大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~
「……え。わたしのことですか……!?」 

「もちろん澄乃さんに決まってるでしょ。これほどの腕を埋もれさせておくのは惜しいって、いくつか刺繍作品を見せてほしいそうよ。ついでにぜひ錦華屋の美術工芸売場を案内したいのですって」

 夫人はハンドバッグから取り出した名刺を卓上に置いた。


  株式会社 錦華屋呉服店
  常務取締役 瀬田利一(りいち)


「そういうわけで、澄乃さんを錦華屋へお連れすることになりましたの」

 勝手に独り決めされて澄乃は目を白黒させた。

「百貨店へ、ですか?」

「ええ。わたくしがご一緒しますから、ご心配には及びません。わたくしが見出した方ですもの、責任を持ってちゃんとお引き合わせしなければね」

 夫人の中ではすでに筋書きが出来上がっているようだ。当然、悪気は少しもない。

 さすがに日取りは澄乃の都合で決めてよいと言われたが、行かないという選択肢は用意されていないらしい。絶対行きたくない、というわけでもないので、そこは追及しなかった。

 篠田夫人を送り出し、ふたたび応接室に戻ってソファに座る。

 卓上に、瀬田利一の名刺が残されていた。

 澄乃はそれを手に取り、「錦華屋」の三文字を指先でなぞった。

 正直、少し……いや、かなり興味がある。

 そして、急に思い出した。糸箱の蓋裏に挟んだ、あのチラシ。あれは錦華屋百貨店の前で配られていたものだ。

 描かれていた、舶来品の花模様の手巾を見るたび、もやもやした思いに駆られていた。

 わたしなら、もっと素敵に繍えるのに、と。

 密かな対抗心を抱きながら遠く眺めていた世界から、こちらの仕事を見たいと求められた。

 そう考えただけで、胸が震えるような高揚感を覚える。

 だけど──。

 百貨店の担当者に作品を見せるのは、顔見知りからの注文仕事とはまるで勝手が違う。何を求められるのか、どのような話になるのか、見当もつかない。

 ふと、朔也の冷静な面差しが頭に浮かんだ。

 この話を聞いたら、彼はなんと言うだろう。

 喜んでくれるのか、それとも、止められるのか。

(……ただ、百貨店に行くだけよ)

 見物ついでに、自分の刺繍をちょっと見せるだけ。

 いずれにしても、黙っているわけにはいかない。いや、朔也に内緒でこっそり出かけるのが、なんだか厭なのだ。

 澄乃は名刺を見つめ、そっと溜め息を洩らした。
< 75 / 79 >

この作品をシェア

pagetop