夕方の光が、部屋の床に長く伸びていた。

そらはいつものように、ソファに座っていた。

少しだけ黙っていたあと、ぽつりと言う。

「ねえ」

るみは振り返る。

「ん?」

そらは少しだけ間を置いてから続けた。

「一緒に住みたい」

るみの動きが止まる。

そらは、言葉を選びながら続ける。

「今ももう、ほとんど一緒みたいなもんだけどさ」

小さく笑う。

でも、その笑いは冗談じゃなかった。

「ちゃんと、一緒にいたい」

「これからは、ずっと」

るみはすぐに答えなかった。

その言葉の重さを、静かに受け取っていた。

そらは続ける。

「見えなくなるとか、そういうのも全部含めて」

一度だけ息を吸う。

「ひとりにしたくないし、されたくない」

⸻

部屋の中は静かだった。

外の音が、遠くで揺れているだけ。

るみはゆっくりとそらのほうへ歩く。

そして、そっと言う。

「……いいよ」

そらの指が、少しだけ動く。

るみは続ける。

「一緒にいよう」

「ちゃんと、同じ場所で」

そらは小さく笑った。

でも今度は、安心の笑いだった。
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