奇跡を起こすソーダ水
Chapter6 余白と記憶
2026年12月10日、18時10分。
「幸人……!会いたかったわ……会いたかったわ……!」
「……」
見知らぬ女性に抱き締められる鏡。明らかに『幸人』の名前に反応している。愛する人の名前がたまたま自分と同じ名前なのだろうか?
「すみません……あなたの知っている幸人って、どなたなんですか?」
「何言ってんのよ……私の息子じゃない?優しくて、可愛い息子……」
「息子……?」
鏡の母親は彼が20歳のときにがんで亡くなっている。確かに母親と顔立ちが似ているが、もし生きていたら47歳。そんなはずはない……彼はきちんと母親の最期を見届け、通夜から葬儀まで喪主を務めた!
「幸人……こんなに大きくなって……ママはずっと幸人のこと考えていたんだよ……?」
明らかに何かある。鏡はあることを言ってみた。
「もし事情があるなら、俺が息子さんを探す手伝いをしましょうか?」
「息子なら目の前にいるわよ……」
「もう一度言います。俺の名前は鏡幸人です。鏡……幸人……」
「……?かが……み?」
再度名前を聞いた彼女は慌てて手を離した。
「ご……ごめんなさい……!私、てっきり息子と勘違いしました……!」
「ふぅ……」
やはり彼女は勘違いしていた。
「私は氷川 千尋(58)です……氷川幸人って人知らないですか!?私の息子なんです……」
「いや……残念ながら聞き覚えありません。写真とかありませんか?」
話を聞いてみたら、息子の氷川幸人は28歳で彼と同じ年齢。だが見せられた写真は——
「これ……子どものときの写真ですよね?これじゃさすがに……」
唯一持っていた写真は6歳頃に撮ったもの。坊主頭だがかなり可愛らしい男の子だ。髪の毛があったら女の子ではないかと思える。
「ちなみにですけど、息子さんがいると思われる場所とか、心当たりありませんか?」
「ほ……ほ……」
「ほ?」
「北海道の札幌……です……」
「札幌……!?」
都内じゃないのかよ……それに札幌……具体的に話を聞きたいところだが、立ち話を続けていれば寒くなる。裸足の彼女ならなおさら寒いだろう。
グゥ〜……
「あっ……」
「ハハハ……お腹空きましたよね?とりあえず俺のとこに行きましょう。俺の家、喫茶店やってるんで!」
風貌を見るにかなり長い間ホームレスをしているだろう。ハッキリ言って臭いがキツい……だが若い頃やホームレスになる前は相当な美人だったのではないかと思われる。
「もうすぐ着きますよ!」
「はい……」
もう少し歩いた先に温かい食事が待っているのか?お金なんてないのに……
コツコツ……
「……?」
突然彼の足が止まった。誰かの視線を感じる。それも一人ではなく、複数人から。
ギュウィーン……
彼女の首に極細のワイヤーがかかる。肉眼で視認するのは容易ではないが、彼の目には確実に見えていた。
「……!?危ない……!」
ドサッ……!
「キャッ……!?」
ギュウィーン……!
「クゥ……!何だ今のは……千尋さん……大丈夫ですか!?」
「ええ……」
ピン……ピン……
ワイヤーの音を鳴らしながら3人の女が歩いてくる。
「お前たち、何者だ……?」
「あんたこそ何者よ?まさか私のワイヤーを見抜くなんて……素人じゃなさそうね?」
「私たちはワイヤー専門の殺し屋、アラクネ……でも名乗る必要なかったかしら?だって、あんたはここで死ぬんだし……」
「笑わせる……ワイヤーだかワイパーだか知らないけどな、素人……舐めんじゃねえぞ?」
「ほう……?」
「千尋さんは逃げてください……」
今まで戦った半グレ程度の相手とはまるで違う……それにあのワイヤーは絞殺用か?冷や汗が止まらない……とにかく背後を取られたらおしまいだ!
ギュウィーン……!
「ハッ……!」
高速で動く上に極細。暗い夜だと避けるだけで集中力をかなり使う。だが彼は戦いながら考えていた。
「ハッ……!」
なるべく街灯の真下、つまり明るい所に誘導すればワイヤーを視認できる!
ギュウィーン……!
「フッ……!(そこか!)」
ビュゥン……!
彼は鍛え上げた脚力で急接近!そのまま一気に距離を詰める。
「オラァ……!」
ドゴォーン……!
