きみと描く青い未来。

第四章 揺れる気配

 春は、ずっと同じ顔をしているわけじゃない。

 昨日と今日で、少しだけ空気の色が変わる。
 気のせいだと言われればそれまでの、ほんのわずかな差。

 でもその“わずかさ”が、なぜか気になる日がある。



 俺はいつものように美術室の前に立っていた。

 ドアは少しだけ開いている。

 そこから聞こえる音も、いつもと同じ――

 ――サラ、サラ。

 のはずだった。

 でも今日は、少しだけ違って聞こえた。

 なんというか、筆の速度がわずかに不規則だった。

 中に入る。

 七瀬結衣はいつも通り窓際にいる。

 光の中。

 キャンバスの前。

 でも今日は、少しだけ肩が固い。

「来てたんだ」

 彼女は筆を動かしながら言う。

 いつもの言い方。

 でも声がほんの少しだけ軽かった。

「おう」

 俺はそれ以上深く考えずに椅子に座る。

 スケッチブックを開く。

 線はもう、ただの線じゃなくなってきている。

 何かの輪郭になりかけている。

「それ」

 結衣が言う。

「昨日より、いい」

「ほんとか?」

「うん」

 即答。

 でもその声は、どこか集中しきれていない感じがした。

 俺はふと気づく。

 結衣の筆の動きが、少しだけ遅い。

 遅いというより、止まる瞬間が増えている。

「なあ」

 俺は何気なく聞く。

「疲れてる?」

 一瞬、間が空いた。

「別に」

 短い返事。

 いつも通りのはずのその言葉が、今日は少しだけ重く感じた。

 そのあと、会話は続かなかった。

 ただ時間だけが流れる。

 窓の外では、風が少し強くなっていた。

 桜の花びらが、昨日より多く舞っている。

「ねえ」

 結衣がぽつりと言う。

「悠人」

「なんだよ」

「さっきの線」

 俺はスケッチを見る。

「これ?」

「うん」

 少しだけ間。

「いいと思う」

 その言葉はいつも通りのはずなのに、今日は少しだけ違って聞こえた。

 なんというか、“無理に明るくしている感じ”が混ざっている。

「なあ」

 俺は言う。

「なんか今日、変じゃね?」

 結衣の手が一瞬止まる。

「何が?」

「いや……なんか」

 うまく言葉にできない。

「お前さ、いつもより」

 そこで止まる。

 言っていいのか分からなかった。

 結衣は少しだけこちらを見る。

 でもすぐに視線を外す。

「気のせい」

 それだけ。

 その言い方が、妙に“逃げるための言葉”に聞こえた。

 午後の光が少しずつ傾いていく。

 いつもならその変化はただの風景なのに、今日はなぜか気になる。

「なあ」

 帰り際、俺は言う。

「明日もいるよな?」

 結衣は筆を置く。

 一瞬だけ間があった。

「いるよ」

 そう言ったあと、少しだけ視線を落とす。

 その動きが、ほんのわずかだけ引っかかった。

「ほんとに?」

 思わず聞いてしまう。

「いるって言ったでしょ」

 結衣は少しだけ強めに言う。

 でも、それは怒りじゃない。

 どこか“自分に言い聞かせている”みたいな声だった。

 その違和感が、初めてはっきり形を持った。

 放課後。

 教室に戻る廊下で、俺は少しだけ振り返る。

 美術室のドアは、もう閉まりかけていた。

 その隙間から見えた結衣の横顔が、なぜか少しだけ遠かった。

 帰り道。

 空はまだ青いのに、どこか薄い。

 昨日までと同じ空のはずなのに、少しだけ違って見える。

 俺は気づいてしまう。

 あいつは、何かを隠している。

 でもそれが何なのかは、まだ分からない。

 そしてもう一つ。

 たぶん俺は、その“分からなさ”から目をそらせなくなっている。
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