伯父の命により、高潔すぎて『聖人』と噂の男の元へ行く事になりました。
4.魔物退治
赤々とした陽が沈みゆく頃、二人は広い街道を歩いていた。
横には長く伸びた江河がある。そよそよと水が流れ、夕日に照らされた水面がきらきらと輝いていて何とも美しい景色だ。
しかし蒼晏は妙に厳しい表情を浮かべていた。
「ここから少し行けば大きな街がある。だがその割にはやけに静かだと思わないか?」
「確かにそう言われると、ひとっこひとりいませんね」
梓娟はきょろきょろと辺りを見渡す。
歩いてくる途中には行き交う人の姿があったが、今は誰の姿が見当たらない。この先に大きな街があるならば、荷を運ぶ馬車が通り過ぎて行ってもいいはずだ。
まだ街門が閉まる時刻でもない。しかし辺りは閑散としていて、これは不気味だった。
さらにはどこからともなく妙な肌寒さを感じて、ぶるりと震えるながら粟立つ腕を抱く。
──この感じ、黄昏時だからという訳ではなさそうね。
蒼晏が「この辺りか」と呟いて足を止めた。
「気をつけろ、ここには獣の群れが出るらしい」
「獣?こんな街道にですか?」
「ああ、襲われた者の話ではあれは狼だと証言したが、狼なんて生易しいモノではなかったと証言した者もいるそうだ」
「それは一体……?」
蒼晏の話に梓娟は眉を顰める。
「狼よりも悍ましいもの。恐らくそれは──」
蒼晏がゆっくりとこちらを振り返る。
見つめてくる鋭い目からはいつもの優しい雰囲気を感じさせない。
「──魔物、ですか」
そう答えれば、蒼晏は静かに頷いた。
その時、急に辺りが暗くなった。
蝋燭の火がふっと消えたような、そんな唐突に空から陽が消えたのだ。
空はどこまでも続く黒一色。辺りは静寂に包まれて、まるで違う空間に閉じ込められたような、不思議な感覚だった。
梓娟は暗闇の中で何かが蠢いた気がして眼を細めて一点を見つめた。しかしそれは完全に闇に同化していてそれを目で捉える事は出来ない。
隣から剣を抜く音が聞こえ、梓娟もそれに習いゆっくりと鞘から剣を引き抜いた。
梓娟にとってはこれが初めての魔物退治だ。緊張感から胸がどきどきと鼓動を打ち、剣を握る手が震えてしまう。
──大丈夫よ。これまでたくさん鍛錬を積んできたもの。
自分に何度も大丈夫だと言い聞かせるとごくりと唾を飲んだ。
そして鋭くさせた目でもう一度闇を睨む。すると背後から唸り声が聞こえた気がした。
「そっち……!?」
何とか反応して身を翻したが、飛び込んできた黒い塊は青衣の袖を掠めていた。
ふらつく体を脚で踏ん張り黒塊へと目を向ければ、確かにそれは狼の形をしていた。
だが形をしているだけだ。
鋭く尖った牙と長く伸びた爪から獰猛さが伝わってくる。裂けた袖をみれば爪の切れ味は抜群だ。
おまけにぼたぼたと口から唾液が溢れていて気味が悪い。
魔物は目をぎらぎらと妖しく光らせて、再び襲いかかってきた。梓娟はすぐに身を翻して躱したものの、剣を振るうまでは出来ず、劣勢は明らかだった。
──剣だけでいけると思ってたけどそうもいかないわね。魔物を甘く見ていたわ!
防戦一方の情けなさと、思い上がっていた自分の恥ずかしさに歯を噛み締める。
助けを求めるように蒼晏を見れば、蒼晏は蒼晏で他の魔物達と交戦中だった。相手をする魔物の数からして向こうの方が圧倒的に大変そうだ。
魔物はあまりにも素早く、梓娟の実力では躱すのが精一杯だった。
厳しい表情を浮かべ、ちらりと目線を向けた先には真っ黒な空を映す川がある。
梓娟は得意ではないのだがそれなりに霊力を使うことができた。そして黒家の霊力は水の特質を持っていた。
川が流れるこの水場は、黒家の者が霊力を使うのに最も適していた。
しかし今は霊力を使える状況ではなかった。
ここには蒼晏がいるからだ。
──どうする?ここで下手に霊力を使えばきっと蒼晏様に私が黒家の者だってバレてしまう。でもこのままじゃ……。
躊躇っている間にも魔物は襲いかかってきて、梓娟は後方へと跳ねて難を逃れた。
しかし足を滑らせてしまい、後方へと体が傾いていく。倒れ行く体に踏ん張ることも出来ず、くっと歯を食いしばった時、後方から風を感じた。
まるで背中を支えてくれるような、優しくてあたたかな風だった。
奇妙な風に驚く梓娟は足を縺れさせながらも、やがて背に何か触れた。
「……え?」
動揺していると腰に何かが巻き付いて、俯いて見えたのは青衣の袖とそこから覗く人の手だ。その手は梓娟の体を支えるようにしっかりと腰を抱き抱えていた。
──この手は……。
恐る恐る見上げると、菩薩が梓娟を見下ろし微笑んでいた。
唖然となっていると瞳が重なって、菩薩はふっと笑みを深める。まるで後光でも差しているのか、暗闇の中で彼がきらきらと輝いて見えた。
「そっ──」
──蒼眞佳ー!?