彼の前蹴りが女の一人の胸に命中!
「かひゃ……!?」
この一撃で内臓にまで衝撃がいっている!
「シンディ……!?」
「おのれぇ……!」
残るは2人。
ギュウィーン……!
しかし彼は誤解していた。女たちが持っているワイヤーが絞殺用ではないことを……
スパンッ……!ズズッ……ドォン!
何とワイヤーはバス停の看板を真っ二つに切断した。
「……!?マジかよ……!(絡まれたらサイコロステーキになるところだった……)」
一瞬だけ動揺してしまったが、それでも彼は冷静さを崩さない。逆に切れ味が鋭いワイヤーを利用してしまえばいい。そう考えた彼が取り出したのは粉末のコーヒー用ミルク。
フワッ……
ワイヤーが振り払われる瞬間を狙いミルクを投げる。彼の狙い通りミルクは空中にばら撒かれ——
ボフッ……!
「ゴホ……!ゴホ……!」
ミルクを吸い込んで咳き込む。追い詰めたつもりがいつの間にか追い詰められていた。
「だから素人を舐めるなと言ったんだ……」
「くぅ……!?」
ドスッ……!ドゴォーン……!
これで2人目も撃破。驚くことに彼はまだノーダメージだ。
「すごい……」
千尋は彼の戦いをじっと見ていた。逃げるよう言われたが、不衛生な状態ではやはり余白へは入れなかった。だが逃げなかったことが仇になってしまう。
コツ……コツ……トントン……
「……?」
「やあ……久しぶりじゃないか?千尋……」
「あ……あなた!?」
「何驚いてんだ?私は千尋の夫じゃないか?」
彼女の前に現れたのは、紛れもない氷川正信。アラクネは正信の差し金だったのか?
「あなた……幸人はどこなの!?あなたなら知っているでしょ……!?」
「幸人……君は忘れたのか?私たちの子どもは凪だけじゃないか?息子なんていないじゃないか?」
「ふざけないで……!幸人は私の息子よ!お願い……会わせて……!」
ビリビリビリ……!
「うぅ……!?」
バタンッ……
「うぅん……やっぱり今のままじゃ臭いな……早く綺麗にして、ちゃんと美しくしてやるからなぁ……」
正信はそのまま彼女を連れ去ろうとした。だがそのとき——
ドガーン……!
ちょうどアラクネの3人組を撃破した鏡が彼女と正信を発見して近づく。
「千尋さん!……!?あんたは確か……グレイシャーズの氷川監督か……!?」
「ほう……最近の若いのでも野球を観るようだな?まさか、アラクネの連中を倒してしまうとは……貴様は何者だ?」
「俺は鏡幸人だ。ところであんた、千尋さんを保護するような雰囲気には……とても見えねえな?」
「幸人……どいつもこいつも、どうして幸人って名前の男はイラつかせるのかね?」
その言葉を聞いた彼はすぐに確信した。彼女が言っていた息子の名前は氷川幸人。それに正信のフルネームは氷川正信。元プロ野球選手であったことも知っている。確か元アイドルと結婚したと聞いたことがあったが……
「……!?まさか、千尋さんって……あの……Aurora Kissの……?」
「信じられないだろ?こんなボロボロの女が元トップアイドルなんてな……まあ、これもこれで彼女は美しい……」
そう言いながら汚れた髪を撫でる。氷川千尋の正体は1985年から1990年代を魅了したトップアイドル、Aurora Kissのセンター、CHIHIRO……なぜホームレスになるまで落ちていったのか?
「氷川……さん……」
鏡と戦って負けたアラクネの3人が必死で立とうとする。しかし——
バンバンバーン……!
「……!?」
「君たちはもう必要ない……お疲れ様……」
容赦なく射殺されるアラクネの3人。
「貴様……!」
「何怒ってんだ……?」
「貴様……自分の仲間を虫けらのように殺したな……自分が何したかわかってんのか……!?」
「ハハハハハ……!お人好しにも程があるな!?まあいい……鏡幸人、顔と名前は覚えた……せいぜいこれから、楽しみにしていろ……」
「何……?」
「悪いが今は相手している時間がないんでね……千尋を可愛がらなきゃいけないからな……」
「千尋さん!」
ブーン……!
突然歩道を思い切り乗り上げた高級車が彼を目がけて突っ込む!千尋を助けようと先走ったことで反応が遅れる!だが——
「危ないっ……!?」
ガシッ……!
