ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。
 ◇

 自室のある階につき、薄暗い廊下を進む。
 隣の部屋のドアが開き、アコースティックギターを抱えた青年と出くわした。

『おかえり。疲れてるね。癒されたくなったら、いつでも僕の音を聴きに来なよ』

 不機嫌さを隠そうともしない俺の様子を察してか、屈託のない笑顔を向け、ゆっくりとした英語で話しかけられる。

 苦笑いしながら短く返し、自分の部屋に入った。

 コートを脱ぎ捨てるのと同時に聴こえてくる、優しいメロディ。
 この階にある共有スペースで奏でられている。

 さっきの彼は、ワーキングホリデーとしてニューヨークからやってきた大学生らしい。
 実家が裕福なのかもしれない。会社が費用を負担してくれている俺でさえ気が引けるほど家賃の高い、このマンションを借りているのだから。

 最初は、毎晩こんなふうに演奏していたら、怒る人もいるのではないかと懸念したものの。
 彼の人柄か、心地よい音色のおかげなのか、誰も文句を言う者はいない。
 むしろ好意的に受け止められているようで、住人たちがスペースまでやってきて聴き入ったり、気さくに話しかけたりしているのを見かける。

 自分一人しか呼吸していない、静まり返った部屋。
 壁越しに届く軽やかな音が、この空気をほんの少しだけ緩ませる。

 それはいつの間にか、闇に落ちそうな俺の心を繋ぎ止めてくれる救いとなっていた。
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