大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~
 澄乃は閉まった扉を凝視しながら耳を澄ませた。規則正しい硬質な靴音が遠ざかってゆく。

 もしも手を伸ばしていたら、どうなっていたのだろう。

 もしも彼が振り向いていたら……?

 靴音が完全に聞こえなくなるまで、澄乃はとりとめもない夢想とともに立ち尽くしていた。



 昼過ぎから雨が降り出した。同時に、ここ数日の暖かさの反動のように冷え込み始める。

 澄乃は窓硝子を伝う雨垂れごしに、陰鬱な曇天を見上げた。

 演習の打ち合わせをすると、朔也は言っていた。兵站局勤めの少佐なのだから、自ら泥の中を駆け回るようなことはないのだろうけれど……それでもこの雨の中、演習場まで出向いているかもしれない。

 時折窓を見上げながら刺繍を続けるうちにも雨足は強くなり、ふだんよりずっと早く室内が暗くなった。洋燈(らんぷ)に火を点けて作業を進める。

 雨音を聞きながら刺繍をするのは嫌いではなかった。手許が暗いのは困るが、集中力が増すような気がする。

 やがて、雨音にまぎれて玄関から物音が伝わってきた。ハッとして暖炉の上の時計を見ると、ちょうど朔也の帰宅時間だ。澄乃は針を針山に戻し、急いで部屋を出た。

 玄関では朔也が軍帽を脱いで雨粒を軽く払っているところだった。外套についた滴が、玄関の灯を反射してかすかに光る。「お帰りなさいませ」

 振り向いた朔也が目許をやわらげる。

「ただいま戻りました」

「雨になってしまいましたね。お寒かったでしょう」

 手を伸ばした澄乃に軍帽を預けながら彼は微笑んだ。

「たいしたことはありません」

「演習は無事に済みましたの?」

「予定どおりです。私は現地には行っていませんが、演習中は天候もなんとかもったそうです」

 淡々と朔也は答えた。

「それはようございました」

 仕事とはいえ、兵隊さんがずぶ濡れの泥まみれになるのはやはり気の毒だ。

 そこへ朔也の帰宅に気付いた佐和が台所から出てきた。

「お帰りなさいませ。──お帽子と外套をこちらへ。乾かしておきますから」
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