「うぅ……!」
鏡の身体は自分の意思とは無関係に動いていた。その理由は、彼を間一髪守った存在があったからだ。
キキィィィィーッ……!ガクンッ……!
「澪……!」
「大丈夫……!?」
彼を守ったのは夢野 澪(26)。彼と同棲中の恋人だ。先ほどまで余白でアルバイトしていたのだが、正信の銃声を聞きつけて外へ出てみたら、たまたま現場に居合わせたのだった。
ブーン……!
「千尋さん……千尋さん……!……クソッ……!」
立ち上がった頃には既に、千尋と正信の姿は見えなくなっていた。逃げられたか……
「幸人……どうしたの……?」
「……何でもない」
「何でもないわけないじゃん!?」
「……」
恋人とまともに会話できないほど怒っている。彼の場合人や物に当たったりはしないのだが、優しいときと怒っているときの雰囲気が違いすぎる。
「でも、助かったよ……」
「そうよ……本当に……」
澪が助けてくれなければ確実に轢き殺されていた。擦り傷を負ってまで助けてくれた彼女には、素直に感謝したい。
「澪……明日、店任せていいか?ディナーだけ」
「いいわよ……」
「ありがとな……」
何とか機嫌をよくした彼は、手をつなぎながら余白へと帰っていく。この日の帰り道は、近いはずなのに遠く感じるのだった。
時は戻り2026年12月10日、14時40分頃。氷川幸人とアラクネのボス、クロエは戦いの場所を札幌ホール裏の立体駐車場へ変えていた。彼は暗殺者を引退してからあまり強敵と戦っていないが、実力はどれほどのものだろうか?
ギュウィーン……!スッ……!
「さすが疾いわね……」
クロエから見ればまるで止まっているように見えたのだが、彼は高速でワイヤーを回避している。
「フッ……(さっきのアイドルの子、このワイヤーに巻かれたことに気づいていなかったの……?)」
ワイヤーの攻撃を先に封じるべきか、それとも真っ先に無力化すべきか。人体を簡単に切断するワイヤーだ。零度で相手の攻撃を逆利用することは難しい。
「フゥ……」
彼は零度とは違うバトルスタイルを構える。これは相手の攻撃を逆利用するでもなく、集団戦に特化した戦闘スタイルではない。
ギュウィーン……!
「スゥ……」
彼は落ち着いて避け続ける。そして——
ギュウィーン……!キーン……!
彼は脛に仕込んでいた鋼鉄でワイヤーを弾き返す。クロエは跳ね返ったワイヤーを受けないために慌てて袖に仕舞う。だが、彼の攻撃はクロエよりも疾かった。
ドスッ……!
「くぅぅ……!」
クロエの右胸に突き刺さったのは貫手による一撃。これで内臓が耐えられるのだろうか?
「フン……やるわね……」
やはりアラクネのボスともなれば一筋縄に攻撃が入らない。どうやら喰らう寸前に一歩後退したようだ。
「まさか空手で私に勝とうっての?」
「これを空手と思ってもらっちゃ困るわね……せめて氷結って呼んでほしいわ……」
彼のもう一つの戦闘スタイル、『氷結』。先ほどの空手もだが、主に日本の武術を織り交ぜた殺人拳。世界の武術を使いこなせるのだが、あえて日本の武術しか使わない理由。それは日本好きであることに起因している。
「残念だったわね……そんなんじゃ私は倒せないわ!」
バンバーン!ギュウィーン……!
「フッ……!剣道なら常に間合いを意識する。戦闘じゃ基本中の基本ね……」
シュッ……!ドガァン……!
彼の蹴りがクロエの脛に命中する!そのまま前のめりになるように怯み——
「延髄蹴りよ……耐えられるかしら……?」
ドガァン……!
「ぐぅう……!?」
まだ立っていられるとは……やはり彼は男の娘。筋肉量が少ない上に細身体型の彼は、鍛え上げられた成人男性とは違ってパワーは発揮できない。だがパワーはなくても、彼にはスピードがある。
「そろそろ終わりにしようかしら?」
ダメージ的にクロエの方が劣勢。このままなら幸人の勝利で戦闘は終わるかと思われた。彼はトドメの貫手を喉に突き立てようとするが——
「ハァ……!」
バッ……!
「……!?」
貫手が喉に入る前に止まる。クロエが突然見せたのはタブレットだが、画面には何が映っている?
