奇跡を起こすソーダ水
1998年8月3日、北海道室蘭市の病院で一人の『男の子』が誕生した。父・氷川正信と母・氷川(旧姓・里山)千尋との間に生まれた男の子は、『幸人』と名づけられた。当時札幌グレイシャーズのプロ野球選手だった父と、Aurora Kissのトップアイドルで、この頃から女優業に専念していた母。両親が大スターという家庭に生まれた。特に父親は、第一子が男の子だという喜びに溢れていた。大きくなったらスポーツを習わせよう。そう考えていた。その日が来るときのために野球、サッカー、バスケットボールなど、スポーツ用品を買い揃える中、2001年9月30日には長女の『凪』が誕生。何不自由ない幸せな生活になる。はずだった……
2005年5月14日。幸人が小学校へ入学した頃、父の誘いで一通り観戦したスポーツの中から、彼は野球に興味を持った。だが、母は少しずつ幸人が『男の娘』になっていくのを感じ始めた。ちょうどこの日は学校が休みで、近所に住む同級生の女の子と遊んでいたのだが——
「ハハハ!」
「キャキャキャ……!」
当時流行っていたヒロインもののアニメ、『きらめき☆ジュエルハート』。男の子の幸人はそんなものに興味を持つはずがないと思っていた。
「僕はジュエルペリドットに変身!今日も君の心を優しく癒しちゃうよ!」
「私はジュエルエメラルドに変身!いつまでも優しい気持ちにさせちゃうよ!」
「ああ……」
「どうしたんだ……?」
「あなた……最近幸人が、ずっと女の子みたいなことやってて……」
「ちっ……またか……」
「……?」
正信は何度か見ていた。女の子といつも遊び、ヒロインになりきっている姿を。野球の練習にはきちんと行くのだが、暇なときはずっとジュエルハートの真似をしている。母の千尋は『息子が好きなものなら否定しない』と考えていた。一方、気持ち悪いと思い始めたのは父だった……
2005年8月3日、この日は幸人の7歳の誕生日だった。その日の夜——
「お誕生日おめでとう!ママからは、ジュエルペリドットのブローチよ!」
「おめでとうお兄ちゃん!凪からは、ママと選んだ着せ替え人形!」
母と妹からプレゼントをもらって嬉しくなる幸人。男の子だが女の子のもので喜んでいる。
「ありがとう!ママ!凪ちゃん!」
だが、そんな平和を破るかのように——
「パパからもプレゼントだ……」
「パパからも?開けていい!?」
「もちろんだ……」
父から差し出されたのはプレゼント用に梱包された箱。新しいグローブか?何も疑わない彼は箱を開ける。
「……!パパ……何これ……!?」
箱に入っていたのは、子どもが観てはいけないショッキングな映画のDVDと、殺害の様子が写っている写真数枚……小学1年生の彼は写真を見た瞬間に恐怖でいっぱいになる。
「あなたそんなもの……!?」
「これ怖いよ……!」
「男の子は少しでも、『厳しさ』を知らないとダメだ……」
確かに厳しさは知らなければいけないかもしれない。だが、野球が好きで少し女の子っぽい子どもになぜ人殺しを題材にしたものを見せる?
ピッ……
消えていたテレビがつけられる。既にDVDはプレーヤーにセットされており——
グサッ……!ザシュッ……!
「キャー……!」
いきなり観せられたのは、人を殺して死体を切り刻み、最終的には食す映画。当たり前だが子どもが観てはいけない。あまりのグロさに母も目を伏せる。
「お兄ちゃん……!」
凪は自分の目を隠しながら彼の目を覆う。
「あなた……!?どうしてこんなことするんですか……!?」
「女……」
「……?」
「こいつは私の期待を裏切った……女みたいになってな……」
「そんなこと……成長すれば自然に……」
「いや、私にはわかる……こいつは男でも女でもない……オカマなんだよ……」
彼はこの日から、父から冷遇された環境で育つことになる。食事を抜かれる、家族行事に呼ばれないことは日常茶飯事。母は父の目を盗んで食事を与えることもあったものの、もしバレたら最後——
ドスッ……!
「うぅ……!」
「いいか……こいつには残飯で十分だ……」
「そんな……幸人が可哀想よ……」
暴力を振るわれ続けた母も次第に諦めるようになり、目を合わせる機会も減ってしまった。それでも、彼には唯一の味方がいた。
「お兄ちゃん……凪はずっと、お兄ちゃんのこと守るから……」
「凪ちゃん……!」
生まれたときから父に溺愛され続けていた凪は、兄妹間で差別された家庭環境でも決して腐らなかった。幸人と凪は必死で考えていた。中学を卒業するまではこの家庭で耐えようと……
それから年月が経っていく中、幸人は父に認められようと必死で努力した。髪形を坊主にしたり、身体を壊すまで素振りしたり……それでも認められず、母は遂に話しかけても反応してくれなくなった。唯一の味方は凪。しかし、そんな家庭環境で育てば凪の心も徐々に壊れていく。やがて野球チームから脱退した彼は、父の意志に反するように女の子になりきった。彼が自分なりの生き方を見つけようと思ったある日、遂に取り返しのつかない事件が起きる。
2010年11月26日。スカートを履いた幸人は幼なじみの保山 美咲と共に下校していた。高学年になった2人はジュエルハートについて盛り上がることは少なくなったものの、気が合う者同士で、同じアイドルが好きだった。
「いつか幸ちゃんと白石莉乃のライブ行きたいな!」
「行きたい行きたい!ママに頼めば聞いて……くれるかな……?」
ギギギギ……!
