凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる
第三十四話:数字の裏の牙(カイル・エルサ視点)
【カイル視点】蛇の誘い、天才の触知
「ーー不可解な数字、ですか」
入室した私を、ゼオン殿下は鋭い目で見据え、ソファに座るエルサ様は静かに琥珀色の瞳をこちらへ向けられました。
お持ちしたのは、隣国マルドゥーク帝国から提示された『魔石通商および不可侵条約』の更新草案です。一見すれば、我が国に有利な関税の引き下げと、平和的な関係の維持を約束する完璧な内容に見えます。しかし、私の中に潜む文官としての直感が、この書類の底流にある不穏な歪みを捉えていました。
「ええ。ですが、相手はあの狡猾な帝国の外交官どもです。算出根拠の偽装が極めて巧妙で、我が国の財務部が総出で検算しても、どこに『罠』が仕掛けられているのか、未だに特定できておりません。……そこで、殿下」
私は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、視線をあえて殿下ではなく、その隣の「至宝」へと向けました。
「ここは一つ、我が国が誇る最高の『頭脳』に、ご意見を伺うわけにはいかないでしょうか」
「カイル、貴様……エルサをまた働かせる気か」
殿下の声が、地を這うような低音へと変わります。その紺色の瞳には、明らかな不快感と過保護な独占欲がギラりと輝いていました。エルサ様を一切の労苦から遠ざけ、ただ甘やかすと決めた殿下にとって、私のこの提案は不敬極まりないものだったでしょう。
しかし、私は知っているのです。
エルサ様というお方は、ただ飾られるだけの硝子の細工物ではない。その本質は、複雑な数式と世界の真理を支配する、圧倒的な捕食者側の「知性」なのだと。
【エルサ視点】眠れる知性の覚醒
「カイル様。その書類、私に見せていただけますか」
ゼオン様がカイル様を睨みつけるより早く、私の唇からその言葉が自然と零れ落ちていました。
数ヶ月の間、何もせず、ただゼオン様に甘やかされるだけの生活。それは確かに私の傷ついた心を癒やしてくれましたが、同時に、私の前世二十五年と今世で培った「大人の頭脳」は、刺激に飢えて、じりじりと燻っていたのも事実でした。
「エルサ、無理をするな。そんな退屈な紙屑、俺が力ずくで破棄してやってもいいのだぞ」
ゼオン様が私の手を握り、心配そうに顔を覗き込んできます。その理不尽な優しさに胸を暖められながらも、私は静かに首を振りました。
「いえ、ゼオン様。これは私の『義務』ではなく、ただの『趣味』としての計算です。……よろしいですね?」
カイル様から受け取った、厚みのある羊皮紙の束。
そこに並ぶ、何千、何万という複雑な交易品目と、魔石の純度ごとの価格変動グラフ。その数字の列を目にした瞬間、私の脳細胞のすべてが、まるで冷水を浴びせられたかのように、爆発的な速度で回転を始めました。
(……なるほど。一見すると、ガルディニア側が莫大な利益を得るように見せておきながら、特定の数式にだけ『奇妙な係数』が掛けられているわね)
前世の悪質な金融商品や、ベルトラン公爵家で押し付けられた詐欺的な契約書の山。それらに比べれば、帝国の隠蔽工作など、あまりにも見え透いた児戯に等しいものでした。
「カイル様、羽ペンと白紙を」
私の声から、先ほどまでの所在なさげな「無職の少女」の響きは消え失せていました。
代わりに部屋を満たしたのは、かつて数々の難局を冷徹に処理してきた、冷徹で、完璧なる「大人の頭脳」の気配。
「三分で、この数字の裏に隠された帝国の『牙』をすべて引きずり出して見せます」
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