「……!ママ……!?」
「やはりお前には弱いものがある……それはアイドルの妹と、汚らしいママ……」
そう。タブレットに映っていたのはボロボロのコートで寒さを凌ぐ裸足のホームレス。その正体は、幸人と凪の実母である氷川千尋だ!
「あなた……何でこんなものを……!?」
彼が中学校1年生で凪が小学校4年生だったとき、忽然と姿を消した母親がホームレスに……?髪はボサボサで顔は泥がついたように汚れている。詳しくはわからないが、長い間ホームレスをしているのは一目瞭然だ。
「フフフフ……!今頃お前のパパが血眼になって探しているわよ……何より、あの女には相当な価値が眠っているらしいわ。それも身体の中に……」
「身体の中……!?どういうこと……!」
「それは私にもわからないわ……パパにでも聞いてみてちょうだい?」
「教えなさい……!」
スッ……
彼はクロエに気づかれないように、スマホの無音カメラアプリでタブレットの画面を撮影。しかし……
キリキリ……!メキメキ……!
背後から増援の一人が絞殺用のワイヤーで彼の首を絞める。一瞬の油断の隙に強く絞められたことにより意識が一気に遠のく。
「ウッ……!?クク……!」
クラ……クラ……
タブレットを撮影したことは気づかれていないようだが、もう息が続かない……
ドスッ……!
「ウゥ……!」
「そういえば、まだ殺すなって言われたんだった……しばらくいい夢でも見てな……」
フラッ……
2026年12月10日、17時頃。
「ウゥ……ハッ……!?僕は……まだ生きている……?寒い……!」
彼が目を覚ましたのはクロエと戦っていた立体駐車場の屋上。どうやら移動させられたようだ。しばらく気を失っていた彼の身体は冷え切っていた。
「そうだ……」
スマホの写真フォルダを確認すると、タブレットに映っていた母親の写真がきちんと保存されていた。わざわざ気づかれないように撮影した理由とは——
「舞衣香ちゃん!今から送る写真があるんだけど、急いでどこで撮影されたものか調べてほしいの!」
それは彼の知り合いである凄腕の情報屋、花園舞衣香に撮影場所を解析してもらうためだ。唯一手がかりになりそうなものは、ボヤけていて見づらいが『余白』と書かれた看板。余白の文字だけ大きく見えるのだが、その上に書かれている文字は小さくて見えない。これがかなりの手がかりになると彼は信じていた。
「了解よ!けど早くても明日になると思う!それまで待ってて」
「ありがとう!もう舞衣香ちゃん好きチュキ……!」
「私も!」
先ほどまで動揺してしまったが、やはり彼は冷静だ。凄腕の情報屋がいると仕事が早く済む。仕事ではないか……僕がずっとやりたかったこと……
ぐぅ〜……
「お腹空いた……牛丼食べよ。でも今日は焼き牛の気分かな……」
ぐぅ〜……
「ヤバい僕のお腹から悲鳴……!」
彼はよりお腹を空かせようと、エレベーターを使わず階段で駐車場を降りると、近くの吉野家へと向かっていった。
「いらっしゃいませぇ~」
「よいしょ……!」
今日は牛皿・牛鉄板焼肉定食でご飯大盛り。結局2杯もおかわりだ。この食べっぷりには店員も驚きを隠せなかった。
2026年12月10日、23時30分。余白の上階にある自宅では——
「うぅ……うぅ……!」
「んん……ん……」
「うぅ……うゔ……!はぁ……はぁ……」
サッ……サッ……ピュルピュル……
「ふぅ……気持ちよかったよ……澪……」
「幸人っていつもいっぱい出るわね……?」
寒い冬に暖房をつけた部屋。全裸でベッドの上に寝転ぶ幸人と澪。
「ねぇねぇ……」
「ん……?」
「何かさ……幸人、前よりヤバい奴相手にしてない?」
彼女の知っている限り、彼が戦ったのは主に半グレや大企業の専務。彼女も射殺されたアラクネの構成員をチラっと見ていた。氷川正信がグレイシャーズの監督であることも知っている。
「何か……アイツが今味方だったら……よかったの……か……?」
「どうかな……?でもわざわざ協力してもらうために刑務所から連れ出せないさ……」
「まあね……」
ふわっ……
彼は抱き合う前に目を閉じていた。やはり今日の戦いでかなり疲弊してしまったようだ。
「ズル……!自分だけ気持ちよくなって……」
返事はなかった。今日の疲労は、彼が思っていた以上に大きかったようだ。
「幸人……!会いたかったわ……会いたかったわ……!」
「……」
見知らぬ女性に抱き締められる鏡。明らかに『幸人』の名前に反応している。愛する人の名前がたまたま自分と同じ名前なのだろうか?
