凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる
第二章:至宝の覚醒と甘やかな毒
第三十三話:王太子の執務室、あるいは極上の檻(エルサ・ゼオン視点)
【エルサ視点】「無職」という名の異常事態
あの嵐のような謁見から、数ヶ月が経った。
ベルトラン公爵家の没落の報せは、カイル様を通じて私の耳にも届いたけれど、私の心には驚くほどさざ波一つ立たなかった。前世の二十五年、今世の十数年、あれほど私を縛り付けていた恐怖の対象は、今や本当にただの「通り過ぎた過去」になったのだ。
……しかし。
過去の呪縛から解放された私を待っていたのは、別の意味で私の「大人の頭脳」を激しく混乱させる異常事態だった。
「……ゼオン様。お言葉ですが、私は今日も何もすることがありません」
私は、王宮の最奥にあるゼオン様の広大な執務室、その一角に用意された、最高級のシルクが張られたソファの上から声を上げた。
手元にあるのは、贅沢な刺繍が施されたクッションと、マルタが淹れてくれた最高級のハーブティー。そして、私が退屈しないようにと集められた、大陸中の歴史書や神話の数々。
要するに、私は現在、完全なる「無職」だった。
「いいのだ、エルサ。お前はそこに座って、俺が働く姿を眺めていればそれでいい。それがお前の今日の『国務』だ」
デスクでペンを動かしていたゼオン様が、顔を上げて極上の笑みを浮かべる。
前世の過酷なオフィスで、秒単位のタスクに追われていた私にとって、ただ座っているだけで衣食住のすべて(それも最高級品)が与えられるこの環境は、もはや恐怖を通り越して哲学的な問いすら抱かせる。
(役に立たなくていい、とは言われましたが……本当に、一ミリも働かせてもらえないなんて。これが大国の王太子の『甘やかし』の規模だというのですか……?)
私の大人の理性は、このあまりにも居心地の良い「極上の檻」に、どう適応すべきか完全に見失っていた。
【ゼオン視点】我が眼福、我が至高の癒やし
ペンを走らせながら、俺は視線を部屋の特等席へと向ける。
そこには、仕立てたばかりの淡いアプリコット色のドレスを纏い、所在なさげに本をめくっているエルサの姿があった。
かつて凍死寸前の瞳で俺を拒絶していたあの女性が、今、俺のすぐ手の届く場所で、俺の与えた温もりに包まれている。その事実だけで、机の上に山積みにされた退屈な軍事報告書や、貴族どもからの陳情書など、いくらでも片付けられるというものだ。
「ゼオン様、そんなに見つめられては、書類の文字が頭に入らないのではありませんか? やはり、私は自分の部屋に戻った方がーー」
「駄目だ」
立ち上がろうとするエルサを、俺は言葉一つで制する。
「お前がそこにいてくれないと、俺の頭脳の処理速度が通常の三割まで落ちる。ガルディニアの未来のためにも、お前はそこから一歩も動いてはならない」
「……そんな不条理な統計学、聞いたことがありません」
呆れたように、けれどほんのりと頬を染めてため息をつくエルサ。
その大人の理屈で武装した彼女の表情が、俺の愛によって少しずつ、柔らかく崩れていくのを見るのが、今の俺の最大の娯楽だった。
だが、俺は知っている。エルサのあの圧倒的な知性が、ただ眠っているだけの器ではないことを。
そして、この甘やかな日常に、新たな「波乱」が近づいていることも。
「殿下、失礼いたします。例の『隣国からの不可侵条約の更新案』について、少々不可解な数字が検出されました」
部屋の扉が開き、側近のカイルが、深刻な顔で厚い書類の束を持って入ってきた。
【エルサ視点】「無職」という名の異常事態
あの嵐のような謁見から、数ヶ月が経った。
ベルトラン公爵家の没落の報せは、カイル様を通じて私の耳にも届いたけれど、私の心には驚くほどさざ波一つ立たなかった。前世の二十五年、今世の十数年、あれほど私を縛り付けていた恐怖の対象は、今や本当にただの「通り過ぎた過去」になったのだ。
……しかし。
過去の呪縛から解放された私を待っていたのは、別の意味で私の「大人の頭脳」を激しく混乱させる異常事態だった。
「……ゼオン様。お言葉ですが、私は今日も何もすることがありません」
私は、王宮の最奥にあるゼオン様の広大な執務室、その一角に用意された、最高級のシルクが張られたソファの上から声を上げた。
手元にあるのは、贅沢な刺繍が施されたクッションと、マルタが淹れてくれた最高級のハーブティー。そして、私が退屈しないようにと集められた、大陸中の歴史書や神話の数々。
要するに、私は現在、完全なる「無職」だった。
「いいのだ、エルサ。お前はそこに座って、俺が働く姿を眺めていればそれでいい。それがお前の今日の『国務』だ」
デスクでペンを動かしていたゼオン様が、顔を上げて極上の笑みを浮かべる。
前世の過酷なオフィスで、秒単位のタスクに追われていた私にとって、ただ座っているだけで衣食住のすべて(それも最高級品)が与えられるこの環境は、もはや恐怖を通り越して哲学的な問いすら抱かせる。
(役に立たなくていい、とは言われましたが……本当に、一ミリも働かせてもらえないなんて。これが大国の王太子の『甘やかし』の規模だというのですか……?)
私の大人の理性は、このあまりにも居心地の良い「極上の檻」に、どう適応すべきか完全に見失っていた。
【ゼオン視点】我が眼福、我が至高の癒やし
ペンを走らせながら、俺は視線を部屋の特等席へと向ける。
そこには、仕立てたばかりの淡いアプリコット色のドレスを纏い、所在なさげに本をめくっているエルサの姿があった。
かつて凍死寸前の瞳で俺を拒絶していたあの女性が、今、俺のすぐ手の届く場所で、俺の与えた温もりに包まれている。その事実だけで、机の上に山積みにされた退屈な軍事報告書や、貴族どもからの陳情書など、いくらでも片付けられるというものだ。
「ゼオン様、そんなに見つめられては、書類の文字が頭に入らないのではありませんか? やはり、私は自分の部屋に戻った方がーー」
「駄目だ」
立ち上がろうとするエルサを、俺は言葉一つで制する。
「お前がそこにいてくれないと、俺の頭脳の処理速度が通常の三割まで落ちる。ガルディニアの未来のためにも、お前はそこから一歩も動いてはならない」
「……そんな不条理な統計学、聞いたことがありません」
呆れたように、けれどほんのりと頬を染めてため息をつくエルサ。
その大人の理屈で武装した彼女の表情が、俺の愛によって少しずつ、柔らかく崩れていくのを見るのが、今の俺の最大の娯楽だった。
だが、俺は知っている。エルサのあの圧倒的な知性が、ただ眠っているだけの器ではないことを。
そして、この甘やかな日常に、新たな「波乱」が近づいていることも。
「殿下、失礼いたします。例の『隣国からの不可侵条約の更新案』について、少々不可解な数字が検出されました」
部屋の扉が開き、側近のカイルが、深刻な顔で厚い書類の束を持って入ってきた。