白霧ペンションの七日間
第六章 レインコートの素顔
『八人目は“作られる”ものだ。』
レインコートの声が、地下3-Cに響いた。
健太は一歩前に出る。
「お前は誰だ。」
レインコートは動かない。
ゆっくりとフードに手をかける。
美咲の心臓が強く鳴る。
(ここで全部分かる)
そう直感していた。
⸻
フードが落ちる。
そこにいたのは――
誰もが知っている顔だった。
「……坂本さん。」
結衣が息をのむ。
老いた管理人・坂本義雄。
しかしその目は、これまでの彼とはまったく違っていた。
⸻
“見張り役”の正体
坂本は静かに言った。
「私は、最初からここにいた。」
修一が怒鳴る。
「嘘をつくな!」
坂本は首を振る。
「嘘ではない。」
「私は“記録を管理する側”だった。」
美咲が息を呑む。
「管理……?」
坂本は壁のファイルを指差す。
「この宿は普通の宿じゃない。」
「宿泊名簿は“現実”を決める装置だ。」
健太が低く言う。
「やっぱりそうか。」
⸻
記録が現実を作る仕組み
坂本は続ける。
「ここでは、三つの情報が一致すると現実が固定される。」
* 予約台帳(未来)
* 宿泊名簿(現在)
* 管理記録(過去)
「この三つが揃った瞬間、“存在が確定する”。」
奈々が震える声で言う。
「じゃあズレって……」
坂本はうなずく。
「そのズレが“八人目”だ。」
美咲が問いかける。
「じゃあ九人目は?」
坂本は一瞬黙った。
そして静かに言う。
「九人目は存在しない。」
「最初からだ。」
全員が固まる。
健太が目を細める。
「じゃあ、なぜ九人いたことになってる?」
坂本は低く答えた。
「“一人分の空白を埋めるため”だ。」
坂本は続ける。
「20年前、この宿で事故が起きた。」
「地下施設の崩落だ。」
修一が顔を歪める。
「兄は……?」
坂本は静かに言った。
「佐伯隆一は“九人目を探していた”。」
美咲の呼吸が止まる。
「探していた……?」
⸻
坂本は続ける。
「しかし本当の九人目は“人間ではなかった”。」
健太が顔を上げる。
「じゃあ何だ。」
坂本は壁の記録台帳を叩いた。
「“最初に記録を改ざんした誰か”だ。」
⸻
すべての始まり
坂本の声が低くなる。
「この宿は昔、研究施設だった。」
「人間の“存在認識”を記録で制御する実験。」
美咲が息を呑む。
「そんな……」
坂本は続ける。
「成功すれば、記録だけで人の存在を消せる。」
「失敗すれば……」
一拍。
「現実が壊れる。」
健太が静かに言う。
「だから“八人目”はズレなんだな。」
坂本はうなずく。
「記録と現実の不一致が限界を超えると、一人分の“補正存在”が生まれる。」
美咲は震える。
「それが今……?」
坂本は答えた。
「そうだ。」
「それが“真理子”だ。」
⸻
その瞬間、真理子が息をのむ。
「私……?」
坂本は静かに続ける。
「あなたは元々この宿にいない。」
「しかし“八人目を成立させるために生まれた存在”だ。」
ロビーに沈黙が落ちる。
健太がゆっくり言った。
「じゃあ犯人は?」
坂本は目を伏せる。
「まだ分からない。」
「だが一つだけ確実だ。」
顔を上げる。
「この記録システムを完成させた“管理者”がいる。」
⸻
そのとき――
地下の照明が一斉に落ちる。
暗闇の中で声が響く。
『まだ終わっていない』
誰の声でもない。
しかし全員が理解した。
これは“記録そのものの声”だ。
地下3-Cの照明は落ちたままだった。
非常灯の薄い光だけが、台帳の文字をぼんやり浮かび上がらせている。
『まだ終わっていない』
その声が消えないまま、空間に残っていた。
健太が静かに言う。
「さっきの声……誰だ。」
坂本は答えない。
代わりに一冊の古いバインダーを取り出した。
表紙には何も書かれていない。
中を開くと、空白のページが続いている。
美咲が顔をしかめる。
「これ……何も書いてない?」
坂本はゆっくり言った。
「“書かれていない記録”だ。」
「この施設の管理者だけが扱える領域。」
健太の目が細くなる。
「つまり、ここに書かれたものは“現実に反映されない”。」
坂本はうなずいた。
「そして逆に――」