「すみません……あなたの知っている幸人って、どなたなんですか?」
「何言ってんのよ……私の息子じゃない?優しくて、可愛い息子……」
「息子……?」
鏡の母親は彼が20歳のときにがんで亡くなっている。確かに母親と顔立ちが似ているが、もし生きていたら47歳。そんなはずはない……彼はきちんと母親の最期を見届け、通夜から葬儀まで喪主を務めた!
「幸人……こんなに大きくなって……ママはずっと幸人のこと考えていたんだよ……?」
明らかに何かある。鏡はあることを言ってみた。
「もし事情があるなら、俺が息子さんを探す手伝いをしましょうか?」
「息子なら目の前にいるわよ……」
「もう一度言います。俺の名前は鏡幸人です。鏡……幸人……」
「……?かが……み?」
再度名前を聞いた彼女は慌てて手を離した。
「ご……ごめんなさい……!私、てっきり息子と勘違いしました……!」
「ふぅ……」
やはり彼女は勘違いしていた。
「私は氷川 千尋(58)です……氷川幸人って人知らないですか!?私の息子なんです……」
「いや……残念ながら聞き覚えありません。写真とかありませんか?」
話を聞いてみたら、息子の氷川幸人は28歳で彼と同じ年齢。だが見せられた写真は——
「これ……子どものときの写真ですよね?これじゃさすがに……」
唯一持っていた写真は6歳頃に撮ったもの。坊主頭だがかなり可愛らしい男の子だ。髪の毛があったら女の子ではないかと思える。
「ちなみにですけど、息子さんがいると思われる場所とか、心当たりありませんか?」
「ほ……ほ……」
「ほ?」
「北海道の札幌……です……」
「札幌……!?」
都内じゃないのかよ……それに札幌……具体的に話を聞きたいところだが、立ち話を続けていれば寒くなる。裸足の彼女ならなおさら寒いだろう。
グゥ〜……
「あっ……」
「ハハハ……お腹空きましたよね?とりあえず俺のとこに行きましょう。俺の家、喫茶店やってるんで!」
風貌を見るにかなり長い間ホームレスをしているだろう。ハッキリ言って臭いがキツい……だが若い頃やホームレスになる前は相当な美人だったのではないかと思われる。
「もうすぐ着きますよ!」
「はい……」
もう少し歩いた先に温かい食事が待っているのか?お金なんてないのに……
コツコツ……
「……?」
突然彼の足が止まった。誰かの視線を感じる。それも一人ではなく、複数人から。
ギュウィーン……
彼女の首に極細のワイヤーがかかる。肉眼で視認するのは容易ではないが、彼の目には確実に見えていた。
「……!?危ない……!」
ドサッ……!
「キャッ……!?」
ギュウィーン……!
「クゥ……!何だ今のは……千尋さん……大丈夫ですか!?」
「ええ……」
ピン……ピン……
ワイヤーの音を鳴らしながら3人の女が歩いてくる。
「お前たち、何者だ……?」
「あんたこそ何者よ?まさか私のワイヤーを見抜くなんて……素人じゃなさそうね?」
「私たちはワイヤー専門の殺し屋、アラクネ……でも名乗る必要なかったかしら?だって、あんたはここで死ぬんだし……」
「笑わせる……ワイヤーだかワイパーだか知らないけどな、素人……舐めんじゃねえぞ?」
「ほう……?」
「千尋さんは逃げてください……」
今まで戦った半グレ程度の相手とはまるで違う……それにあのワイヤーは絞殺用か?冷や汗が止まらない……とにかく背後を取られたらおしまいだ!
ギュウィーン……!
「ハッ……!」
高速で動く上に極細。暗い夜だと避けるだけで集中力をかなり使う。だが彼は戦いながら考えていた。
「ハッ……!」
なるべく街灯の真下、つまり明るい所に誘導すればワイヤーを視認できる!
ギュウィーン……!
「フッ……!(そこか!)」
ビュゥン……!
彼は鍛え上げた脚力で急接近!そのまま一気に距離を詰める。
「オラァ……!」
ドゴォーン……!
彼の前蹴りが女の一人の胸に命中!