「ママに頼めば……」
ギギギギ……!
2人はガールズトークを楽しんでいて、身に迫る危険に気づかなかった。母にお願いすればライブのチケットを買ってくれるかもしれないと考えていた。
ミシッ……!ブチッ……!
「絶対に行こ!僕と美咲ちゃんでペンライ……」
「危ない……!」
ドンッ……!
「わっ……!?」
突然美咲が彼の身体を突き飛ばす。一体何が?考える間もなく——
ガシャーン……!
ワイヤーがいきなり切れ、吊るされていた鉄筋が美咲の身体を冷たく押し潰す。
「美咲ちゃん……!美咲ちゃん……!?嫌だ……嫌だ……!うわぁ~ん……!」
すさまじい音を聞きつけた近隣住民が集まってくる。
「大変だ……!中に女の子が……!」
「何だって……!?早く警察と救急車呼ばないと……!」
「美咲ちゃん……!美咲ちゃん……」
「君……!ここにいちゃダメだ……!離れないと……」
「嫌だ……!嫌だよぉ……!」
これは不慮の事故なのだろうか?実際その後、工事を担当していた現場責任者たちは業務上過失致死罪に問われ、会社側は『不注意で起きてしまったことに間違いない』と責任を認めている。だが現場にいた作業員は不思議に思っていた。鉄筋を吊るす前に、きちんとワイヤーの強度に問題がないことを数人でチェックしていた。だが、本当は氷川正信によって仕組まれていたことが明かされることはなかった……
美咲の死から幸人と凪は、『父親』という悪魔に怯えながら生きていった。幸いにも凪は可愛がられていたため、魔の手が忍び寄ることはなかったのだが、幸人には休まる場所がなかった。誰かと友達になったら、友達が殺されてしまうかもしれない。母も味方にはなってくれたものの、やはり旦那の前では無力。それでも彼は凪と母のことが好きだった。幸人と凪を守る母だったが、遂に身も心も限界を迎えてしまう。
2011年9月12日。東京都港区のライブ会場『TOKYO CELESTIA HALL』ではAurora Kissのライブが行われていた。だが千尋は、夫から受ける精神的苦痛によって完全に痩せ細り、栄養失調でまともに動けない状態だった。今年中に解散が決まっているAurora Kissのメンバーは、千尋を含めて3人。抜けたメンバーもいたが、残った3人で頑張ってきた。そして——
ワー……!
「北風にKissして あなたへ届け〜」
声は出ている。このまま歌い切りたい。だがこの後に続く曲、数時間のライブは身体に堪える。
「もう一度あなたと 笑いた……い……うぅ……!」
ガタンッ……!
「雪より眩しい〜……千尋?どうしたの千尋!?」
「はぁ……はぁ……!」
バタンッ……
「千尋ー……!?」
千尋は1曲歌い切る前に倒れ込んでしまった。原因は栄養失調とうつ病だった。予定されていた解散ライブを迎える前の出来事だった。結局この日のライブは千尋抜きに行われることになった。後日、彼女は北海道に帰らず港区の病院で入院。退院しても体調が回復することはなく、仕事にも行けずに貯金も尽きてしまい、そのまま港区でホームレス生活を送ることになった。当初は裸足ではなかったのだが、街に潜むホームレス狩りに遭い、靴を奪われていた。靴を奪われても、幸人と凪の写真が入ったロケットペンダントだけは大事に持っている。命よりも大切なものだから。
2011年9月30日、18時頃。この日、凪は10歳の誕生日を迎えた。母が帰ってこない中、凪は嬉しくない表情で父から『おめでとう』の言葉を受ける。
「さあ今日は誕生日だから、凪の好きなカルボナーラだ……」
「……」
「……」
「どうした?違うのが食べたかったか?おい、お前凪に何か言ったわけじゃないよな?」
「僕は何も……!」
「フン……まあいい……食おうか……?」
凪は見ていた。父が作ったカルボナーラが、湯せんして温めたレトルトのパスタソースだってことを。料理は全てママに任せていたから……だが、凪には見抜けなかったものが一つあった。
「いただきます……」
パクッ……
やはり空腹には勝てなかった。考えても仕方がないと思った幸人と凪はパスタを食べる。しかし——
スパッ……
「……!?痛い……!」
「お兄ちゃん……!?」
幸人の口から大量の血が流れている!まさか吐血したのか?彼は飲み込む前に、口の中に入っていたパスタをシンクに戻した。
カラン……
「何よこれ……?」
何と彼の口から出てきたのはカミソリの刃だったのだ!飲み込む前に、口の中を切って気づいたことが不幸中の幸いだった。
「くそ……そのまま飲み込んでいれば……」
「パパ……何てことするの!?飲んじゃったらお兄ちゃん死んじゃうのよ……!?」
「そうかもな……!全く、中学生になったら男らしくなるかもって、ちょっとは期待してみたが、余計に気持ち悪くなりやがって……」
「何てこと言うのよ……お兄ちゃんは私なんかより全然綺麗よ……!?」
ポトポト……
口の中から血が止まらない。相当深く切ってしまっている……
「どうするお前……おかわりするか?」
彼は確信した。この家にいたら、いや……今殺されてしまうと!
