きみと描く青い未来。

第八章 描かれるもの

 病室に通うようになってから、時間の感覚が少し変わった。

 朝が長くて、夜が短い。

 何かをしている時間より、何もできない時間のほうが重く感じる。



 病院の廊下は相変わらず静かだった。

 でも前より、その静けさに慣れてしまっている自分がいた。

 ドアの前で止まる。

 軽くノックする。

「どうぞ」

 結衣の声。

 その声だけで、少しだけ肩の力が抜ける。

 中に入ると、七瀬結衣はベッドの上に座っていた。

 前より少しだけ姿勢がしっかりしている気がする。

「今日も来たんだ」

 いつもの言い方。

「おう」

 俺も同じように返す。

 少しだけ沈黙。

 でももう、その沈黙は怖くない。

 俺は持ってきたものを机の上に置く。

 スケッチブック。

 結衣が少しだけ目を動かす。

「それ」

「続き」

 彼女は小さく息を吐く。

「ちゃんとやってるんだ」

「まあな」

 ページを開く。

 そこには、形になりかけている線がある。

 もう“ただの線”ではない。

 何かを描こうとしている線だった。

 結衣はそれをじっと見る。

「ねえ」

「なに」

「これ、一緒に描いたら?」

 一瞬、時間が止まる。

「一緒に?」

「うん」

 その言葉は、軽いようで重かった。

「俺と?」

「うん」

 結衣は少しだけ視線を落とす。

「いいじゃん、それ」

 小さな声。

 その瞬間、病室の空気が少しだけ変わった気がした。

 俺は鉛筆を取り出す。

 スケッチブックを机に広げる。

 結衣はベッドから少しだけ身を乗り出す。

「そこ、ちょっと違う」

「どこ」

「そこ」

 彼女の指が、紙の上を軽くなぞる。

 ほんのわずかな修正。

 でもそれだけで、線の意味が変わる気がした。

「お前、意外と細かいな」

「そう?」

 結衣は少しだけ笑う。

 その笑いは、前より少しだけ自然だった。

 鉛筆の音が、病室に落ちる。

 ――サラ、サラ。

 美術室と同じ音なのに、全然違う場所に感じる。

 時間が少しだけゆっくり流れる。

「なあ」

 俺は言う。

「これ、何にするつもりなんだ?」

 結衣は少しだけ考える。

「分かんない」

「またそれかよ」

 少しだけ笑ってしまう。

「でも」

 結衣は続ける。

「こういうの、残るでしょ」

 その言葉が、少しだけ胸に引っかかる。

 “残る”

 その単語が、今までと違う意味を持って聞こえた。

 俺はスケッチブックを見る。

 まだ途中の線。

 でも確かに、誰かと一緒に作られた線になっている。

「これさ」

 俺は言う。

「完成させような」

 結衣は少しだけ間を置く。

「うん」

 その返事は、静かだった。

 でも今までで一番“約束”に近かった。

 窓の外で、光が少しだけ傾く。

 結衣がぽつりと言う。

「悠人」

「ん?」

「こういうの、ちょっといいね」

 その言葉に、理由はなかった。

 でも、それで十分だった。

 病室を出る前。

 結衣がもう一度言う。

「また来て」

 俺はうなずく。

「来る」

 それだけでいい気がした。

 廊下に出る。

 さっきより、外の光が強く見える。

 でもそれは明るさじゃなくて、“距離”だった。

 俺は気づいてしまう。

 これはまだ希望かもしれない。

 でも同時に、“終わりに向かっている途中”でもある。

 それでも。

 描くことだけは、まだ続いている。
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