最後の夏、君に恋をした

第2章 少しずつ変わる日常

ゴールデンウィークが明けると、学校は一気に体育祭ムードに包まれた。

校庭には朝早くから生徒たちの元気な声が響き渡る。

「今年のリレー、神崎がアンカーだって!」

「やっぱりね! 去年も一位だったし!」

そんな会話が聞こえてきて、私は思わず怜の方を見る。

照れくさそうに頭をかきながら笑う姿は、いつもと変わらない。

「怜、おめでとう。」

「ありがと。でもさ、プレッシャーなんだよな。」

「怜なら大丈夫だよ。」

「結衣にそう言われると頑張れる。」

その一言だけで、胸がふわっと温かくなる。

そんなこと、簡単に言わないでよ……。

私だけが特別なんじゃない。

怜は誰にでも優しい。

それなのに、期待してしまう自分がいる。

昼休み。

私は教室でお弁当を広げていた。

「朝比奈さん、一緒に食べよう!」

クラスメイトに誘われ、輪の中に入る。

恋愛の話題になると、自然と怜の名前が出てきた。

「神崎くんって本当にかっこいいよね!」

「優しいし、運動もできるし!」

「今度告白しようかな。」

その言葉に、お箸を持つ手が止まった。

「え?」

「ダメかな?」

「いや……。」

笑わなきゃ。

応援するふりをしなきゃ。

「きっと……喜ぶと思うよ。」

そう言った瞬間、自分の心が少しだけ泣いた気がした。

放課後。

校庭ではリレーの練習が始まっていた。

「位置について!」

先生の笛が鳴る。

怜はスタートからぐんぐんと前へ飛び出し、あっという間に全員を追い抜いていく。

「速い!」

「神崎くんすごい!」

歓声が上がる。

でも、ゴールまであと少しというところで――。

怜の足が、ふらりと揺れた。

「……っ!」

一瞬だけ体勢を崩し、その場に膝をつく。

「神崎!」

先生が駆け寄る。

私は息をのんだ。

「怜!」

走って近づくと、怜は苦笑いを浮かべた。

「転んだだけ。」

「本当に?」

「ほら、この通り。」

そう言って立ち上がる。

周りからも「なんだ、びっくりした」と笑い声が上がった。

だけど私は笑えなかった。

怜の額には、いつも以上に汗がにじんでいた。

顔色も、少し青白い。

練習が終わり、校舎へ戻る途中。

「今日は帰ろう。」

私が声をかけると、怜は少しだけ驚いたような顔をした。

「心配してる?」

「……当たり前だよ。」

「大丈夫だって。」
 
怜は笑う。

でも、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。

「結衣。」

「ん?」

「もし俺が急にいなくなったら、どうする?」

突然の言葉に、私は立ち止まった。

「え……?」

「冗談。」

怜はすぐに笑ってごまかす。

「そんなこと言わないで。」

思わず強い口調になる。

「ごめん。」

怜は少し寂しそうに笑った。

「でもさ。」

夕日を見つめながら、小さくつぶやく。

「当たり前の毎日って、ずっと続くわけじゃないんだよな。」

その言葉の意味を、この時の私はまだ知らなかった。

ただ、胸の奥に小さな不安だけが静かに残っていた。

体育祭まであと一週間。

学校中が熱気に包まれ、どこへ行っても笑い声が聞こえてくる。

私は窓際の席からグラウンドを眺めていた。

サッカー部の練習をしている怜が目に入る。

「ナイスシュート!」

「神崎、さすが!」

部員たちの声が響く。

怜は照れくさそうに笑って親指を立てた。

その姿を見ていると、やっぱり安心する。

⋯⋯でも。

最近の怜は、時々ぼんやりと空を見上げることが増えた。

何かを考え込むような横顔。

誰にも見せない寂しそうな笑顔。

そんな表情を見るたびに、胸がざわついた。

その日の放課後。

「結衣、ごめん!」

帰る準備をしていた私に、怜が駆け寄ってきた。

「今日は一緒に帰れない。」

「部活?」

 一瞬だけ、怜の表情が曇る。

「……うん。そんな感じ。」

何かをごまかしたような笑い方だった。

「そっか。」

「また明日!」

そう言って走って行く怜。

私は窓からその後ろ姿を見送った。

だけど⋯⋯

「あれ……?」

怜はグラウンドではなく、校門を出て駅の方向へ歩いていく。

部活じゃない?

胸がざわつく。

追いかけちゃダメ。

そう思ったのに、足は自然と動いていた。


駅前。

怜は電車に乗り、二駅先で降りた。

人混みに紛れながら歩いていく。

私は見失わないように、少し距離を空けてついて行った。

しばらく歩くと、一つの大きな建物の前で怜が立ち止まる。

白い外壁。

救急車のマーク。

入口には大きく書かれた文字。

「〇〇総合病院」

「……病院?」

思わず息をのむ。

怜は慣れた様子で自動ドアをくぐっていった。

私は入口の前で立ち尽くす。

病院へ来る理由なんて、いくらでもある。

家族のお見舞いかもしれない。

健康診断かもしれない。

そう思いたかった。

でも、胸の奥では嫌な予感がどんどん膨らんでいく。

私は勇気を出して病院の中へ入った。

受付の近くにある待合スペース。

少し離れた場所に座る怜の姿が見えた。

俯いたまま、自分の順番を待っている。

学校で見せる笑顔はどこにもなかった。

その横顔は、とても苦しそうで、今にも泣き出してしまいそうだった。

「神崎さん。」

看護師さんに呼ばれ、怜が立ち上がる。

診察室へ入る直前――

怜が小さく胸元を押さえた。

私は思わず一歩踏み出しかける。

だけど、その時。

「……っ。」

怜が振り返った。

一瞬だけ、私と目が合う。

「結衣……?」

驚いたような表情。

そして、すぐに困ったように笑った。

「……なんで、ここにいるんだよ。」

私は何も答えられなかった。

聞きたいことは山ほどある。

どうして病院にいるの?

体は大丈夫なの?

最近倒れそうになったのも関係あるの?

でも、声にならない。

怜は小さくため息をついた。

「……見つかっちゃったか。」

その一言が、胸に深く刺さる。

隠していた秘密。

それが今、少しずつ明らかになろうとしていた。

診察室の扉が静かに閉まる。

私はその扉を見つめたまま動けなかった。

心臓の音だけが、静かな待合室に響いているような気がした。

⋯⋯お願い。

ただの検査だって言って。

「大丈夫」って笑って。

そう願いながら、私は扉が開くのを待ち続けた。

だけど、その願いは――

もうすぐ、残酷な現実によって打ち砕かれることになる。
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