「ここに書かれなかったものは“存在できない”。」
高橋が一歩前に出る。
「それなら説明がつきません。」
坂本を見る。
「あなたがレインコートの人物だとしたら、なぜ今ここにいる?」
「さっきの声は誰のものです?」
坂本は答えない。
代わりに言う。
「私は“管理者の代理”にすぎない。」
健太が即座に返す。
「じゃあ本体はどこだ。」
沈黙。
その沈黙が答えだった。
そのとき、真理子が膝をついた。
「私は……何?」
声が震えている。
美咲は思わず駆け寄る。
「真理子さん!」
だが健太は止める。
「触るな。」
「え?」
健太は真理子を見て言う。
「今の彼女は“固定されてない”。」
「下手に干渉すると、もっと崩れる。」
⸻
真理子の輪郭が、また一瞬だけ揺れた。
まるでノイズのように。
坂本が静かに言う。
「九人目は“人”ではない。」
「この宿の構造そのものだ。」
美咲が息をのむ。
「構造……?」
坂本は続ける。
「九人という枠は、記録が崩れないための最大値。」
「それを超えると、現実が崩壊する。」
健太が低く言う。
「だから八人目が必要になる。」
坂本はうなずく。
「そうだ。」
「“余剰を吸収する存在”。」
坂本は続ける。
「20年前の崩落事故は偶然ではない。」
「記録実験の失敗だ。」
美咲が問い返す。
「失敗って……何が?」
坂本は短く言った。
「九人目が“分裂”した。」
全員が固まる。
健太が眉をひそめる。
「分裂?」
坂本は続ける。
「存在を記録で制御する実験は、“一人の情報を複数の記録に分散する”ことで安定していた。」
「しかし崩れた。」
「一人が二つに割れた。」
⸻
美咲の喉が鳴る。
「じゃあ今の八人目って……」
坂本は言った。
「その“分裂の片割れ”だ。」
健太が一歩前に出る。
「じゃあ管理者の目的は?」
坂本はゆっくり答える。
「崩れた記録を“再統合”すること。」
「そのために八人目を固定し続けている。」
修一が震える声で言う。
「そんなことしたらどうなる……」
坂本は一言。
「元の九人目が戻る。」
そして間を置いて続けた。
「同時に、今ここにいる誰かが消える。」
地下の空気がさらに重くなる。
そのとき、非常灯が一瞬だけ明るくなる。
その瞬間――
真理子の姿が完全に二重に見えた。
一つは今ここにいる姿。
もう一つは、空白の影。
健太が呟く。
「もう選別が始まってる。」
そのときだった。
天井から声が響く。
『確認完了』
全員が顔を上げる。
『八人目、固定開始』
美咲の心臓が跳ねる。
坂本が顔をしかめる。
「まずい……直接介入してきた。」
健太が叫ぶ。
「どこだ!」
坂本は暗闇を見上げる。
「“記録室の上”だ。」
⸻
そして、最後に一言だけ呟いた。
「管理者は、もうこの中にいる。」
『管理者は、もうこの中にいる。』
その言葉が落ちた瞬間、地下3-Cの空気が完全に止まった。
誰も動けない。
息をする音だけがやけに大きく聞こえる。
健太がゆっくり周囲を見渡す。
「“この中にいる”ってのは物理的な意味じゃない。」
高橋が反応する。
「どういう意味ですか。」
健太は短く言った。
「記録の中だ。」
美咲の背中に冷たいものが走る。
「記録の中って……ここにいるのに?」
健太は首を振る。
「違う。」
「“ここにいると思われている存在”の中だ。」
坂本が静かに補足する。
「管理者は、常に一人の“空白”に宿る。」
修一が震える声で言う。
「空白……?」
坂本はうなずく。
「八人の中に一人、必ず説明できない違和感がある。」
「それが管理者の“座標”だ。」
⸻
美咲は思い出す。
(ずっとあった)
(名前が出てこない瞬間)
(数え直すたびに揺れる誰か)
その“誰か”。
真理子がゆっくり顔を上げる。
「……私?」
声が途切れる。
その瞬間、また輪郭が揺れた。
健太が鋭く言う。
「違う。」
「真理子は“器”だ。」
美咲が息を呑む。
「器?」
坂本が続ける。
「八人目を受け止めるための存在。」
「管理者ではない。」
そのとき。
天井から音がした。
カツ……カツ……
誰かが上を歩いている。
ゆっくりと、一定のリズムで。
健太が顔を上げる。
「そこか。」
坂本が頷く。
