共通語に直さないで――方言フェチな彼の三行溺愛
第2話 木箱と、方言一回百円
 月曜日の夕方、葵空は真鍮の鍵を回した。

 かちり、と小さな音がする。鍵を抜いて自分の鍵入れへしまい、湿気を吸ったフタへ柔らかな布を当てる。木目をよく見ると、上へ開くのではなく、横へ滑らせる造りらしい。

 少しずつ力を加えると、フタは低い音を立てて動いた。

 中にあったのは、紐で束ねた三行の手紙、白いカード、祖母の万年筆だった。古い紙と木の匂いが立ち上り、祖母の指先が、ついさっきまでそこにあったような気がした。

 底板は箱の外寸に比べて妙に厚く、隅に青い小印がある。けれど、どこから開けるのか分からない。遺品を傷つけたくなくて、葵空は無理に触れなかった。

 千拓も勝手に手紙へ手を伸ばさず、葵空が選んだ束だけを机へ移した。

 祖父母の私信を、読んでもよいと思えるものだけ開く。

 『牛乳を買った。
 君の好きな丸いパンも買った。
 今日は早く帰る。』

 無骨な祖父の字を見た途端、葵空は吹き出した。

 「おじいちゃん、これでラブレターのつもりじゃったん」

 千拓が反射的に口を開き、すぐ閉じる。

 「頼んでもいいですか。今のを、もう一度」

 先に許可を求められた。そのことが、少しだけ嬉しかった。

 葵空は未使用の紙コップを一つ取り、『方言再生料 一回百円』と書く。

 「前払いです」

 冗談のつもりだったのに、千拓は迷いなく百円玉を入れた。

 「おじいちゃん、これでラブレターのつもりじゃったん」

 同じ言葉を繰り返すと、千拓は子どものように笑った。

 「その商売、帳簿につけるんか」

 尚喜の冷静な声が飛び、三人の笑いが空っぽの店へやわらかく広がった。

 祖母がいなくなってから初めて、この場所で笑えた気がした。

 祖父母の手紙は保存箱へ移し、白いカードと万年筆も遺品用ケースへ収めた。公開に使うカードは葵空が新しく作り、筆記具も一般用の物を用意することにする。

 火曜日の朝、葵空は町の相談窓口へ電話をかけた。

 水曜日に利害関係のない建築士が前室を確認し、使える場合だけ木曜日に開く。短期の賠償責任保険も条件付きで申し込んだ。尚喜は昔の客へ、安全確認が通った時だけ実施すると念を押し、仮の時間を伝えていった。

 三人は古い看板を磨き、立入禁止の場所をロープで区切った。千拓は足元灯をそろえ、尚喜は「売るかもしれん店へ金を掛けるな」と言いながら、ぐらつく机を外へ運んでいる。

 「言っていることと、していることが違います」
 「倒れて誰かがけがするよりましじゃ」

 火曜日の休憩で、葵空は熱い珈琲をしばらく置き、少し冷ましてから飲んだ。

 翌日、千拓が差し出した珈琲は、初めから飲みやすい温度だった。

 そんな小さな癖まで見られていたことが落ち着かず、葵空は窓へ視線を逃がした。

 「手が余っとるなら、窓を拭いて」

 千拓が紙コップへ百円玉を入れた。

 「今のは命令です」
 「払いたかったので」
 「料金制度を理解していませんね」

 水曜日、建築士は前室を見て回り、雨のない日中に限ること、三人のスタッフを含めて室内六人までにすること、奥へは誰も入れないことを条件に、一日だけの使用を認めた。

 葵空は保険の開始を確定し、尚喜は各時間帯の客を三人以内に絞って連絡を入れた。

 準備の合間、千拓が祖母との思い出を話した。

 「町へ来たばかりの頃、仕事の説明をきれいに整えすぎて、かえって誰にも信用されなかったんです。澄江さんに、上手に話すより相手の返事を待ちなさいって言われました」

 葵空は紙コップを見ながら尋ねた。

 「私の言葉も、珍しい音を集めたいだけじゃないんですか」

 千拓は少し考え、紙コップを葵空の前へ戻した。

 「そう聞こえたなら、俺の伝え方が悪いです。嫌なら、一度も頼みません」

 聞かせるかどうかは、自分で決めていい。

 その当たり前が、葵空には新しかった。迷った末、紙コップを机の真ん中へ戻す。千拓は何も言わず、その合図を受け取った。

 夕方、看板が完成した。

 『三行だけ、正直に。』

 千拓はしばらく文字を眺めた。

 「最後の『に』が少し右を向いています。読む人を中へ招いているみたいです」

 手描き文字を褒められることには慣れていた。けれど、そこまで丁寧に見つけてもらったのは久しぶりだった。

 片付けの前、千拓は一枚のカードを封筒へ入れ、木箱の内側へ置いた。宛名は「葵空さんへ」。

 「明日の公開が終わったら渡します」

 木箱の中で、彼の三行が夜を待っていた。

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