指先で君を覚えている

見えなくなるもの

そらの世界は、少しずつ静かになっていった。

見えていた光の輪郭が、曖昧になっていく。

朝の窓も、夕方の影も、
以前ほどはっきりとは感じられない。

それでもそらは、日常を崩さないように歩いていた。

るみの隣でいられるように。



ある日。

そらが少しだけ疲れた声で言った。

「最近さ、前より怖いんだよね」

るみはすぐに気づいた。

その“怖い”が、ただの不安じゃないことを。

何かが変わってきている。

戻れない方向に。



夜。

小さな部屋の中で、るみはそらの隣に座っていた。

いつもより静かだった。

そらの指が、コップの位置を探すのに少し迷う。

その仕草を見て、るみは唇を噛んだ。

そして、ゆっくり言う。

「ねえ、そらくん」

そらが顔を向ける。

もちろん、見えてはいない。

それでも、るみの声には気づく。

「……盲導犬の訓練、受けてみない?」

一瞬、空気が止まった。

そらの指が、ぴたりと止まる。

「犬?」

「うん。ちゃんと歩くの、楽になるし……」

るみは言葉を選びながら続ける。

「一人で出かけるのも、少し安心できると思う」

そらはすぐに返事をしなかった。

静かだった。

長い沈黙のあと、そらは小さく息を吐いた。

「それさ」

少しだけ笑う。

でも、その笑いは優しくなかった。

「るみが無理でしょ」

るみの心臓が、一度だけ跳ねる。

そらは続ける。

「犬、苦手だよね」

その言葉は、やわらかいのに逃げ道を塞いでくる。

るみは一瞬、言葉を失う。

確かに、そうだった。

怖いわけじゃない。

でも、どうしても距離がある。

そらは静かに続ける。

「それにさ」

少しだけ声が低くなる。

「一緒にいるのに、別の“相棒”がいるの、なんか違う気がする」

るみはすぐに否定しようとして、やめた。

そらは続ける。

「俺は今のままでいい」

「るみがいるし」

その言葉は優しいのに、重かった。

るみは小さく息を吐く。

「でも、それじゃ……」

続きが出ない。

そらは首を振る。

「不便でもいい」

「見えなくてもいい」

少し間を置いて、静かに言った。

「るみがいるなら」

その言葉に、るみは何も返せなかった。



夜が深くなる。

そらはソファに座ったまま、少しだけ黙っていた。

るみは台所で水を飲むふりをしながら、心の中を整理できずにいた。

正しいことを言ったはずだった。

支えるために必要なことを。

でも、それがそらを傷つけた気がした。



そらはぽつりと言う。

「ねえ」

るみが振り返る。

「俺さ」

少しだけ間を置く。

「怖いのは、見えなくなることじゃないんだよね」

るみは動けない。

そらは続ける。

「見えなくなっても、るみがいれば大丈夫って思ってる」

「でもさ」

声が少しだけ弱くなる。

「その“るみがいない世界”を想像するのが、怖い」



るみの胸が締めつけられる。

そらは笑おうとして、やめる。

「だから、犬とかじゃないんだよ」

「俺は、ただ……今のままがいい」

静かに、そう言った。



部屋の中に沈黙が落ちる。

それは喧嘩じゃない。

でも、すれ違いだった。

ほんの少しだけ、未来の形がずれた夜だった。
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