梓娟が目を大きく見開いて驚く中、眞佳は見つめ合う瞳を逸らす事もなく、右手に握っていた剣を一振させた。
剣から放たれた剣風はとても鋭く、側にいた数体の魔物を一度に討ち祓っていた。
蒼家の霊力の特質は風だ。霊力が加えられた剣風の威力はとても見事なものだった。
振った剣には霊力の残滓がゆらゆらと漂っていて、充分と言える蒼眞佳の霊力の強さが伝わってくる。
「怪我はないかい…⋯延芳?」
「えっ!ぇ、えぇ、あり、ません」
──なんで蒼眞佳に名を知られてるの!?
目を泳がせながら言葉を返す梓娟に、眞佳は良かったと囁いて微笑んだ。
腰を抱く手の力はほんの少し緩まった気がするが、解放してくれる様子はない。
蒼眞佳は器用にもそのままの体勢で剣を振り始め、着々と魔物を倒していく。
勢いが全く衰える事のない強い太刀筋に、霊力だけではなく剣の腕も見事のようだ。
──流石だわ、蒼眞佳。
蒼眞佳の強さに梓娟は圧倒されていた。
彼はこの場から一歩たりとも動く事もなく魔物を鎮め、瞬く間に辺りが静かになっていた──。
そして全ての片が付いた後、眉間に皺を作った蒼晏がこちらへとやって来た。
「何でここに眞佳がいるんだ?」
「晏兄上がこちらにいると耳にして」
「へぇ……俺がいるから、か」
蒼晏は不快そうな目をしたまま目線を下ろす。訝しく見ているのは、未だ梓娟の腰に巻き付く眞佳の手だ。
──何か言いたげな目だけど、それはこっちの方よ!
気まずい目にそう言い返したかったが、今はその言葉をぐっと飲み込む。
「ッ──眞佳様っ、助けて下さりありがとうございました。魔物は退治されたのでもう守って頂かなくても大丈夫です!」
だからこれ!と指で指して強調すると、「あぁ」と思い出した様子でようやく手を離した。
──もしかすると手を回していた事を忘れていたのかしら?案外うっかりさん?
そう考えていると、蒼晏がわざとらしく咳払いをした。
「眞佳、お前のおかげで早く事が済んだ。もう帰っていいぞ」
「おや、晏兄上は帰らないのかい?」
「夜も遅い。ひとっ飛びで龍颯山へと帰りたい所だが、延芳は飛翔出来ないらしくてな。俺は延芳に付き合い近くの街で宿を取り、朝になったら戻るさ、歩いてな」
──う゛っ⋯…。
日も暮れてしまった今、龍颯山へと戻るという事は夜通し歩き続けると言う事だが、それは些か無理がある。
その原因である梓娟は、蒼晏の言葉にとても胸が痛かった。
梓娟が胸を押さえていると、「ならば」と眞佳の声が聞こえてきた。
「私が共にしよう。君は先に戻ると良い」
「は?お前が?いつも退治した後は真っ先に帰る蒼眞佳がか?」
片眉を吊り上げて尋ねる蒼晏に、眞佳は小さく頷いた。
「晏兄上、こちらは気になさらず」
「……お前」
蒼晏は何かを言いかけて言葉を止めた。
二人がそんなやり取りをする中、梓娟は考え込んでいた。
──蒼眞佳と、宿……。
『蒼眞佳の心を乱してこい!』
黒善爾はそう言った。その為に来たのだ。
まさにこれはまたとない絶好の機会で、梓娟はひっそりと不適な笑みを浮かべた。
聖人の蒼眞佳が色香に引っかかる訳がない。
それでも少しぐらいは戸惑う事もあるかもしれない、と浅はかに考えて。
横には長く伸びた江河がある。そよそよと水が流れ、夕日に照らされた水面がきらきらと輝いていて何とも美しい景色だ。
しかし蒼晏は妙に厳しい表情を浮かべていた。
「ここから少し行けば大きな街がある。だがその割にはやけに静かだと思わないか?」
「確かにそう言われると、ひとっこひとりいませんね」
梓娟はきょろきょろと辺りを見渡す。
歩いてくる途中には行き交う人の姿があったが、今は誰の姿が見当たらない。この先に大きな街があるならば、荷を運ぶ馬車が通り過ぎて行ってもいいはずだ。
まだ街門が閉まる時刻でもない。しかし辺りは閑散としていて、これは不気味だった。
さらにはどこからともなく妙な肌寒さを感じて、ぶるりと震えるながら粟立つ腕を抱く。
