共通語に直さないで――方言フェチな彼の三行溺愛
第1話 赤いスカーフと「もう一度」
 祖母が亡くなって、三か月が過ぎた。

 葬儀には帰った。けれど、祖母が営んでいた手紙喫茶「三行舎」には入れなかった。

 店の戸を開けるのは、七年ぶりになる。

 手描き文字作家の葵空は、榧ノ原町へ続く山道でハンドルを握りながら、金曜日の午後六時、という期限を何度も胸の中でなぞっていた。

 祖母の遺言により、店と土地は葵空が単独で相続した。不動産会社からは買い取りの提案が届いている。まだ契約はしていないが、五日後までに返事をしなければならない。

 その前に、残された物を整理する。

 悲しい。寂しい。帰りたくなかった。

 口にすれば崩れそうな気持ちを、葵空はすべて「整理」の二文字に押し込めていた。

 山の上には薄墨色の雲が垂れこめていた。雨の匂いを含んだ風が、フロントガラスをかすかに震わせる。

 退避所を通り過ぎかけた時、ガードレールに絡んだ赤い布が目に入った。

 葵空は後続車がいないことを確かめ、道幅の広い場所へ車を寄せた。外へ出ると、湿った風が頬を打つ。

 布は古いスカーフだった。鮮やかさを少し失ってはいたが、赤は雨空の下でもよく目立った。

 ガードレールから外したところで、少し先から男が走ってきた。

 「それ、捜していました」

 息を切らしているのに、低い声は不思議なほどよく通った。背が高く、整った顔立ちをしている。だが、名乗りもせずに近づいてくるには、説明が足りなさすぎた。

 葵空はスカーフを胸元へ引き寄せた。

 「持ち主だと分かる特徴を教えてください」

 男は、警戒されたことに気づいたらしい。すぐに足を止めた。

 「端に、青い糸でSの刺繍があります。裏側に、小さな重みがあるはずです」

 赤い布の端を確かめると、青いSがあった。指先でつまめば、刺繍の裏に硬いものの感触もある。

 「あなたの物ですか」
 「いいえ。三行舎の、澄江さんの物です」

 祖母の名を聞いた瞬間、葵空の指が止まった。

 男は千拓と名乗った。五年前に町へ移り住み、空き店舗の再生や宿泊施設の運営をする会社を営んでいるという。仕事先の施設へ向かう途中、三行舎の軒下から赤い布が飛ばされるのを見た。安全な場所へ車を止め、葵空の従兄である尚喜へ連絡してから捜していたらしい。

 説明を聞き終えたところで、山の向こうから風がうなった。

 スカーフの端が大きくあおられる。布は葵空の手から離れていない。それなのに千拓は、反射的に道路の端へ踏み出しかけた。

 「そっち行ったら危ないけん、待って!」

 考えるより先に、声が出た。

 七年ものあいだ、喉の奥へ押し戻してきた榧ノ原町の言葉だった。

 二人は風が弱まるまで動かなかった。葵空はスカーフを両手で押さえ、丁寧に畳む。

 顔を上げると、千拓は赤い布ではなく、葵空を見つめていた。

 「今の言い方、もう一度お願いします」

 あまりに真剣な声だった。

 からかわれたのだと思い、葵空は背筋を伸ばす。

 「危険ですから、下がってください」
 「違います」

 千拓は慌てて首を振った。

 「言い直す前の声が、ものすごく好きでした」

 初対面の男から、方言の声が好みだと告げられた。

 「警察と尚喜、どちらを先に呼びましょう」
 「すみません。頼み方を間違えました」

 千拓はすぐに一歩下がった。

 「本人の許可なく、同じことは頼みません」

 追いすがりも、苦しい言い訳もなかった。その潔さに免じて、通報候補からはいったん外すことにした。

 ほどなく、道路維持会社の作業車が停まった。降りてきた尚喜は、葵空より六つ年上の従兄で、幼い頃から兄のように世話を焼いてきた人だ。

 「見つかったか。よかった」

 肩で息をついていた尚喜は、千拓を指して言った。

 「こいつは怪しいが、不審者ではない。澄江ばあちゃんの店にも、よう手伝いに来とった」
 「信用を上げたいのか下げたいのか、どちらですか」
 「葵空が決めればええ」

 尚喜によれば、朝、スカーフの表面を乾いた布で拭き、風の弱い軒下で数分だけ陰干ししていたという。保存袋を取りに店内へ入った間に空模様が変わり、古い木製クリップが割れたらしい。

 「店を開ける日に、澄江ばあちゃんが入口へ結んどった印なんよ。古い留め具を使うた俺が悪い。もう外では扱わん」

 尚喜は赤いスカーフへ頭を下げるようにして詫びた。

 すると千拓が、木曜日だけ三行舎の前室を開けたいと言った。

 喫茶店として営業するのではない。飲食物の販売も配布もせず、町の人が三行だけの手紙を書くために、一日限りで場所を開ける。祖母の店を空にする前に、最後の一通を書きたい人がいるのだという。

 葵空はすぐには答えなかった。

 風の中で、畳んだスカーフが手のひらに重かった。

 「金曜日午後六時の回答期限は変えません」
 「はい」
 「危険な場所へ客を入れないこと。店を残すための説得材料にしないこと」
 「分かりました。全部、守ります」

 千拓は迷わず答えた。

 三人はそれぞれの車で三行舎へ向かった。千拓の車は、後ろから急かすこともなく、十分な距離を保ってついてきた。

 三か月前、葵空の許可を得た尚喜が、建物管理業者に最初の危険確認を依頼している。乾いた日の日中、成人三人まで。前室と物置の入口まで。床に示された動線から外れないこと。

 木曜日に客を入れられるかは、水曜日に別の建築士へ見てもらう。それまでは、三人だけで決められた範囲を守ることにした。

 七年ぶりの三行舎は、珈琲の香りを失っていた。

 壁の色は褪せ、椅子には白い布が掛けられている。それでも窓辺へ差し込む淡い光だけは、祖母がいた頃と変わらなかった。

 前室の机に赤いスカーフを広げる。

 青いSの刺繍の裏は、布が二重になっていた。重なりをそっとめくると、小さな隠し口がある。そこから真鍮の鍵が滑り出た。

 「澄江ばあちゃん、店を開ける前に、いつもここを指で確かめとった」

 尚喜が目を見開いた。

 「鍵があるとは知らんかった。今やっと、あの仕草の意味が分かったわ」

 物置の奥へは入らず、入口近くに置かれていた杉の木箱を安全な動線まで運び出した。

 鍵穴へ真鍮の鍵を差し込むと、驚くほどぴたりと収まった。

 千拓は箱へ手を伸ばさず、葵空を見る。

 「開けるかどうかは、葵空さんが決めてください」

 鍵を回せば、箱だけではなく、七年前から閉じてきたものまで開いてしまう気がした。

 葵空は指を掛けたまま、動けなかった。

 山道で拾った赤いスカーフは、祖母の木箱を開ける鍵を、ずっと隠していた。

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