大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~
 ちぎれた、赤い糸。捨てるしかない長さの、赤い糸。

 澄乃は両手で顔を覆った。

 冴子のあざ笑う声が、幻のように響いた。


 
 朔也の日常的な習慣は、それからも変わらなかった。朝晩の挨拶も、夕餉の後の語らいも。

 ただ、以前より距離を取るようになった。手を伸ばしても届かない距離を保ち、なるべく近づかないよう用心しているのがわかる。

 すれ違いそうだと思えば、立ち止まって待つか、引き返してしまう。

 そうなったのも自業自得なのに、拒絶されているようで傷ついてしまう自分はなんて勝手なのだろう。

 椿山御殿の帰り、握られた手をそっと握り返した。車の中で触れていた、あのしっかりした肩に安堵していた。

(……どうすればいいの?)

 機械的に食後のお茶を啜っていた澄乃は、ふと気付いた。

 朔也の声が、聞こえない。食堂の暖炉で薪が爆ぜる音が、にわかに大きくなった気がした。

 そろりと朔也を窺うと、彼は掌で湯呑みを包み、何か考え込むように軽く眉根を寄せて何もない食卓を見つめていた。

 やけに真剣な表情に胸を衝かれる。

「──澄乃さん」

 食卓に目を向けたまま、朔也が固い口調で切り出した。

「は、はい」

 反射的に背筋を伸ばすと、彼はおもむろに懐から封筒を取り出して食卓に置いた。

「今度の日曜──明後日ですが、上野で洋楽の演奏会があります。券を二枚購入しました。お嫌でなければ……ご一緒にいかがでしょうか」

 お嫌でなければ。

 その一語に、澄乃はひどく動揺した。椿山御殿のときは、これほど下手に出たりしなかった。一緒に行きませんか、と、ごく自然に誘ってくれたのに。

 わたしの、せいで──。

 澄乃は大きくかぶりを振って身を乗り出した。

「参ります。ぜひ、ご一緒させてください」

 朔也の目元が、ホッとしたようにやわらぐ。

「ありがとう。では、この券はあなたに預けておきます」

 朔也は少しだけ封筒を澄乃のほうへ滑らせて立ち上がり、会釈をして出ていった。

 澄乃は封筒を手に取り、中身を取り出した。厚紙の鑑賞券が二枚入っている。

「……ドヴォルザーク」

 澄乃はたどたどしく呟いた。

 初めて聞く作曲家だ。どこの人だろう?

 曲名は──交響曲第九番『新世界より』。

 不思議に胸がざわめいた。

 新世界。

 それはいったいどんな世界なのか。 

 漠たる憧れと恐れが胸底から込み上げ、我知らず澄乃は小さく身を震わせた。
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