大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~
帰るべき場所
日曜日は青空の広がるよいお天気だった。
朝は冷え込んだものの、日が高くなるにつれて寒さもだいぶやわらいだ。
いくぶん輝きを増した二月の光が射し込む自室で、澄乃は外出の支度を整えていた。
鏡台の前に立ち、帯の具合を確かめる。着物は淡い若竹色の縮緬に白梅を散らした小紋だ。深い紫紺の帯には母の形見である翡翠の帯留を合わせた。
髪はいつもの小さめの束髪ではなく、前を分けて横に流して襟足の少し上で小さくまとめた。小粒の珊瑚をあしらった銀の櫛を挿す。洋楽の演奏会なので少しだけ洋風な趣を取り入れてみたのだが……どうだろう。
変じゃないかしらと鏡の前で何度も顔を左右に向けて確かめていると、扉の向こうから千夏の元気な声が聞こえてきた。
「若奥様、お支度はお済みですか? 若旦那様が玄関でお待ちですよ」
焦って出て行くと、千夏がにっこりした。
「わぁ、素敵! いいですねぇ、御夫婦揃ってお出かけ!」
「ありがとう……」
澄乃は頬を染め、そそくさと階段を下りた。
玄関に控えていた佐和が頭を下げ、朔也が振り向く。濃灰色の背広に黒い羅紗の外套。深緑のネクタイが、ちらりと覗いた。
「お待たせしました」
「いいえ」
穏やかに、彼は微笑んだ。いつものことなのに妙にどぎまぎしながら腕にかけていた道行を羽織る。
朔也は動かなかった。以前はさりげなく背後に回って襟を整えてくれたものだが、今は距離を保って手を伸ばそうともしない。自分で襟を整え、袖を通し、紐をきゅっと縛る。少し強く結びすぎたような気がした。
襟元を確かめから朔也に頷いてみせると、彼は扉を開けて外に出た。入り込んだ冬の冷気に小さく肩をすくめ、後に続く。車寄せにはすでに自動車が回され、後部座席の前に立っていた村瀬がさっと扉を開けた。
澄乃に続いて朔也が乗り込み、扉を閉めた村瀬が運転席に収まる。深々とお辞儀をする佐和と千夏に見送られ、車はゆっくりと動き出した。
屋敷を出ると速度が上がり、車窓を冬枯れの並木が流れてゆく。しばらく進み、市電の線路が陽光を弾いて白く光るさまをぼんやりと澄乃は眺めた。
朔也は無言のまま、窓の外に目を向けている。
ふたりの間は、拳ふたつぶんほど空いていた。椿山御殿から帰るときは、しっかりと肩が触れていたのに。あの大きな手が自分の手をあたたかく包んでいたのに。
そうさせたのは──わたしだ。
上野の杜は賑わっていた。
葉を落とした欅の上に、穏やかな午後の空が広がっている。奏楽堂の手前で車を降り、ふたり並んで建物へ向かう人の流れに混ざった。
和装の婦人、フロックコートの紳士、モダンな洋装の令嬢。いずれも期待に満ちた晴れやかな顔で、周囲は華やいだ空気に満ちている。
入口で券を渡し、会場へ入った。ここへ来るのは女学校以来だ。
朝は冷え込んだものの、日が高くなるにつれて寒さもだいぶやわらいだ。
いくぶん輝きを増した二月の光が射し込む自室で、澄乃は外出の支度を整えていた。
鏡台の前に立ち、帯の具合を確かめる。着物は淡い若竹色の縮緬に白梅を散らした小紋だ。深い紫紺の帯には母の形見である翡翠の帯留を合わせた。
髪はいつもの小さめの束髪ではなく、前を分けて横に流して襟足の少し上で小さくまとめた。小粒の珊瑚をあしらった銀の櫛を挿す。洋楽の演奏会なので少しだけ洋風な趣を取り入れてみたのだが……どうだろう。
変じゃないかしらと鏡の前で何度も顔を左右に向けて確かめていると、扉の向こうから千夏の元気な声が聞こえてきた。
「若奥様、お支度はお済みですか? 若旦那様が玄関でお待ちですよ」
焦って出て行くと、千夏がにっこりした。
「わぁ、素敵! いいですねぇ、御夫婦揃ってお出かけ!」
「ありがとう……」
澄乃は頬を染め、そそくさと階段を下りた。
玄関に控えていた佐和が頭を下げ、朔也が振り向く。濃灰色の背広に黒い羅紗の外套。深緑のネクタイが、ちらりと覗いた。
「お待たせしました」
「いいえ」
穏やかに、彼は微笑んだ。いつものことなのに妙にどぎまぎしながら腕にかけていた道行を羽織る。
朔也は動かなかった。以前はさりげなく背後に回って襟を整えてくれたものだが、今は距離を保って手を伸ばそうともしない。自分で襟を整え、袖を通し、紐をきゅっと縛る。少し強く結びすぎたような気がした。
襟元を確かめから朔也に頷いてみせると、彼は扉を開けて外に出た。入り込んだ冬の冷気に小さく肩をすくめ、後に続く。車寄せにはすでに自動車が回され、後部座席の前に立っていた村瀬がさっと扉を開けた。
澄乃に続いて朔也が乗り込み、扉を閉めた村瀬が運転席に収まる。深々とお辞儀をする佐和と千夏に見送られ、車はゆっくりと動き出した。
屋敷を出ると速度が上がり、車窓を冬枯れの並木が流れてゆく。しばらく進み、市電の線路が陽光を弾いて白く光るさまをぼんやりと澄乃は眺めた。
朔也は無言のまま、窓の外に目を向けている。
ふたりの間は、拳ふたつぶんほど空いていた。椿山御殿から帰るときは、しっかりと肩が触れていたのに。あの大きな手が自分の手をあたたかく包んでいたのに。
そうさせたのは──わたしだ。
上野の杜は賑わっていた。
葉を落とした欅の上に、穏やかな午後の空が広がっている。奏楽堂の手前で車を降り、ふたり並んで建物へ向かう人の流れに混ざった。
和装の婦人、フロックコートの紳士、モダンな洋装の令嬢。いずれも期待に満ちた晴れやかな顔で、周囲は華やいだ空気に満ちている。
入口で券を渡し、会場へ入った。ここへ来るのは女学校以来だ。