ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。
私が、一緒に行くと言えなかった理由――。
一度も日本を出たことのない自分が、大好きな仕事を手放したうえで、いきなり見知らぬ土地で暮らす。
イメージできないどころか、孤独や不安から、彼の負担になってしまうのではないかと怖くなった。
過去の苦い別れの記憶も重なり、どうしても足が竦んでしまった。
途切れ途切れに、打ち明けた。
義母は、静かに耳を傾けてくれていた。
「お義母さんも、前に……話してくれましたよね。お義父さんの赴任がきっかけで、すれ違い始めてしまったって……」
そう尋ねると、義母はマグカップを口へ運ぶ手を止め「あらっ」と目を丸くした。
「私ってば、息子が不利になる話を教えちゃった感じ?」
「あっ、いえ……そういうわけじゃ……」
「ふふ。冗談よ、冗談」
慌てて否定する私を、優しく制してくれた。
コトッと音を立てマグカップを置くと、少し遠くを見るような目をした。
「あのね、マナちゃん。私ね……結婚する前、看護師の仕事が本当に辛くて。逃げるように家庭に入ったの」
初めて聞く話だ。
「……そうだったんですね」
看護師の仕事は、人の命と、その側にいる家族の気持ちとも向き合う、想像を絶するほど大変なものだ。
かつて、母を担当してくれた方も――冷たくなった母を前にして泣きじゃくる私の小さな背中を、震える手で摩ってくれたのを覚えている。
「夫も、転勤の多い自分をサポートしてくれるような相手を望んでいたから、ニーズがマッチしたというか」
「なるほど……」
「でもね。遥を産んで、小さな命の尊さに触れているうちに、不思議とエネルギーが湧いてきて。思いきって再開してみたら、そのやりがいを痛いほど実感して。自分が社会の役に立てる居場所のようにも思えたし」
穏やかな声で語られる、より深い過去。
「勝手だけど……そうなると、自分の仕事を犠牲にしてまで彼に合わせることができなくなった。ずれていく価値観を責め合うばかりで、お互いを理解する努力を怠っていたの。そうしたらいつの間にか、取り返しのつかないほど気持ちが冷え切っていたのよね」
義母はそこで言葉を区切り、私を見た。
ハルとよく似た、芯の強い瞳。
「でも、マナちゃんと遥は違うよね」