──この感じ、黄昏時だからという訳ではなさそうね。
蒼晏が「この辺りか」と呟いて足を止めた。
「気をつけろ、ここには獣の群れが出るらしい」
「獣?こんな街道にですか?」
「ああ、襲われた者の話ではあれは狼だと証言したが、狼なんて生易しいモノではなかったと証言した者もいるそうだ」
「それは一体……?」
蒼晏の話に梓娟は眉を顰める。
「狼よりも悍ましいもの。恐らくそれは──」
蒼晏がゆっくりとこちらを振り返る。
見つめてくる鋭い目からはいつもの優しい雰囲気を感じさせない。
「──魔物、ですか」
そう答えれば、蒼晏は静かに頷いた。
その時、急に辺りが暗くなった。
蝋燭の火がふっと消えたような、そんな唐突に空から陽が消えたのだ。
空はどこまでも続く黒一色。辺りは静寂に包まれて、まるで違う空間に閉じ込められたような、不思議な感覚だった。
梓娟は暗闇の中で何かが蠢いた気がして眼を細めて一点を見つめた。しかしそれは完全に闇に同化していてそれを目で捉える事は出来ない。
隣から剣を抜く音が聞こえ、梓娟もそれに習いゆっくりと鞘から剣を引き抜いた。
梓娟にとってはこれが初めての魔物退治だ。緊張感から胸がどきどきと鼓動を打ち、剣を握る手が震えてしまう。
──大丈夫よ。これまでたくさん鍛錬を積んできたもの。
自分に何度も大丈夫だと言い聞かせるとごくりと唾を飲んだ。
そして鋭くさせた目でもう一度闇を睨む。すると背後から唸り声が聞こえた気がした。
「そっち……!?」
何とか反応して身を翻したが、飛び込んできた黒い塊は青衣の袖を掠めていた。
ふらつく体を脚で踏ん張り黒塊へと目を向ければ、確かにそれは狼の形をしていた。
だが形をしているだけだ。
鋭く尖った牙と長く伸びた爪から獰猛さが伝わってくる。裂けた袖をみれば爪の切れ味は抜群だ。
おまけにぼたぼたと口から唾液が溢れていて気味が悪い。
魔物は目をぎらぎらと妖しく光らせて、再び襲いかかってきた。梓娟はすぐに身を翻して躱したものの、剣を振るうまでは出来ず、劣勢は明らかだった。
──剣だけでいけると思ってたけどそうもいかないわね。魔物を甘く見ていたわ!
防戦一方の情けなさと、思い上がっていた自分の恥ずかしさに歯を噛み締める。
助けを求めるように蒼晏を見れば、蒼晏は蒼晏で他の魔物達と交戦中だった。相手をする魔物の数からして向こうの方が圧倒的に大変そうだ。
魔物はあまりにも素早く、梓娟の実力では躱すのが精一杯だった。
厳しい表情を浮かべ、ちらりと目線を向けた先には真っ黒な空を映す川がある。
梓娟は得意ではないのだがそれなりに霊力を使うことができた。そして黒家の霊力は水の特質を持っていた。
川が流れるこの水場は、黒家の者が霊力を使うのに最も適していた。
しかし今は霊力を使える状況ではなかった。
ここには蒼晏がいるからだ。
──どうする?ここで下手に霊力を使えばきっと蒼晏様に私が黒家の者だってバレてしまう。でもこのままじゃ……。
躊躇っている間にも魔物は襲いかかってきて、梓娟は後方へと跳ねて難を逃れた。
しかし足を滑らせてしまい、後方へと体が傾いていく。倒れ行く体に踏ん張ることも出来ず、くっと歯を食いしばった時、後方から風を感じた。
まるで背中を支えてくれるような、優しくてあたたかな風だった。
奇妙な風に驚く梓娟は足を縺れさせながらも、やがて背に何か触れた。
「……え?」
動揺していると腰に何かが巻き付いて、俯いて見えたのは青衣の袖とそこから覗く人の手だ。その手は梓娟の体を支えるようにしっかりと腰を抱き抱えていた。
──この手は……。
恐る恐る見上げると、菩薩が梓娟を見下ろし微笑んでいた。
唖然となっていると瞳が重なって、菩薩はふっと笑みを深める。まるで後光でも差しているのか、暗闇の中で彼がきらきらと輝いて見えた。
「そっ──」
──蒼眞佳ー!?
