恋は、長そでの途中
「広瀬の凱旋帰国に、かんぱーい!」
居酒屋の個室に、同期の男子社員の威勢のいい声が響き渡った。
「もー、何回目の乾杯の音頭よ? これだから酔っ払いは……」
ほかの同期にたしなめられても、声を上げた男子のテンションは下がらない。
「俺たちのエースが帰ってきたんだ。祝わないわけにはいかないだろ。な、広瀬!」
肩を勢いよく叩かれた広瀬君は、困ったように苦笑する。
今日は、帰国したばかりの広瀬君を囲んでの同期会だ。
私たちは大手物流会社『日央ロジスティクス』の国際物流部の同期九人。全員二八歳。
広瀬君は帰国子女で語学が堪能だったこともあり、入社二年目でロンドン支店へ赴任した。もともと同期のエースだった広瀬君が、海外勤務を経た今、将来の幹部候補なのは誰の目にも明らかだった。
「それで、広瀬のカノジョは金髪美女のイギリス人だったりする?」
お酒が進むにつれ、話題は仕事からプライベートへ移っていく。私以外の女性陣の耳がそばだったのは、たぶん気のせいじゃない。
「まさか。忙しすぎて、それどころじゃなかったよ」
広瀬君は、中ジョッキを持ち上げ、一口ビールを飲む。
そんな中、私の意識は、彼の恋愛話とはまるで違うところへ引き寄せられていた。
右腕――
丁寧に巻き上げられたワイシャツの袖からのぞく前腕は、お酒のせいか、ほんのり赤みを帯びている。
その色が、妙に色っぽい。ジョッキを傾けるたびにしなやかに動く筋が綺麗だった。四年前も見惚れたものだったが、今はあの頃よりずっと魅力的に映る。
「まあ、もともと広瀬は、水島狙いだったからな」
広瀬君の腕まくりに気をとられていたところへ、不意に自分の名前が挙がって、危うく口に含んでいたチューハイを吹き出すところだった。
「ちょっ……何言ってんの、適当なこと言わないでよ」
慌てて広瀬君君を見る。けれど彼は、否定も肯定もせず、静かに両の口角を上げているだけだった。
居酒屋を出ると、細い雨が降っていた。傘を差すほどでもない、霧のような雨だった。それぞれが帰路について、私も駅への道を歩き始める。
「亜矢!」
呼ぶ声に振り向くと、広瀬君が小走りに近づいてきた。
「一緒に帰ろう」
そう言って差し出された、大きめの傘の下へ入る。頬に触れていた雨の冷たさが消え、代わりに広瀬君の近さを意識してしまう。
彼とは同じ沿線沿いに住んでいる。断る理由もなく、うなずいて横に並んだ。他愛もない近況を話しながら歩く。
会話の隙間は、雨粒が傘を小さく叩く音が埋めてくれた。そんな何度目かの沈黙のあと。
「亜矢は、いま、好きな人、いるの?」
居酒屋での話の続きのような軽い口調だった。
「え? いないよ」
さらりと答える。
「よければ」と彼はいったん言葉を区切り、息を吐いた。
「俺と付き合ってもらえないかな」
……聞き間違いかと思った。
私は無言のまま広瀬君に顔を向ける。同時に、歩みも止まってしまった。広瀬君は栗色に近い髪をかき上げると、照れくさそうに視線を泳がせている。
「亜矢のこと狙ってたって……あれ、ホントなんだ。亜矢のこと好きだったのに、何も言えずにロンドンに行ったこと、ずっと後悔してた」
一呼吸おいて、広瀬君はまっすぐに私を見つめた。
「だから、今度は中途半端なまま終わらせたくない」
告白されているのだと気付くまで、数秒かかった。押し黙る私に、広瀬君も不安そうに眉根を下げる。
「急に言われても困るよな。でも、一度だけチャンスをもらえないかな」
広瀬君の人柄は嫌いじゃない。
何より、あの魅力的な腕まくり姿をずっと見ていられる――。
そんな考えが頭をよぎった自分に、思わず苦笑いをしそうになる。
でも、こんな風に誰かからまっすぐに想いを伝えられて始まる恋も悪くないかもしれない。
「私でよければ……」
声がかすれる。
「亜矢じゃなきゃ、ダメなんだよ」
迷いを包み込むように言葉を重ねられ、私はうなずいた。
「よろしく、お願いします」
「俺のほうこそ、これからよろしくな」
広瀬君が、右手を差し出す。差し出した手よりも、その先に続く腕へ視線が吸い寄せられた。
この状況でも、と自分でも呆れてしまう。
腕まくり姿に惹かれて始まる恋なんて、きっと私だけだ。
誰にも言えない。
でも、その秘密ごと抱えた恋の始まりに、期待で胸はいっぱいだった。