「記録室の上階。」
「“制御室”だ。」
坂本は静かに語る。
「20年前も同じことが起きた。」
「九人目が分裂した瞬間。」
「制御室がそれを再構成しようとした。」
美咲が聞く。
「結果は?」
坂本は一言だけ。
「失敗。」
「一人が“記録の外”に逃げた。」
⸻
健太が鋭く言う。
「それがレインコートか。」
坂本は否定しない。
その瞬間だった。
また声が響く。
『最終調整を開始する』
全員が凍りつく。
だが今度は外からではない。
“真理子の中”から聞こえた。
美咲が息をのむ。
「真理子さん……?」
真理子はゆっくり首を振る。
「違う……私じゃない……」
しかし声は続く。
『八人目、確定』
地下の壁がわずかに揺れる。
ファイル棚が一斉に音を立てる。
バサッ。
バサッ。
記録が“書き換わっていく音”。
健太が叫ぶ。
「急げ!ここが固定される!」
「固定されたら戻れない!」
そして天井から最後の声。
『九人目の再構築を開始する』
その瞬間。
美咲の視界が一瞬だけ白くなる。
⸻
次に目を開けたとき。
そこにいた“人数”が、また変わっていた。
美咲が目を開けたとき、まず違和感があった。
“静かすぎる”。
さっきまで鳴っていた機械音も、揺れていた棚も、すべて止まっている。
そして――
人数が変わっていた。
⸻
健太。美咲。奈々。結衣。修一。
高橋。
そして真理子。
「……一人減ってる。」
結衣の声が震える。
「誰が……?」
誰も答えられない。
“誰が消えたのか”を思い出せない。
坂本の声がどこか遠くから響く。
『再構築完了』
天井の奥から、機械的な音。
カチリ。
何かが“確定した”音だった。
健太が歯を食いしばる。
「くそ……間に合わなかったか。」
美咲が聞く。
「何が起きてるの……?」
健太は短く言う。
「九人目が戻りかけてる。」
その瞬間。
真理子が一歩前に出る。
そして止まる。
「……あれ?」
声が違う。
美咲は気づく。
(さっきまでの真理子じゃない)
輪郭が、少し“安定している”。
坂本が静かに言う。
「固定された。」
健太が睨む。
「まだ完全じゃない。」
天井の奥が開く。
そこから階段が降りてくる。
ゆっくりと、一人の影が降りてくる。
白衣。
無表情。
年齢不明。
美咲は息を呑む。
「……あの人……」
健太が呟く。
「管理者か。」
その人物は静かに言った。
『正確には、“記録そのもの”です。』
管理者は階段を降り切ると、淡々と続ける。
『この施設は、人を管理する場所ではありません。』
『“存在を定義する場所”です。』
美咲が震える声で言う。
「そんなの……人間じゃない」
管理者は首を振る。
『人間ではありません。』
『システムです。』
健太が低く言う。
「じゃあ九人目って何だ。」
管理者は答える。
『九人目は“例外処理”です。』
『記録が崩壊したときに生まれる修正項目。』
美咲は息をのむ。
「人じゃない……」
『はい。』
『しかし、人として扱われます。』
管理者が続ける。
『八人が揃うと、必ず一つの矛盾が発生します。』
『その矛盾を吸収するのが九人目。』
健太が言う。
「それが“真理子”だった?」
管理者は一瞬だけ沈黙する。
そして答える。
『彼女は“仮の九人目”です。』
その瞬間。
高橋が小さく笑った。
「やっとそこまで来たか。」
全員が振り向く。
高橋は静かに言う。
「本物の九人目は、俺だ。」
空気が止まる。
高橋は続ける。
「20年前、崩壊を止めるために俺は記録に入り込んだ。」
「でも抜け出せなかった。」
美咲が息を呑む。
「じゃあ……あなたは」
高橋は静かに答える。
「“記録に残り続けている事故そのもの”だ。」
管理者が言う。
『再構築は完了しました。』
『これより九人目を確定します。』
真理子が小さく震える。
「やめて……」
健太が叫ぶ。
「逃げろ!」
だが遅い。
⸻
空間が歪む。
名前が書き換えられていく。
記録が現実を上書きする。
⸻
そして最後に、管理者が言った。
『選択してください。』
『九人目を確定するか』
『それとも、全てを崩壊させるか』
⸻
静寂。
そして健太が答える。
「崩壊でいい。」
⸻