「かひゃ……!?」
この一撃で内臓にまで衝撃がいっている!
「シンディ……!?」
「おのれぇ……!」
残るは2人。
ギュウィーン……!
しかし彼は誤解していた。女たちが持っているワイヤーが絞殺用ではないことを……
スパンッ……!ズズッ……ドォン!
何とワイヤーはバス停の看板を真っ二つに切断した。
「……!?マジかよ……!(絡まれたらサイコロステーキになるところだった……)」
一瞬だけ動揺してしまったが、それでも彼は冷静さを崩さない。逆に切れ味が鋭いワイヤーを利用してしまえばいい。そう考えた彼が取り出したのは粉末のコーヒー用ミルク。
フワッ……
ワイヤーが振り払われる瞬間を狙いミルクを投げる。彼の狙い通りミルクは空中にばら撒かれ——
ボフッ……!
「ゴホ……!ゴホ……!」
ミルクを吸い込んで咳き込む。追い詰めたつもりがいつの間にか追い詰められていた。
「だから素人を舐めるなと言ったんだ……」
「くぅ……!?」
ドスッ……!ドゴォーン……!
これで2人目も撃破。驚くことに彼はまだノーダメージだ。
「すごい……」
千尋は彼の戦いをじっと見ていた。逃げるよう言われたが、不衛生な状態ではやはり余白へは入れなかった。だが逃げなかったことが仇になってしまう。
コツ……コツ……トントン……
「……?」
「やあ……久しぶりじゃないか?千尋……」
「あ……あなた!?」
「何驚いてんだ?私は千尋の夫じゃないか?」
彼女の前に現れたのは、紛れもない氷川正信。アラクネは正信の差し金だったのか?
「あなた……幸人はどこなの!?あなたなら知っているでしょ……!?」
「幸人……君は忘れたのか?私たちの子どもは凪だけじゃないか?息子なんていないじゃないか?」
「ふざけないで……!幸人は私の息子よ!お願い……会わせて……!」
ビリビリビリ……!
「うぅ……!?」
バタンッ……
「うぅん……やっぱり今のままじゃ臭いな……早く綺麗にして、ちゃんと美しくしてやるからなぁ……」
正信はそのまま彼女を連れ去ろうとした。だがそのとき——
ドガーン……!
ちょうどアラクネの3人組を撃破した鏡が彼女と正信を発見して近づく。
「千尋さん!……!?あんたは確か……グレイシャーズの氷川監督か……!?」
「ほう……最近の若いのでも野球を観るようだな?まさか、アラクネの連中を倒してしまうとは……貴様は何者だ?」
「俺は鏡幸人だ。ところであんた、千尋さんを保護するような雰囲気には……とても見えねえな?」
「幸人……どいつもこいつも、どうして幸人って名前の男はイラつかせるのかね?」
その言葉を聞いた彼はすぐに確信した。彼女が言っていた息子の名前は氷川幸人。それに正信のフルネームは氷川正信。元プロ野球選手であったことも知っている。確か元アイドルと結婚したと聞いたことがあったが……
「……!?まさか、千尋さんって……あの……Aurora Kissの……?」
「信じられないだろ?こんなボロボロの女が元トップアイドルなんてな……まあ、これもこれで彼女は美しい……」
そう言いながら汚れた髪を撫でる。氷川千尋の正体は1985年から1990年代を魅了したトップアイドル、Aurora Kissのセンター、CHIHIRO……なぜホームレスになるまで落ちていったのか?
「氷川……さん……」
鏡と戦って負けたアラクネの3人が必死で立とうとする。しかし——
バンバンバーン……!
「……!?」
「君たちはもう必要ない……お疲れ様……」
容赦なく射殺されるアラクネの3人。
「貴様……!」
「何怒ってんだ……?」
「貴様……自分の仲間を虫けらのように殺したな……自分が何したかわかってんのか……!?」
「ハハハハハ……!お人好しにも程があるな!?まあいい……鏡幸人、顔と名前は覚えた……せいぜいこれから、楽しみにしていろ……」
「何……?」
「悪いが今は相手している時間がないんでね……千尋を可愛がらなきゃいけないからな……」
「千尋さん!」
ブーン……!
突然歩道を思い切り乗り上げた高級車が彼を目がけて突っ込む!千尋を助けようと先走ったことで反応が遅れる!だが——
「危ないっ……!?」
ガシッ……!
