きみと描く青い未来。
第三章 名前を呼ぶ距離
気づけば、あの場所に行くのが当たり前になっていた。
美術室の前で足を止めることに、もう迷いはない。
ドアは今日も少しだけ開いている。
その隙間から、変わらない音が漏れている。
――サラ、サラ。
鉛筆が紙を走る音。
それを聞くと、なぜか少しだけ呼吸が楽になる。
中に入ると、七瀬結衣はいつも通り窓際にいた。
同じ場所。
同じ光。
同じようで、少しだけ違う背中。
その“少しだけ違う”が、最近はやけに気になる。
「また来た」
彼女は振り向かずに言う。
もう挨拶みたいになっていた。
「おう」
俺も自然に返す。
このやり取りだけで、少しだけ“ここにいていい気がする”
椅子に座る。
スケッチブックを開く。
白いページは、もう真っ白ではない。
昨日までの線が、少しだけ形を持ち始めている。
「それ」
結衣が言う。
「なんか、変わってきた」
俺はページを見る。
「そうか?」
「うん」
短い返事。
でも、ちゃんと見ている声だった。
その“見ている”という事実が、少しだけ嬉しい。
「なあ」
俺は鉛筆を動かしながら言う。
「お前って、ずっとここいるけどさ」
「うん」
「他のこと、しないの?」
結衣は少しだけ間を置く。
「してるよ」
「例えば?」
「描くこと」
それだけ。
会話が終わる。
でも気まずくはならない。
むしろ、こういう終わり方が普通になってきていた。
しばらくして、結衣がぽつりと言う。
「ねえ」
「なんだよ」
「名前」
「え?」
「まだちゃんと呼んでない」
一瞬、止まる。
確かに、俺たちはまだお互いを“名前で呼んでいなかった”。
「……お前さ」
「七瀬結衣」
先に言われる。
その言い方が、妙に真っ直ぐだった。
逃げでもなく、確認でもなく、ただ“それが自分だ”というだけの声。
「じゃあ俺は」
少しだけ間を空けて言う。
「――悠人」
自分の名前を、改めて言うのが少しだけ変な感じがした。
「悠人」
結衣が繰り返す。
たったそれだけなのに、空気の温度が少しだけ変わった気がした。
「なに」
「別に」
彼女は少しだけ視線を落とす。
「呼んだだけ」
その“呼んだだけ”が、なぜか頭に残る。
午後の光が少しずつ傾いていく。
キャンバスの影が長くなる。
「なあ」
俺は言う。
「それ、何描いてるんだよ」
結衣は筆を止める。
「まだ途中」
「それは聞いた」
「じゃあ、それでいいでしょ」
少しだけ笑ってしまう。
「お前、ほんとそれ好きだな」
「何が?」
「途中」
結衣は少しだけ考えてから言う。
「終わってるものより、好き」
その言葉は、軽いのに重かった。
気づけば、外が少し暗くなっている。
窓の青が、昼とは違う色になっていた。
「ねえ」
結衣が言う。
「悠人ってさ」
「ん?」
「なんでここ来るの」
一瞬、言葉が出ない。
理由を考えたことがなかったからだ。
「分からない」
正直に言う。
「でも、来ないと変な感じする」
結衣は少しだけこちらを見る。
その目は、いつもより少しだけ長く俺に向いていた。
「それ」
彼女が言う。
「いいと思う」
何がいいのかは分からない。
でも、その言葉は拒絶じゃなかった。
放課後。
いつものように帰ろうとする。
でも今日は、少しだけ違う。
「悠人」
後ろから声がする。
初めてちゃんと呼ばれた気がした。
振り返る。
結衣は筆を持ったまま、こちらを見ている。
「明日も来る?」
一瞬、答えに迷う。
でもすぐに頷いていた。
「行く」
結衣はそれを見て、何も言わない。
ただ、少しだけ目を細める。
それが笑顔なのかどうかは、まだ分からない。
帰り道。
俺は気づいてしまう。
この場所はもう、“行ってもいい場所”じゃない。
“行かないと落ち着かない場所”になっている。
そしてもう一つ。
⸻
