花囲い

 井𡈽くんは私が逃げても逃げた先で誰も味方にならない世界を手に入れようとしていた。

 だから私は、もう逃げられない。

 井𡈽くんはゆっくりと私に近づき、そっと私の体を抱きしめた。私はまるで悪夢の中のように動けない。そして、壊れ物に触れるように、静かに私の唇へキスをした。

 目を閉じることも、抵抗することもできなかった。

 歩道橋の先にはいつもと変わらない街の音が流れている。

 世界は恐ろしく穏やかだった。

 誰もが二人の未来を祝福するような夕暮れの中、耳元で井𡈽くんの鼻歌が響く。

 それはフォーレの鎮魂歌だった。
 
 きっと私の心が折れるまで悪夢は続くのだろう。箱詰めされた私がすべてを諦めるまで。


 花囲(はながこ)い (了)
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