凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる
第四十七話:純白のファーストステップ(エルサ・ゼオン視点)
【エルサ視点】「自分の意思」という難解な数式
王太子妃としての生活が本格的に始まって数日。私は今、離宮のサンルームで、人生最大とも言える難問に直面していました。
「エルサ。今日の午後は完全に公務も予定もない。お前の好きなように過ごしていいぞ。……さあ、何がしたい?」
対面に座るゼオン様が、極上のハーブティーを口に含みながら、ひどく甘く優しい眼差しをこちらに向けてきます。
「私の……好きなように、ですか?」
私の大人の頭脳が、その言葉を受けた瞬間に激しく回転を始めます。
前世の二十五年、そして今世のベルトラン公爵家での日々。私に与えられてきたのは常に「命令」と「役割」だけでした。相手が求める最適な答えを計算し、それを完璧に出力することだけで生き延びてきた私にとって、「お前の好きなこと」という問いは、前提条件がすべて抜けたバグだらけの数式のように意味を成さないのです。
(ゼオン様が喜ぶ『正解』は……? 王太子妃として、ここで刺繍の練習をすると答えるべきかしら。それとも、ガルディニアの最新の財政論評を読みたいと言うべき?)
必死に脳内で「相手のためのデータ」を検索していると、ゼオン様はふぅ、と小さくため息をつきました。その手が伸びてきて、私の少し強張った頬を、大きな手のひらで優しく包み込みます。
「また俺の顔色を窺って、最適解を探そうとしているな」
「あ……」
見透かされて、思わず言葉が詰まります。
「お前が刺繍をしたいならそれでもいいし、財政を読みたいなら用意する。だが、俺が聞きたいのは、そういう『義務の出力』じゃない。エルサ、お前自身が、その真っ白な心で今『やりたい』と思ったことだ。……例えば、あのハチミツレモンケーキがもう一つ食べたい、とかでもいいんだぞ?」
ゼオン様の親指が、私の唇の端をそっとなぞります。
そのあまりにも無条件の肯定に、私の大人の防壁が、またしても脆く崩れていきました。
「……では、その。ゼオン様と、少しだけ、本当にお忙しくないのでしたら……お庭を歩きたい、です。……お仕事の邪魔に、ならないでしょうか……っ」
愛し方も、甘え方も知らない、真っ白な無垢の少女としての、初めての、消え入りそうな「我が儘」。
手をぎゅっと掴みながらそう告げると、ゼオン様は一瞬だけ目を見開き、それから顔を覆って深く俯いてしまいました。
「ゼ、ゼオン様……!? やはり不適切なおねだりでしたか……っ!?」
「ーー違う。不適切どころか、破壊力が強すぎて俺の理性が死にかけただけだ。カイル、今すぐ午後の予定をすべて白紙にしろ。俺はこれから、世界で一番可愛い俺の姫君とデートに行く」
「すでに午後は完全フリーでございます、殿下。どうぞ存分に、エルサ様の初めての我が儘を叶えて差し上げてください」
いつの間にか影に控えていたカイル様が、眼鏡の奥で見たこともないほど優しい、そして深い慈愛に満ちた笑みを浮かべて一礼しました。
【ゼオン視点】純白の蕾が、春に触れる瞬間
サンルームから、エルサの手を引いて王宮の広大な薔薇園へと歩みを進める。
今日のエルサは、普段の「完璧な大人の天才」の仮面を完全に失くし、まるで初めて世界を見る子供のように、周囲の景色を琥珀色の瞳を丸くして見つめていた。
俺の袖を小さな指先でぎゅっと掴み、俺が一歩進むごとに、おずおずとついてくる。その姿は、これまで見てきたどんな洗練された淑女よりも、言葉を失うほどに愛らしかった。
「ゼオン様、見てください……。あの薔薇、とても綺麗な赤色ですね」
エルサが、本当に小さな、けれど心からの感動を宿した声で呟く。
誰の目も気にせず、誰の利益のためでもなく、ただ「綺麗だ」と笑う。前世の泥にも、今世の公爵家の毒にも染まらなかった、奇跡のような純白の少女の素顔が、今、俺の腕の中で少しずつ、本当に少しずつ、春の陽だまりに触れて芽吹き始めていた。
「ああ、綺麗だな。だが、お前のその笑顔のほうが、この庭園のどの花よりも美しい」
「な……っ! ぜ、ゼオン様、またそのようにお大層な表現を……っ。私の美しさの付加価値など、統計学的に見てーー」
「また小難しい計算を始めようとするな。可愛いと言われたら、ただ『嬉しい』とだけ受け取ればいいんだ」
赤くなって俯くエルサの額に、俺は優しく口づけを落とした。
お前が「我が儘」の言い方を知らないのなら、俺が一生をかけて、どんな些細な望みでも全部叶えて思い出させてやる。お前の真っ白な心(ページ)を、これから俺たちとの、甘くて、不条理で、世界一幸せな記憶だけでいっぱいに満たしてやる。
遠くの回廊では、侍女長のマルタや厨房のクロエたちが「エルサ様がご自身の意思でお散歩を……!」「なんと尊い一歩か……っ!」と、一斉に涙を流して見守っているのが見えたが、今は放っておく。
我が国の至宝が、初めて自らの足で歩み始めた、幸福な新しい人生のファーストステップ。その歩みを、俺は生涯をかけて、誰よりも近くで守り、愛し抜くのだと、新緑の風の中で改めて深く心に誓った。
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