凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる
第二話:引き剥がされた檻
「なっ……ガルディニアの、王太子殿下!? お待ちください、その女は我が公爵家を貶めた悪女で……!」
元婚約者の男が、狼狽しながらもゼオンへ取り入ろうと声を張り上げる。その隣では、妹のステラが憐れみを誘うように可憐に震えてみせていた。
だが、ゼオンは振り返りさえしなかった。ただその場にいる全員の呼吸を止めるほどの、圧倒的な殺気を孕んだ一瞥を背後に投げる。
「不快だ。これ以上その汚い口を開けば、貴公の首をこの場で撥ね、公爵家ごと歴史から消し去ることになるが?」
「っ……ひ、ぃ……!」
冷徹無比と名高い大国の覇王からの、冗談には聞こえない脅迫。男は恐怖に顔を土気色に変え、ステラと共にガタガタと震えながら後退りした。周囲の貴族たちも、まるで恐ろしい肉食獣を前にしたかのように、完全に静まり返っている。
その異常な光景の真ん中で、手首を掴まれたままのエルサだけが、他人事のように冷静だった。
(……怒っている。なぜかしら)
エルサの琥珀の瞳は、自分を凝視するゼオンの紺色の瞳を、ただ静かに見つめ返していた。
怖くはなかった。前世での二十五年、そして今世の十数年。彼女にとって世界とは「理不尽に搾取され、誰も助けてくれない場所」だった。今さらどんな強力な権力者に脅されようが、肉体が壊れるだけの話だ。死は、孤独な魂にとってむしろ休息でさえある。
そんな彼女の、あまりにも「大人びた、冷え切った悟り」を察したのか、ゼオンの厳つい眉がわずかに歪んだ。
「行くぞ、エルサ」
ゼオンは彼女の手首を掴んだまま、大股で歩き出す。エルサはその強引な足取りに、逆らうことなく従った。
王宮の外には、ガルディニアの漆黒の馬車が待機していた。
ゼオンに促されるまま馬車に乗り込むと、中には贅を尽くした空間が広がっていた。対面に座ったゼオンは、組んだ足の膝に肘をつき、鋭い視線をエルサから外さない。
その隣には、筆頭側近であるカイルが、困惑と警戒の入り混じった複雑な表情で控えていた。
「……殿下。いくら他国の夜会とはいえ、流石に強引すぎます。彼女は『悪女』と噂される令嬢。我が国にどのような不利益をもたらすか分かりません」
カイルの極めて真っ当な進言。それを聞いて、エルサは小さく頷いた。
「その方の仰る通りです、殿下。私には何もありません。前世でも今世でも、私はただ都合よく使われ、最後は誰の記憶にも残らず捨てられるだけの存在。私を連れて行っても、あなたに何の利益ももたらしません」
二十五年の飢えと孤独、そして今世での搾取。彼女の言葉には、謙遜ではなく、気の遠くなるような時間をかけて骨の髄まで染み付いた「事実としての諦め」があった。
だが、ゼオンはフッと鼻で笑った。
「前世だの何だの、お前が何をブツブツ言っているのかは知らん。だがな、エルサ。俺の目に狂いはない」
ゼオンは身を乗り出し、エルサの冷え切った両手を、己の大きな、熱い手で包み込んだ。
「あの泥塗れの檻の中で、世界中のすべてを諦めながら、それでも高潔に立っていたお前を見た瞬間、俺の魂が叫んだんだ。ーーこの女(ひと)を、絶対に手放すな、とな」
「……!」
「お前が己を無価値だと言うなら、俺がその価値をいくらでも作ってやる。我が国ガルディニアへようこそ、俺の愛しき異邦人」
ゼオンの紺色の瞳に宿る、圧倒的なまでの情熱と確信。
それは、大人になるまで誰一人として彼女を大切にしなかった二十五年の闇に、初めて突き刺さる強烈な「太陽の光」だった。エルサの凍てついた琥珀の瞳が、ほんのわずかに、戸惑うように揺れ動いた。
< 2 / 76 >

この作品をシェア

pagetop