居酒屋の個室に、同期の男子社員の威勢のいい声が響き渡った。
「もー、何回目の乾杯の音頭よ? これだから酔っ払いは……」
ほかの同期にたしなめられても、声を上げた男子のテンションは下がらない。
「俺たちのエースが帰ってきたんだ。祝わないわけにはいかないだろ。な、広瀬!」
肩を勢いよく叩かれた広瀬君は、困ったように苦笑する。
今日は、帰国したばかりの広瀬君を囲んでの同期会だ。
私たちは大手物流会社『日央ロジスティクス』の国際物流部の同期九人。全員二八歳。
広瀬君は帰国子女で語学が堪能だったこともあり、入社二年目でロンドン支店へ赴任した。もともと同期のエースだった広瀬君が、海外勤務を経た今、将来の幹部候補なのは誰の目にも明らかだった。
「それで、広瀬のカノジョは金髪美女のイギリス人だったりする?」
お酒が進むにつれ、話題は仕事からプライベートへ移っていく。私以外の女性陣の耳がそばだったのは、たぶん気のせいじゃない。
「まさか。忙しすぎて、それどころじゃなかったよ」
広瀬君は、中ジョッキを持ち上げ、一口ビールを飲む。
そんな中、私の意識は、彼の恋愛話とはまるで違うところへ引き寄せられていた。
右腕――
丁寧に巻き上げられたワイシャツの袖からのぞく前腕は、お酒のせいか、ほんのり赤みを帯びている。
その色が、妙に色っぽい。ジョッキを傾けるたびにしなやかに動く筋が綺麗だった。四年前も見惚れたものだったが、今はあの頃よりずっと魅力的に映る。
「まあ、もともと広瀬は、水島狙いだったからな」
広瀬君の腕まくりに気をとられていたところへ、不意に自分の名前が挙がって、危うく口に含んでいたチューハイを吹き出すところだった。
「ちょっ……何言ってんの、適当なこと言わないでよ」
慌てて広瀬君君を見る。けれど彼は、否定も肯定もせず、静かに両の口角を上げているだけだった。
居酒屋を出ると、細い雨が降っていた。傘を差すほどでもない、霧のような雨だった。それぞれが帰路について、私も駅への道を歩き始める。
「亜矢!」
呼ぶ声に振り向くと、広瀬君が小走りに近づいてきた。
「一緒に帰ろう」
そう言って差し出された、大きめの傘の下へ入る。頬に触れていた雨の冷たさが消え、代わりに広瀬君の近さを意識してしまう。
彼とは同じ沿線沿いに住んでいる。断る理由もなく、うなずいて横に並んだ。他愛もない近況を話しながら歩く。
会話の隙間は、雨粒が傘を小さく叩く音が埋めてくれた。そんな何度目かの沈黙のあと。
「亜矢は、いま、好きな人、いるの?」
居酒屋での話の続きのような軽い口調だった。
「え? いないよ」
さらりと答える。
「よければ」と彼はいったん言葉を区切り、息を吐いた。
「俺と付き合ってもらえないかな」
……聞き間違いかと思った。
私は無言のまま広瀬君に顔を向ける。同時に、歩みも止まってしまった。広瀬君は栗色に近い髪をかき上げると、照れくさそうに視線を泳がせている。
「亜矢のこと狙ってたって……あれ、ホントなんだ。亜矢のこと好きだったのに、何も言えずにロンドンに行ったこと、ずっと後悔してた」
一呼吸おいて、広瀬君はまっすぐに私を見つめた。
「だから、今度は中途半端なまま終わらせたくない」
告白されているのだと気付くまで、数秒かかった。押し黙る私に、広瀬君も不安そうに眉根を下げる。
「急に言われても困るよな。でも、一度だけチャンスをもらえないかな」
広瀬君の人柄は嫌いじゃない。
何より、あの魅力的な腕まくり姿をずっと見ていられる――。
そんな考えが頭をよぎった自分に、思わず苦笑いをしそうになる。
でも、こんな風に誰かからまっすぐに想いを伝えられて始まる恋も悪くないかもしれない。
「私でよければ……」
声がかすれる。
「亜矢じゃなきゃ、ダメなんだよ」
迷いを包み込むように言葉を重ねられ、私はうなずいた。
「よろしく、お願いします」
「俺のほうこそ、これからよろしくな」
広瀬君が、右手を差し出す。差し出した手よりも、その先に続く腕へ視線が吸い寄せられた。
この状況でも、と自分でも呆れてしまう。
腕まくり姿に惹かれて始まる恋なんて、きっと私だけだ。
誰にも言えない。
でも、その秘密ごと抱えた恋の始まりに、期待で胸はいっぱいだった。