ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。
 ◇

 翌日の夜。
 定時から一時間後に、仕事を終えた。
 今日は随分と早いほうだ。

「お疲れさまです」

「おー、お疲れ。ゆっくり休めよー」

 上司や同僚からは、急な赴任にも対応し、すぐに現場に入れたことを感謝されている。
 だがその一方で『幹本って、触れると切り傷ができそう』などと冗談混じりに怯えられてもいる。

 結局のところ、マナと夫婦である事実に変わりはなくても、側にいなければ、元の刺々しい俺に戻ってしまうらしい。


 ビルを背に、石畳の通りを歩き始めた。
 有り難いことに、勤務場所の徒歩圏内に住居を構えることができている。

 冷たい風に煽られ、乱れた前髪が視界を遮る。

 普段は額の前で分けて誤魔化しているものの、そろそろ限界が近づいているようだ。
 日本を発つ前日、家のリビングでマナにハサミを入れてもらったきりだった。
 彼女が触れた余韻を手放したくなくて、ロンドンに来てから三か月、まだ一度も切れずにいる。


 ふと、ポケットのスマートフォンが震えた。

 画面に表示された文字を見て、心臓が跳ねる。


 それは――『茉奈(マナ)』だった。
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