次の瞬間。
全ての記録が白く塗りつぶされた。
レインコートの声が、地下3-Cに響いた。
健太は一歩前に出る。
「お前は誰だ。」
レインコートは動かない。
ゆっくりとフードに手をかける。
美咲の心臓が強く鳴る。
(ここで全部分かる)
そう直感していた。
⸻
フードが落ちる。
そこにいたのは――
誰もが知っている顔だった。
「……坂本さん。」
結衣が息をのむ。
老いた管理人・坂本義雄。
しかしその目は、これまでの彼とはまったく違っていた。
⸻
“見張り役”の正体
坂本は静かに言った。
「私は、最初からここにいた。」
修一が怒鳴る。
「嘘をつくな!」
坂本は首を振る。
「嘘ではない。」
「私は“記録を管理する側”だった。」
美咲が息を呑む。
「管理……?」
坂本は壁のファイルを指差す。
「この宿は普通の宿じゃない。」
「宿泊名簿は“現実”を決める装置だ。」
健太が低く言う。
「やっぱりそうか。」
⸻
記録が現実を作る仕組み
坂本は続ける。
「ここでは、三つの情報が一致すると現実が固定される。」
* 予約台帳(未来)
* 宿泊名簿(現在)
* 管理記録(過去)
「この三つが揃った瞬間、“存在が確定する”。」
奈々が震える声で言う。
「じゃあズレって……」
坂本はうなずく。
「そのズレが“八人目”だ。」
美咲が問いかける。
「じゃあ九人目は?」
坂本は一瞬黙った。
そして静かに言う。
「九人目は存在しない。」
「最初からだ。」
全員が固まる。
健太が目を細める。
「じゃあ、なぜ九人いたことになってる?」
坂本は低く答えた。
「“一人分の空白を埋めるため”だ。」
坂本は続ける。
「20年前、この宿で事故が起きた。」
「地下施設の崩落だ。」
修一が顔を歪める。
「兄は……?」
坂本は静かに言った。
「佐伯隆一は“九人目を探していた”。」
美咲の呼吸が止まる。
「探していた……?」
⸻
坂本は続ける。
「しかし本当の九人目は“人間ではなかった”。」
健太が顔を上げる。
「じゃあ何だ。」
坂本は壁の記録台帳を叩いた。
「“最初に記録を改ざんした誰か”だ。」
⸻
すべての始まり
坂本の声が低くなる。
「この宿は昔、研究施設だった。」
「人間の“存在認識”を記録で制御する実験。」
美咲が息を呑む。
「そんな……」
坂本は続ける。
「成功すれば、記録だけで人の存在を消せる。」
「失敗すれば……」
一拍。
「現実が壊れる。」
健太が静かに言う。
「だから“八人目”はズレなんだな。」
坂本はうなずく。
「記録と現実の不一致が限界を超えると、一人分の“補正存在”が生まれる。」
美咲は震える。
「それが今……?」
坂本は答えた。
「そうだ。」
「それが“真理子”だ。」
⸻
その瞬間、真理子が息をのむ。
「私……?」
坂本は静かに続ける。
「あなたは元々この宿にいない。」
「しかし“八人目を成立させるために生まれた存在”だ。」
ロビーに沈黙が落ちる。
健太がゆっくり言った。
「じゃあ犯人は?」
坂本は目を伏せる。
「まだ分からない。」
「だが一つだけ確実だ。」
顔を上げる。
「この記録システムを完成させた“管理者”がいる。」
⸻
そのとき――
地下の照明が一斉に落ちる。
暗闇の中で声が響く。
『まだ終わっていない』
誰の声でもない。
しかし全員が理解した。
これは“記録そのものの声”だ。
地下3-Cの照明は落ちたままだった。
非常灯の薄い光だけが、台帳の文字をぼんやり浮かび上がらせている。
『まだ終わっていない』
その声が消えないまま、空間に残っていた。
健太が静かに言う。
「さっきの声……誰だ。」
坂本は答えない。
代わりに一冊の古いバインダーを取り出した。
表紙には何も書かれていない。
中を開くと、空白のページが続いている。
美咲が顔をしかめる。
「これ……何も書いてない?」
坂本はゆっくり言った。
「“書かれていない記録”だ。」
「この施設の管理者だけが扱える領域。」
健太の目が細くなる。
「つまり、ここに書かれたものは“現実に反映されない”。」
坂本はうなずいた。
「そして逆に――」
「ここに書かれなかったものは“存在できない”。」