あいつの声で、自分の名前が少しだけ違って聞こえた。
美術室の前で足を止めることに、もう迷いはない。
ドアは今日も少しだけ開いている。
その隙間から、変わらない音が漏れている。
――サラ、サラ。
鉛筆が紙を走る音。
それを聞くと、なぜか少しだけ呼吸が楽になる。
中に入ると、七瀬結衣はいつも通り窓際にいた。
同じ場所。
同じ光。
同じようで、少しだけ違う背中。
その“少しだけ違う”が、最近はやけに気になる。
「また来た」
彼女は振り向かずに言う。
もう挨拶みたいになっていた。
「おう」
俺も自然に返す。
このやり取りだけで、少しだけ“ここにいていい気がする”
椅子に座る。
スケッチブックを開く。
白いページは、もう真っ白ではない。
昨日までの線が、少しだけ形を持ち始めている。
「それ」
結衣が言う。
「なんか、変わってきた」
俺はページを見る。
「そうか?」
「うん」
短い返事。
でも、ちゃんと見ている声だった。
その“見ている”という事実が、少しだけ嬉しい。
「なあ」
俺は鉛筆を動かしながら言う。
「お前って、ずっとここいるけどさ」
「うん」
「他のこと、しないの?」
結衣は少しだけ間を置く。
「してるよ」
「例えば?」
「描くこと」
それだけ。
会話が終わる。
でも気まずくはならない。
むしろ、こういう終わり方が普通になってきていた。
しばらくして、結衣がぽつりと言う。
「ねえ」
「なんだよ」
「名前」
「え?」
「まだちゃんと呼んでない」
一瞬、止まる。
確かに、俺たちはまだお互いを“名前で呼んでいなかった”。
「……お前さ」
「七瀬結衣」
先に言われる。
その言い方が、妙に真っ直ぐだった。
逃げでもなく、確認でもなく、ただ“それが自分だ”というだけの声。
「じゃあ俺は」
少しだけ間を空けて言う。
「――悠人」
自分の名前を、改めて言うのが少しだけ変な感じがした。
「悠人」
結衣が繰り返す。
たったそれだけなのに、空気の温度が少しだけ変わった気がした。
「なに」
「別に」
彼女は少しだけ視線を落とす。
「呼んだだけ」
その“呼んだだけ”が、なぜか頭に残る。
午後の光が少しずつ傾いていく。
キャンバスの影が長くなる。
「なあ」
俺は言う。
「それ、何描いてるんだよ」
結衣は筆を止める。
「まだ途中」
「それは聞いた」
「じゃあ、それでいいでしょ」
少しだけ笑ってしまう。
「お前、ほんとそれ好きだな」
「何が?」
「途中」
結衣は少しだけ考えてから言う。
「終わってるものより、好き」
その言葉は、軽いのに重かった。
気づけば、外が少し暗くなっている。
窓の青が、昼とは違う色になっていた。
「ねえ」
結衣が言う。
「悠人ってさ」
「ん?」
「なんでここ来るの」
一瞬、言葉が出ない。
理由を考えたことがなかったからだ。
「分からない」
正直に言う。
「でも、来ないと変な感じする」
結衣は少しだけこちらを見る。
その目は、いつもより少しだけ長く俺に向いていた。
「それ」
彼女が言う。
「いいと思う」
何がいいのかは分からない。
でも、その言葉は拒絶じゃなかった。
放課後。
いつものように帰ろうとする。
でも今日は、少しだけ違う。
「悠人」
後ろから声がする。
初めてちゃんと呼ばれた気がした。
振り返る。
結衣は筆を持ったまま、こちらを見ている。
「明日も来る?」
一瞬、答えに迷う。
でもすぐに頷いていた。
「行く」
結衣はそれを見て、何も言わない。
ただ、少しだけ目を細める。
それが笑顔なのかどうかは、まだ分からない。
帰り道。
俺は気づいてしまう。
この場所はもう、“行ってもいい場所”じゃない。
“行かないと落ち着かない場所”になっている。
そしてもう一つ。
⸻
あいつの声で、自分の名前が少しだけ違って聞こえた。