距離感がおかしい後輩に懐かれているが、特に困ってはいない

第10話 距離感がおかしい後輩が誕生日を祝ってくれた件

 その日も、私は普段通りに会社で仕事をしていた。
 いつもと変わらない、穏やかな日常。

「茜さん、今日なにか予定ある?」

 同僚の女性にそう声をかけられ、「うん?」と少し考える。

「特にないが」

「じゃあどっか食べに行こうよ~」

 頭の中で瞬時に冷蔵庫の中身を思い出した。
 特に腐って困るようなものはなかったはずだ。
 私が「いいよ」と言おうとしたところで、「すみません」と九段坂が割り込んでくる。

「先輩は俺と先約があるので」

「え、そんなのあったっけ」

 記憶にない。
 彼となにか約束、してただろうか。

「今夜、お店予約してますよ。忘れちゃったんですか?」

「そうなのか」

 九段坂は目をうるうるさせて、こちらを見つめていた。
 ――九段坂がそう言うなら、私が忘れてたのかな。
 彼は普段から私のスケジュールを把握している。
 ちょっとした専属秘書だ。
 その九段坂が言うなら、多分そうなんだろう。

「すまん、忘れてたかも」

「謝らなくて大丈夫ですよ。でも、今度から誰かに誘われたら、俺に一言、声をかけてくださいね」

 九段坂は優しい微笑みを浮かべていた。
 同僚は引きつった笑顔で「じゃ、じゃあ、また今度ね……」と立ち去っていく。

 その後、定時になるまで、九段坂はずっとソワソワしていた。

「はあ……17時まであと39分29秒か……」

 秒数まで気にしている……。
 スマホをこまめにチェックしているし、仕事が手につかないようだ。
 入力ミスが多い。

「具合でも悪いのか? 早退するか?」

「だ、大丈夫です! 先輩とこのあとご一緒するの楽しみで!」

「そうか。でも今日はちょっとミスが多いな。少し休憩しないか?」

 私は給湯室に置かれたコーヒーメーカーに向かう。

「……すみません、先輩。俺、迷惑かけちゃってますね」

「まあ、精神的動揺で仕事が進まないのは誰にでもあるさ。今日は早めに片付けて、明日改めて取り返そう」

「はい! 定時5分前なので、帰る準備しますね」

 そんなに、私と食事するの楽しみなんだろうか。
 いつも一緒にラーメンを食べて帰っているので、内心首を傾げていた。

 2人で会社を出て、予約した店に向かう。

「ここ、肉料理が美味しいんですって。俺の奢りですから、遠慮なく食べてください」

「後輩に奢らせるのもどうなんだという感じがするが」

「そんなの、気にしないでください! 今日は特別な日ですから」

「うん?」

 言われた意味がよくわからなかったが、九段坂はニコニコしているだけ。
 不思議に思いながら、食事をしていると、突然店の中が暗くなった。

「停電か?」

「違います」

「事件?」

「違います」

「爆発予告?」

「違いますよ。先輩、本当に覚えてないんですか?」

「なにが?」

 わけがわからない。
 九段坂が、静かな口調で、こう告げる。

「先輩、お誕生日おめでとうございます」

「え?」

 ワゴンで、ケーキが運ばれてきた。
 周りの客が拍手する。

「……私の誕生日だったか」

「先輩、本気で忘れてたんですね」

 九段坂は若干、寂しそうな笑みを浮かべていた。

「……よく覚えてたな」

「先輩のことなら全部覚えてます」

「そうか。私は正直、役所の書類書くときも年齢を忘れる」

「先輩が忘れても俺が覚えてますから安心してください」

「助かる」

 本当に、秘書並みに頼りになる後輩である。
 ふと、時間を確認する九段坂。

「あと3分ですね」

「?」

 私もつられて時計を見る。
 1時59分。

「これで、生まれた時間です」

「そこまで再現する必要はあるのか。というか、なんで知ってるんだ」

「先輩のお義母さんから聞きました」

「……」

「あ、正確には『先輩のお母さん』ですね。まだ義理ではないので」

「そういう問題ではない。……母さんに会ったのか?」

「はい。去年」

「去年?」

「先輩の実家の住所、年賀状の住所録に書いてあったので」

「それを使うな」

「お土産もいただきました」

「母さんも渡すな」

 私は、実家に住む母の顔を思い出していた。
 ……まあ、でもあの母が気に入るのなら、九段坂は悪い男ではないのだろう。
 久々に、母に会いたい気がした。
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