凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる
第三十五話:神の領域、天才の蹂躙(ゼオン・カイル視点)
【ゼオン視点】狂おしき至高の「怪物」
「……おい、嘘だろ」
俺の目の前で、羽ペンが猛烈な速度で羊皮紙を走る音が、静まり返った執務室に響き渡っていた。
カイルから書類を受け取った瞬間、エルサの雰囲気が完全に変貌した。
さっきまで俺の愛に気恥ずかしそうに頬を染め、所在なさげにクッションを抱えていた愛らしい少女は、もうそこにはいない。
琥珀色の瞳は極低温の刃のように冴え渡り、大陸中の財務官が何日かけても解けないであろう複雑怪奇な帝国の隠蔽数式を、まるで呼吸でもするかのように上から順に解体していく。
「ーーこの項目の魔石純度、統計学上の『平均値』の算出方法が意図的に歪められています。こちらの市場価格の変動グラフと照合すれば……ほら、ここに年4.2%の『見えない隠し口座への流出(スプレッド)』が仕込まれているわ」
エルサは呟きながら、恐ろしい手際で帝国の罠に赤線を引いていく。
その思考速度は、もはや人間のそれではない。神が地上に遣わした、知性の化身ーー。
俺の胸の奥で、ゾクゾクとするような熱い衝撃が駆け抜けた。
ああ、やはり俺の目に狂いはなかった。この女は、ただ俺の腕の中で守られるだけの硝子の細工物などではない。一国を、大陸を、その指先一つでひっくり返せる本物の「怪物(至宝)」だ。
「完璧ね。ーーはい、これが帝国の外交官たちが仕込んだ『牙』の全容です、カイル様」
わずか三分。
エルサは、真っ白だった羊皮紙を完璧な分析数式で埋め尽くし、ふぅ、と小さく息を吐いて羽ペンを置いた。その瞬間、いつもの穏やかな、少し困ったような少女の顔に戻って俺を見つめてくる。
そのギャップに、俺の独占欲と愛おしさは完全に限界を突破した。俺はデスクを蹴るようにして立ち上がり、彼女をソファごと抱きしめるようにしてその細い肩を掻き抱いた。
「エルサ……! お前は、お前は本当に……最高だ!!」
「ぜ、ゼオン様!? カイル様が見ていらっしゃいます……っ!」
赤くなる彼女を無視して、俺は心の中で確信していた。この頭脳を道具として使い潰そうとしたあの国は、やはり滅びて当然の愚者だったのだと。
【カイル視点】戦慄と、絶対的な歓喜
「……神がかり、という言葉すら生ぬるい」
手渡されたエルサ様の分析書を凝視したまま、私は自分の手が微かに震えているのを自覚していました。
我が国の優秀な財務官たちが丸三日間徹夜して「何かがおかしい」と頭を抱えていた暗号のような条約文が、彼女の手によって、わずか百八十秒で「ただの幼稚な詐欺の証明書」へと書き換えられてしまったのです。
もしこれを見抜けずに調印していれば、我が国は今後十年間で、数百万ゴールドに及ぶ国力を帝国に合法的に搾取され続けていたでしょう。
(ベルトラン公爵家め。これほどの『国家の根幹』を担える頭脳を、ただの雑務処理係として扱い、あまつさえ『無能』と蔑んでいたとは……)
あまりの愚行に、怒りを通り越して笑いが込み上げてきます。彼らが手放したのは、ただの優秀な娘ではない。世界の理(ことわり)そのものを支配する、唯一無二の至宝だったのです。
「カイル。この書類を持って、今すぐ帝国の使者の首根っこを掴んでこい。我が国の『未来の王太子妃』を騙そうとした対価がどれほどのものか、骨の髄まで教えてやれ」
エルサ様を腕の中に囲い込み、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべるゼオン殿下。
そして、殿下の胸の中で「騙そうとしたのは我が国(ガルディニア)であって、私ではないのですが……」と大人の理性で困惑されているエルサ様。
「御意に、殿下。……エルサ様、我がガルディニアを救っていただき、心より感謝申し上げます」
私は深く、魂からの敬意を込めてエルサ様に一礼しました。
このお方がガルディニアにいる限り、我が国に敗北などあり得ない。私は眼鏡の位置を直し、帝国の使者を地獄へ突き落とすための最高の武器(分析書)を手に、歓喜の足取りで執務室を後にしました。
< 36 / 76 >

この作品をシェア

pagetop