「うぅ……!」
鏡の身体は自分の意思とは無関係に動いていた。その理由は、彼を間一髪守った存在があったからだ。
キキィィィィーッ……!ガクンッ……!
「澪……!」
「大丈夫……!?」
彼を守ったのは夢野 澪(26)。彼と同棲中の恋人だ。先ほどまで余白でアルバイトしていたのだが、正信の銃声を聞きつけて外へ出てみたら、たまたま現場に居合わせたのだった。
ブーン……!
「千尋さん……千尋さん……!……クソッ……!」
立ち上がった頃には既に、千尋と正信の姿は見えなくなっていた。逃げられたか……
「幸人……どうしたの……?」
「……何でもない」
「何でもないわけないじゃん!?」
「……」
恋人とまともに会話できないほど怒っている。彼の場合人や物に当たったりはしないのだが、優しいときと怒っているときの雰囲気が違いすぎる。
「でも、助かったよ……」
「そうよ……本当に……」
澪が助けてくれなければ確実に轢き殺されていた。擦り傷を負ってまで助けてくれた彼女には、素直に感謝したい。
「澪……明日、店任せていいか?ディナーだけ」
「いいわよ……」
「ありがとな……」
何とか機嫌をよくした彼は、手をつなぎながら余白へと帰っていく。この日の帰り道は、近いはずなのに遠く感じるのだった。
時は戻り2026年12月10日、14時40分頃。氷川幸人とアラクネのボス、クロエは戦いの場所を札幌ホール裏の立体駐車場へ変えていた。彼は暗殺者を引退してからあまり強敵と戦っていないが、実力はどれほどのものだろうか?
ギュウィーン……!スッ……!
「さすが疾いわね……」
クロエから見ればまるで止まっているように見えたのだが、彼は高速でワイヤーを回避している。
「フッ……(さっきのアイドルの子、このワイヤーに巻かれたことに気づいていなかったの……?)」
ワイヤーの攻撃を先に封じるべきか、それとも真っ先に無力化すべきか。人体を簡単に切断するワイヤーだ。零度で相手の攻撃を逆利用することは難しい。
「フゥ……」
彼は零度とは違うバトルスタイルを構える。これは相手の攻撃を逆利用するでもなく、集団戦に特化した戦闘スタイルではない。
ギュウィーン……!
「スゥ……」
彼は落ち着いて避け続ける。そして——
ギュウィーン……!キーン……!
彼は脛に仕込んでいた鋼鉄でワイヤーを弾き返す。クロエは跳ね返ったワイヤーを受けないために慌てて袖に仕舞う。だが、彼の攻撃はクロエよりも疾かった。
ドスッ……!
「くぅぅ……!」
クロエの右胸に突き刺さったのは貫手による一撃。これで内臓が耐えられるのだろうか?
「フン……やるわね……」
やはりアラクネのボスともなれば一筋縄に攻撃が入らない。どうやら喰らう寸前に一歩後退したようだ。
「まさか空手で私に勝とうっての?」
「これを空手と思ってもらっちゃ困るわね……せめて氷結って呼んでほしいわ……」
彼のもう一つの戦闘スタイル、『氷結』。先ほどの空手もだが、主に日本の武術を織り交ぜた殺人拳。世界の武術を使いこなせるのだが、あえて日本の武術しか使わない理由。それは日本好きであることに起因している。
「残念だったわね……そんなんじゃ私は倒せないわ!」
バンバーン!ギュウィーン……!
「フッ……!剣道なら常に間合いを意識する。戦闘じゃ基本中の基本ね……」
シュッ……!ドガァン……!
彼の蹴りがクロエの脛に命中する!そのまま前のめりになるように怯み——
「延髄蹴りよ……耐えられるかしら……?」
ドガァン……!
「ぐぅう……!?」
まだ立っていられるとは……やはり彼は男の娘。筋肉量が少ない上に細身体型の彼は、鍛え上げられた成人男性とは違ってパワーは発揮できない。だがパワーはなくても、彼にはスピードがある。
「そろそろ終わりにしようかしら?」
ダメージ的にクロエの方が劣勢。このままなら幸人の勝利で戦闘は終わるかと思われた。彼はトドメの貫手を喉に突き立てようとするが——
「ハァ……!」
バッ……!
「……!?」
貫手が喉に入る前に止まる。クロエが突然見せたのはタブレットだが、画面には何が映っている?
