花に溺れ、香りに溶ける
その瞬間、空気が変わるのを、いつも肌で感じる。
彼はスッと立ち上がる私の前まで歩み寄ると、長い脚で音もなく距離を詰めてきた。畳を踏む足音すら、計算されているのではないかと思うほど静かで、優雅だった。
私は反射的に息を呑む。
私は彼と許婚という関係にある。両家の格式を守るために結ばれた縁談――表向きは、そういうことになっている。
けれど、時々、思うことがある。
碧斗さまの視線には、義務感なんて欠片もない。むしろ、飢えているような切実な熱がいつも宿っている。それが不思議で、けれど嫌ではなくて私はいつも戸惑ってしまう。
「……碧斗さま。今日は、どうしてここに」
「『さま』なんて堅苦しい呼び方、禁止したはずだけど」
彼は不機嫌そうに眉を寄せると、私の手首を掴んで軽く引いた。体勢が崩れて、そのまま彼の胸元に抱き寄せられる。
逃げる隙も与えないくらい、自然な動作だった。
「……っ」
「動かないで。今、美寿の香りを覚えてるところだから」
彼は私の耳元に唇を寄せると、そのまま首筋へと鼻先を滑らせた。ふわりと、季節外れの沈丁花の香りがする。私の香道の稽古を邪魔するこの香りは、いつも彼が意図的に身に纏わせているものだ。香水の類ではなく、彼自身が調香したものだと知ったのは、つい最近のことだった。
「僕の花と、美寿の香りは対でなければ意味がない。許婚の僕たちが離れるなんて、ナンセンスだろう?」
彼は私の首筋に鼻先を滑らせ、わざとらしく大きく息を吸い込む。
「今日の美寿は伽羅の下に、ほんの少しだけ緊張の匂いが混じってる。……誰のせいだと思う?」
「……知りません」
「知らないふりが下手だね、相変わらず」
彼の手が、私の顎に触れて、少し上向かせる。至近距離で視線が絡んだ。切れ長の瞳の奥に飢えたような、けれど不思議と甘い熱が揺れている。
「今日は、逃がさない」
その一言と同時に、彼の顔がゆっくりと近づいてくる。息が止まりそうになった瞬間、唇に、ほんの一瞬だけ、柔らかな感触が触れた。
――え。
頭が真っ白になる。触れるだけの、けれど確かなその感触に、心臓が痛いくらい早鐘を打っていた。
「……っ、碧斗さま」
「ごめん。……我慢の限界だった」
碧斗さまは、珍しく動揺したように、少し視線を逸らした。それでも、私の腰に回した腕は、決して緩めない。
ゾクリ、と背筋に電流が走る。
華道家としての彼は、周囲の空気を支配するカリスマそのものだ。全国規模の展示会でも、彼が花を生ける瞬間だけ、会場の空気が変わると評判になるほどに。
師範の資格を高校生で取得したことも、業界では伝説のように語られている。
けれど、二人きりになった途端、その瞳に宿る熱量は、観客に向けられるそれとは全く別物に変わる。
――この人は、外では誰に対しても、どこか一線を引いている。
それを、私は知っていた。取材の記者にも、業界の重鎮にも、幼馴染にすら、碧斗さまはいつも完璧で、けれどどこか冷ややかな微笑みしか見せない。
なのに、私の前でだけは、こんなふうに剥き出しの独占欲を見せる。
その理由を、私はまだ知らない。
「今日も、僕を満足させてくれるよね?」
甘い毒を盛られるような、この感覚。
逃げ場なんて、最初からどこにもなかった。
私は彼の手を振り払うこともできず、ただその甘く危険な「支配」に溺れていくことしかできなかった――。