大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~
 この屋敷に澄乃が存在しなくても、彼は同じように玄関の扉を開け、同じ声音で告げるのだろうか。

『ただいま戻りました』と。

 そう考えるとたまらなく怖くなって、迎えに出られなくなった。部屋の扉を開け、顔を見合わせることも──。

 急に気持ちが昂って、澄乃は掌で掬った湯を顔に叩きつけた。熱い湯が頬を滑り落ち、ぽたぽたと顎から滴る。

「……帰るべき、場所」

 そうだ。朔也は自分の帰るべき場所について考えたのだと話してくれた。

 澄乃に。

 それはきっと、澄乃こそがその『場所』だと言いたかったからで──。

『本当の夫婦とは申せませんわね』

 記憶の中の冴子がまたも嘲る。

 年末に結婚して、もう二月。朔也は一度も澄乃を求めなかった。

 無理強いはしないと、祝言の日に言ったきり。

 触れることはあった。手を差し出し、支え、導いてくれたことも。

 大切にされていると感じた。守られていると思った。

 けれどそれは、壊れやすいものを扱う慎重さではなかったか。

 夜になれば、それぞれの部屋へ戻る。

 おやすみなさいと声をかけ合いはしても、横たわるのは別の部屋の、別の寝台。

 それを不自然とは思わなかった。朔也は最初に言ったのだ。

 『あなたの望まないことは、決してしません』

 と。

 ……その言葉に甘えていたのかもしれない。

 彼が自分をひとりの女として望んでいるのか、それとも単に一条家の次期当主として責任感から妻の隣にいるだけなのか、考えなくて済んだから。

 そこへ冴子が嵐をもたらした。

 平穏だった凪の日々を、激しくかき乱すように──。

 澄乃は左腕を持ち上げて眺めた。

 とうに痣は消えているのに、冴子に掴まれたときの感触がいつまでも生々しく居残っている。

 白魚のように美しい手。けれど、露骨な悪意と害意とに満ち満ちた手。

 朔也の手は違う。武骨な手が示すのは、あくまで控え目な気遣いと思いやりだ。

 わかっている。わかっているのに……何故あのとき打ち払ってしまったのだろう。

 触れられるのが怖かった?
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