「……!ママ……!?」
「やはりお前には弱いものがある……それはアイドルの妹と、汚らしいママ……」
そう。タブレットに映っていたのはボロボロのコートで寒さを凌ぐ裸足のホームレス。その正体は、幸人と凪の実母である氷川千尋だ!
「あなた……何でこんなものを……!?」
彼が中学校1年生で凪が小学校4年生だったとき、忽然と姿を消した母親がホームレスに……?髪はボサボサで顔は泥がついたように汚れている。詳しくはわからないが、長い間ホームレスをしているのは一目瞭然だ。
「フフフフ……!今頃お前のパパが血眼になって探しているわよ……何より、あの女には相当な価値が眠っているらしいわ。それも身体の中に……」
「身体の中……!?どういうこと……!」
「それは私にもわからないわ……パパにでも聞いてみてちょうだい?」
「教えなさい……!」
スッ……
彼はクロエに気づかれないように、スマホの無音カメラアプリでタブレットの画面を撮影。しかし……
キリキリ……!メキメキ……!
背後から増援の一人が絞殺用のワイヤーで彼の首を絞める。一瞬の油断の隙に強く絞められたことにより意識が一気に遠のく。
「ウッ……!?クク……!」
クラ……クラ……
タブレットを撮影したことは気づかれていないようだが、もう息が続かない……
ドスッ……!
「ウゥ……!」
「そういえば、まだ殺すなって言われたんだった……しばらくいい夢でも見てな……」
フラッ……
2026年12月10日、17時頃。
「ウゥ……ハッ……!?僕は……まだ生きている……?寒い……!」
彼が目を覚ましたのはクロエと戦っていた立体駐車場の屋上。どうやら移動させられたようだ。しばらく気を失っていた彼の身体は冷え切っていた。
「そうだ……」
スマホの写真フォルダを確認すると、タブレットに映っていた母親の写真がきちんと保存されていた。わざわざ気づかれないように撮影した理由とは——
「舞衣香ちゃん!今から送る写真があるんだけど、急いでどこで撮影されたものか調べてほしいの!」
それは彼の知り合いである凄腕の情報屋、花園舞衣香に撮影場所を解析してもらうためだ。唯一手がかりになりそうなものは、ボヤけていて見づらいが『余白』と書かれた看板。余白の文字だけ大きく見えるのだが、その上に書かれている文字は小さくて見えない。これがかなりの手がかりになると彼は信じていた。
「了解よ!けど早くても明日になると思う!それまで待ってて」
「ありがとう!もう舞衣香ちゃん好きチュキ……!」
「私も!」
先ほどまで動揺してしまったが、やはり彼は冷静だ。凄腕の情報屋がいると仕事が早く済む。仕事ではないか……僕がずっとやりたかったこと……
ぐぅ〜……
「お腹空いた……牛丼食べよ。でも今日は焼き牛の気分かな……」
ぐぅ〜……
「ヤバい僕のお腹から悲鳴……!」
彼はよりお腹を空かせようと、エレベーターを使わず階段で駐車場を降りると、近くの吉野家へと向かっていった。
「いらっしゃいませぇ~」
「よいしょ……!」
今日は牛皿・牛鉄板焼肉定食でご飯大盛り。結局2杯もおかわりだ。この食べっぷりには店員も驚きを隠せなかった。
2026年12月10日、23時30分。余白の上階にある自宅では——
「うぅ……うぅ……!」
「んん……ん……」
「うぅ……うゔ……!はぁ……はぁ……」
サッ……サッ……ピュルピュル……
「ふぅ……気持ちよかったよ……澪……」
「幸人っていつもいっぱい出るわね……?」
寒い冬に暖房をつけた部屋。全裸でベッドの上に寝転ぶ幸人と澪。
「ねぇねぇ……」
「ん……?」
「何かさ……幸人、前よりヤバい奴相手にしてない?」
彼女の知っている限り、彼が戦ったのは主に半グレや大企業の専務。彼女も射殺されたアラクネの構成員をチラっと見ていた。氷川正信がグレイシャーズの監督であることも知っている。
「何か……アイツが今味方だったら……よかったの……か……?」
「どうかな……?でもわざわざ協力してもらうために刑務所から連れ出せないさ……」
「まあね……」
ふわっ……
彼は抱き合う前に目を閉じていた。やはり今日の戦いでかなり疲弊してしまったようだ。
「ズル……!自分だけ気持ちよくなって……」
返事はなかった。今日の疲労は、彼が思っていた以上に大きかったようだ。