凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる
第九話:異能の対価(カイル・エルサ視点)
【カイル視点】化け物か、それとも
「……恐ろしいな」
夜が更けた執務室で、私はエルサ様が昼間に書き連ねた数式を前に、独り言を呟いていた。
我が国の財務省の精鋭たちが、寝る間も惜しんで三日かけても見抜けなかった不正。それを、あの他国の、しかも「無能な悪女」と蔑まれていた令嬢が、回廊の立ち話で、ものの数分で解き明かしたのだ。
彼女が用いた計算方式は、我が国のどの文献にもない未知の論理だった。
殿下は彼女の「知性ではなく存在そのものを愛している」などと青臭いことを仰るが、一介の側近として言わせてもらえば、彼女の頭脳は我が国にとって国宝、あるいはそれ以上の価値がある。
だがーー思い出すのは、数字を暴いた瞬間の彼女の、あのひどく痛々しい「安堵の顔」だ。
まるで『これで私は、ここにいていいのですね』と、自らの生存権を数字と引き換えに買い取ったかのような、冷え切った瞳。25歳まで誰一人として自分を大切にしなかったという前世の記憶。それが真実か否かは私には分からないが、彼女の魂が「役に立たねば捨てられる」という猛毒に侵されていることだけは、この完璧な数式が何よりも証明していた。
主君(ゼオン)のあの底なしの熱量が勝つか、それとも彼女の凍土が勝つか。
私は静かに、その書類を閉じた。
【エルサ視点】冷たい檻と、揺らぐ境界
夜の闇が、ガルディニアの王宮を深く包み込んでいく。
与えられた最高級のベッドの端に腰掛け、私は自分の、今世の滑らかな両手を見つめていた。
今日、カイル様に書類を返した時、私の心臓は確かに「安堵」で小さく跳ねた。
前世の二十五年、私はそうやって、周囲に自分の存在価値を認めさせることで、辛うじて生きるスペースを確保してきた。大人になればなるほど、何もしない人間は容赦なく切り捨てられる。冷たい雨の路地裏で死んだあの最期は、私が「これ以上、何も生み出せなくなった」からだと思い知っていた。
だから、ゼオン様の「ただ、そこにいればいい」という言葉が、どうしても信じられない。
信じてしまえば、いつかそれが嘘だと分かった時の絶望に、私の魂は耐えられない。
コンコン、と。
静かな部屋に、控えめなノックの音が響いた。
「エルサ様。……夜更けに恐れ入ります」
入ってきたのは、侍女のマルタだった。その手には、白く柔らかな、毛羽立った温かそうな毛布が抱えられている。
「夜風が冷えてまいりましたので、もう一枚、毛布をお持ちいたしました。……エルサ様、私たちがこれをお持ちしたのは、貴女様に明日何かをしてほしいからではございません。ただ、今夜、貴女様に暖かく眠っていただきたい。私たちの我が儘だと思って、お受け取りくださいませ」
マルタは静かに頭を下げ、毛布をベッドの足元に置くと、私の返事を待たずに退出していった。
残された部屋で、私はその毛布に触れる。
ふわりとした、圧倒的な柔らかさと温かさ。
「……ずるいわ」
ぽつりと、誰にも届かない声が漏れた。
ゼオン様だけでなく、この国の使用人までもが、私の防壁をすり抜けて「無条件の温かさ」を押し付けてくる。二十五年かけて、死ぬ気で築き上げてきた私の冷徹な大人の檻が、内側から少しずつ、不快なほどに温められていくようだった。
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