梓娟が目を大きく見開いて驚く中、眞佳は見つめ合う瞳を逸らす事もなく、右手に握っていた剣を一振させた。
剣から放たれた剣風はとても鋭く、側にいた数体の魔物を一度に討ち祓っていた。
蒼家の霊力の特質は風だ。霊力が加えられた剣風の威力はとても見事なものだった。
振った剣には霊力の残滓がゆらゆらと漂っていて、充分と言える蒼眞佳の霊力の強さが伝わってくる。
「怪我はないかい…⋯延芳?」
「えっ!ぇ、えぇ、あり、ません」
──なんで蒼眞佳に名を知られてるの!?
目を泳がせながら言葉を返す梓娟に、眞佳は良かったと囁いて微笑んだ。
腰を抱く手の力はほんの少し緩まった気がするが、解放してくれる様子はない。
蒼眞佳は器用にもそのままの体勢で剣を振り始め、着々と魔物を倒していく。
勢いが全く衰える事のない強い太刀筋に、霊力だけではなく剣の腕も見事のようだ。
──流石だわ、蒼眞佳。
蒼眞佳の強さに梓娟は圧倒されていた。
彼はこの場から一歩たりとも動く事もなく魔物を鎮め、瞬く間に辺りが静かになっていた──。
そして全ての片が付いた後、眉間に皺を作った蒼晏がこちらへとやって来た。
「何でここに眞佳がいるんだ?」
「晏兄上がこちらにいると耳にして」
「へぇ……俺がいるから、か」
蒼晏は不快そうな目をしたまま目線を下ろす。訝しく見ているのは、未だ梓娟の腰に巻き付く眞佳の手だ。
──何か言いたげな目だけど、それはこっちの方よ!
気まずい目にそう言い返したかったが、今はその言葉をぐっと飲み込む。
「ッ──眞佳様っ、助けて下さりありがとうございました。魔物は退治されたのでもう守って頂かなくても大丈夫です!」
だからこれ!と指で指して強調すると、「あぁ」と思い出した様子でようやく手を離した。
──もしかすると手を回していた事を忘れていたのかしら?案外うっかりさん?
そう考えていると、蒼晏がわざとらしく咳払いをした。
「眞佳、お前のおかげで早く事が済んだ。もう帰っていいぞ」
「おや、晏兄上は帰らないのかい?」
「夜も遅い。ひとっ飛びで龍颯山へと帰りたい所だが、延芳は飛翔出来ないらしくてな。俺は延芳に付き合い近くの街で宿を取り、朝になったら戻るさ、歩いてな」
──う゛っ⋯…。
日も暮れてしまった今、龍颯山へと戻るという事は夜通し歩き続けると言う事だが、それは些か無理がある。
その原因である梓娟は、蒼晏の言葉にとても胸が痛かった。
梓娟が胸を押さえていると、「ならば」と眞佳の声が聞こえてきた。
「私が共にしよう。君は先に戻ると良い」
「は?お前が?いつも退治した後は真っ先に帰る蒼眞佳がか?」
片眉を吊り上げて尋ねる蒼晏に、眞佳は小さく頷いた。
「晏兄上、こちらは気になさらず」
「……お前」
蒼晏は何かを言いかけて言葉を止めた。
二人がそんなやり取りをする中、梓娟は考え込んでいた。
──蒼眞佳と、宿……。
『蒼眞佳の心を乱してこい!』
黒善爾はそう言った。その為に来たのだ。
まさにこれはまたとない絶好の機会で、梓娟はひっそりと不適な笑みを浮かべた。
聖人の蒼眞佳が色香に引っかかる訳がない。
それでも少しぐらいは戸惑う事もあるかもしれない、と浅はかに考えて。