高橋が一歩前に出る。
「それなら説明がつきません。」
坂本を見る。
「あなたがレインコートの人物だとしたら、なぜ今ここにいる?」
「さっきの声は誰のものです?」
坂本は答えない。
代わりに言う。
「私は“管理者の代理”にすぎない。」
健太が即座に返す。
「じゃあ本体はどこだ。」
沈黙。
その沈黙が答えだった。
そのとき、真理子が膝をついた。
「私は……何?」
声が震えている。
美咲は思わず駆け寄る。
「真理子さん!」
だが健太は止める。
「触るな。」
「え?」
健太は真理子を見て言う。
「今の彼女は“固定されてない”。」
「下手に干渉すると、もっと崩れる。」
⸻
真理子の輪郭が、また一瞬だけ揺れた。
まるでノイズのように。
坂本が静かに言う。
「九人目は“人”ではない。」
「この宿の構造そのものだ。」
美咲が息をのむ。
「構造……?」
坂本は続ける。
「九人という枠は、記録が崩れないための最大値。」
「それを超えると、現実が崩壊する。」
健太が低く言う。
「だから八人目が必要になる。」
坂本はうなずく。
「そうだ。」
「“余剰を吸収する存在”。」
坂本は続ける。
「20年前の崩落事故は偶然ではない。」
「記録実験の失敗だ。」
美咲が問い返す。
「失敗って……何が?」
坂本は短く言った。
「九人目が“分裂”した。」
全員が固まる。
健太が眉をひそめる。
「分裂?」
坂本は続ける。
「存在を記録で制御する実験は、“一人の情報を複数の記録に分散する”ことで安定していた。」
「しかし崩れた。」
「一人が二つに割れた。」
⸻
美咲の喉が鳴る。
「じゃあ今の八人目って……」
坂本は言った。
「その“分裂の片割れ”だ。」
健太が一歩前に出る。
「じゃあ管理者の目的は?」
坂本はゆっくり答える。
「崩れた記録を“再統合”すること。」
「そのために八人目を固定し続けている。」
修一が震える声で言う。
「そんなことしたらどうなる……」
坂本は一言。
「元の九人目が戻る。」
そして間を置いて続けた。
「同時に、今ここにいる誰かが消える。」
地下の空気がさらに重くなる。
そのとき、非常灯が一瞬だけ明るくなる。
その瞬間――
真理子の姿が完全に二重に見えた。
一つは今ここにいる姿。
もう一つは、空白の影。
健太が呟く。
「もう選別が始まってる。」
そのときだった。
天井から声が響く。
『確認完了』
全員が顔を上げる。
『八人目、固定開始』
美咲の心臓が跳ねる。
坂本が顔をしかめる。
「まずい……直接介入してきた。」
健太が叫ぶ。
「どこだ!」
坂本は暗闇を見上げる。
「“記録室の上”だ。」
⸻
そして、最後に一言だけ呟いた。
「管理者は、もうこの中にいる。」
『管理者は、もうこの中にいる。』
その言葉が落ちた瞬間、地下3-Cの空気が完全に止まった。
誰も動けない。
息をする音だけがやけに大きく聞こえる。
健太がゆっくり周囲を見渡す。
「“この中にいる”ってのは物理的な意味じゃない。」
高橋が反応する。
「どういう意味ですか。」
健太は短く言った。
「記録の中だ。」
美咲の背中に冷たいものが走る。
「記録の中って……ここにいるのに?」
健太は首を振る。
「違う。」
「“ここにいると思われている存在”の中だ。」
坂本が静かに補足する。
「管理者は、常に一人の“空白”に宿る。」
修一が震える声で言う。
「空白……?」
坂本はうなずく。
「八人の中に一人、必ず説明できない違和感がある。」
「それが管理者の“座標”だ。」
⸻
美咲は思い出す。
(ずっとあった)
(名前が出てこない瞬間)
(数え直すたびに揺れる誰か)
その“誰か”。
真理子がゆっくり顔を上げる。
「……私?」
声が途切れる。
その瞬間、また輪郭が揺れた。
健太が鋭く言う。
「違う。」
「真理子は“器”だ。」
美咲が息を呑む。
「器?」
坂本が続ける。
「八人目を受け止めるための存在。」
「管理者ではない。」
そのとき。
天井から音がした。
カツ……カツ……
誰かが上を歩いている。
ゆっくりと、一定のリズムで。
健太が顔を上げる。
「そこか。」
坂本が頷く。
「記録室の上階。」
「“制御室”だ。」
