ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。

「え……?」

「あなたたちは心から求め合って結婚したし、今でもそうじゃない。どの不安や迷いも、相手を思いやるゆえのものでしょう? 私たちとは、前提がまったく違うわよ」

 その言葉が、濃い霧に包まれていた私の心へ、一筋の光のように差し込まれていく。

「だから、私たちの過去と重ねても、あまり意味がないかもよ? マナちゃんがしたいようにして、大丈夫だと思う」

 柔らかい微笑み。
 それを見て、肩に入っていた余計な力が抜けていくとともに、堪えていた涙腺まで緩んでしまいそうになる。

「もちろん、マナちゃんにとって、美容師っていうお仕事も大切よね。それは私も働いている身として、すごく共感するわ」

「…………はい……」

「何年かロンドンで遥と過ごしながら、美容師としてのセンスを磨くっていうのもありだし。もちろん、このまま日本に残って、こうして時々私とお茶したり、自分の仕事を楽しみながら、遥の帰りを待ってもいいよね」

 そう言ったあと「あっ」と口元を押さえた。

「私、また良くない提案してる? 『余計なこと言うな』って、遥に怒られるかな?」

 おどけたように肩をすくめた。

「そんなこと……ないです。ありがとうございます」

 首を振りながら、弱々しい声で心からの感謝を伝えた。

「私の息子は、ちゃんと『本物の相手』を見つけられて、よかったわ」

 義父のいない、この家で。
 安心したように呟く義母を見つめながら、少しぬるくなったジャスミンティーに手を伸ばした。

 自分の、本当の想いの輪郭に触れる。

 私が一番ほしいもの。恐れているもの。そして、失いたくないものは、何だろう。

 カップに添えた指先が、じんとした。

 私は――。
 あの少し伸びてしまっていた前髪を、自分のこの手で、切ってあげたいのだ。
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