坂本は静かに語る。
「20年前も同じことが起きた。」
「九人目が分裂した瞬間。」
「制御室がそれを再構成しようとした。」
美咲が聞く。
「結果は?」
坂本は一言だけ。
「失敗。」
「一人が“記録の外”に逃げた。」
⸻
健太が鋭く言う。
「それがレインコートか。」
坂本は否定しない。
その瞬間だった。
また声が響く。
『最終調整を開始する』
全員が凍りつく。
だが今度は外からではない。
“真理子の中”から聞こえた。
美咲が息をのむ。
「真理子さん……?」
真理子はゆっくり首を振る。
「違う……私じゃない……」
しかし声は続く。
『八人目、確定』
地下の壁がわずかに揺れる。
ファイル棚が一斉に音を立てる。
バサッ。
バサッ。
記録が“書き換わっていく音”。
健太が叫ぶ。
「急げ!ここが固定される!」
「固定されたら戻れない!」
そして天井から最後の声。
『九人目の再構築を開始する』
その瞬間。
美咲の視界が一瞬だけ白くなる。
⸻
次に目を開けたとき。
そこにいた“人数”が、また変わっていた。
美咲が目を開けたとき、まず違和感があった。
“静かすぎる”。
さっきまで鳴っていた機械音も、揺れていた棚も、すべて止まっている。
そして――
人数が変わっていた。
⸻
健太。美咲。奈々。結衣。修一。
高橋。
そして真理子。
「……一人減ってる。」
結衣の声が震える。
「誰が……?」
誰も答えられない。
“誰が消えたのか”を思い出せない。
坂本の声がどこか遠くから響く。
『再構築完了』
天井の奥から、機械的な音。
カチリ。
何かが“確定した”音だった。
健太が歯を食いしばる。
「くそ……間に合わなかったか。」
美咲が聞く。
「何が起きてるの……?」
健太は短く言う。
「九人目が戻りかけてる。」
その瞬間。
真理子が一歩前に出る。
そして止まる。
「……あれ?」
声が違う。
美咲は気づく。
(さっきまでの真理子じゃない)
輪郭が、少し“安定している”。
坂本が静かに言う。
「固定された。」
健太が睨む。
「まだ完全じゃない。」
天井の奥が開く。
そこから階段が降りてくる。
ゆっくりと、一人の影が降りてくる。
白衣。
無表情。
年齢不明。
美咲は息を呑む。
「……あの人……」
健太が呟く。
「管理者か。」
その人物は静かに言った。
『正確には、“記録そのもの”です。』
管理者は階段を降り切ると、淡々と続ける。
『この施設は、人を管理する場所ではありません。』
『“存在を定義する場所”です。』
美咲が震える声で言う。
「そんなの……人間じゃない」
管理者は首を振る。
『人間ではありません。』
『システムです。』
健太が低く言う。
「じゃあ九人目って何だ。」
管理者は答える。
『九人目は“例外処理”です。』
『記録が崩壊したときに生まれる修正項目。』
美咲は息をのむ。
「人じゃない……」
『はい。』
『しかし、人として扱われます。』
管理者が続ける。
『八人が揃うと、必ず一つの矛盾が発生します。』
『その矛盾を吸収するのが九人目。』
健太が言う。
「それが“真理子”だった?」
管理者は一瞬だけ沈黙する。
そして答える。
『彼女は“仮の九人目”です。』
その瞬間。
高橋が小さく笑った。
「やっとそこまで来たか。」
全員が振り向く。
高橋は静かに言う。
「本物の九人目は、俺だ。」
空気が止まる。
高橋は続ける。
「20年前、崩壊を止めるために俺は記録に入り込んだ。」
「でも抜け出せなかった。」
美咲が息を呑む。
「じゃあ……あなたは」
高橋は静かに答える。
「“記録に残り続けている事故そのもの”だ。」
管理者が言う。
『再構築は完了しました。』
『これより九人目を確定します。』
真理子が小さく震える。
「やめて……」
健太が叫ぶ。
「逃げろ!」
だが遅い。
⸻
空間が歪む。
名前が書き換えられていく。
記録が現実を上書きする。
⸻
そして最後に、管理者が言った。
『選択してください。』
『九人目を確定するか』
『それとも、全てを崩壊させるか』
⸻
静寂。
そして健太が答える。
「崩壊でいい。」
⸻
次の瞬間。
全ての記録が白く塗りつぶされた。