「う……うわぁ~……!!」
ガシャン……!
「お兄ちゃん……!」
彼は何も持たずに家を飛び出した。本当なら凪と一緒に逃げたかった。だが考える余裕もなく、彼ができたのは全力で逃げることだけ。無我夢中で走る彼はどこへ辿り着くのだろうか?
ダッダッダッ……!
「はぁ……!はぁ……!」
19時頃、彼は振り向くことなく走り続けた。かけっこやマラソン大会の比ではないくらい走った。足の爪は剥がれ、血が出ていた。
「ママ……ママ……!助けて……!」
母はどこへ行ってしまったのか?父から何も聞かされず、母からも連絡一つ寄越さない。僕は捨てられたのだろうか?止まることなく走り続ける彼の身体は遂に——
フラ……フラ……
筋肉がパンパンになり、脚はグラグラと揺れている。
「ここは……どこ?」
1時間必死で走り抜いた彼は、札幌を抜けて江別市へ辿り着いていた。9月末になれば日が沈むのが早く、既に街は街灯に照らされていた。すると——
「いやぁ〜……美味かったよ!」
「また来いな!」
BARのような店から男性客が出てきて、マスターらしき女性が見える。
「……!ママ……!?」
あの髪形と身長……間違いない……!ママ……!
「ママ……!?」
ダッダッ……ドテッ……!
「うぅ……!痛い……!」
膝を擦り剥いてズボンに血が滲む。地を這ってでも向かおうとする。
「……?ちょっと大丈夫?血ぃ出てんじゃん……!?」
「ママ……」
「嬢ちゃん……!大丈夫!?傷の手当てしないと……」
「ママ……」
疲れ切った彼は意識を手放した。ようやくママに会えた……
2011年10月1日、午前6時。
「うぅ……?……ここは?ママは……?」
「目が覚めた?」
「ママ……!?あっ……」
「悪いけど私は君のママじゃないわ……私の名前は黒瀬 静香。君は?」
「氷川……幸人です……」
「幸人?女の子と思ったらやっぱり男の子だったのね。おちんちんついているし……」
そういえばパンツが替わっている。恥ずかしながら、おねしょをしてしまったらしい。どうやら静香がパンツを変えてくれたようだ。
「ところで君、どこから来たの?服も汚れていたし……」
「札幌です……」
「マジで?札幌からここまで来たの!?」
「はい……僕は父に……あっ……」
殺されかけているなんて言えなかった。やはり少しでも家族を想う情があったのだろう。彼は咄嗟に——
「父が車に轢かれて、怖くなって逃げたんです……!そしたら、黒瀬さんがいたから……」
「……」
静香は彼が嘘をついていることくらいわかっていた。確かに服は汚れていたが、父親が車に轢かれたのなら、その時間まで一人で逃げているのはおかしい上、口から血を流している。それに父親が誰なのかはある程度目星がついていた。
「幸人君……もしよかったら、私と暮らさない?中学生よね?学校もこっちの近くに転校してさ?」
「黒瀬さんとですか?」
「黒瀬さんは止しな……私のことは静香って呼べばいい。私は幸ちゃんって呼ぼっかな?」
「静香さん……」
黒瀬静香は当時48歳で、BAR『静寂』のマスター。彼女は生涯独身で子どもを育てた経験などなかったが、養育者として幸人を育てることを決意。一人で生き続けた彼女には相当な貯金があった。
氷川幸人と黒瀬静香との生活は幸せそのものだった。中学校こそ転校になったが、気の合う女子生徒とはすぐ仲良くなり、中学卒業後は江別市の高校へ進学。
「さあ召し上がれ!」
「ありがとう!」
毎日、満腹になるまで食事ができる。それでも彼は、凪と母のことを忘れたことはなかった。そのために——
「静香さん……」
「どうした?」
「静香さん……僕……」
「どうしたのよ?お願いがあるなら言ってごらん?」
「……何でもない……」
「そう……?」
やはり言えない……。ある日の夜、喉が渇いて水を飲もうと冷蔵庫へ向かってみると、静香が銃を組み立てたり、ナイフを研いだりする光景を見ていた。驚いて声が出そうになった。彼女は気づいていない様子だったが、留守のときに部屋を探索してみると、静香の若い頃の写真が数枚あり、中には銃を持って仲間たちと並んだ集合写真まで。彼は確信していた。静香さんは優しいだけじゃなく、すごく強い人だと。
「僕……静香さんみたいになりたいと思って……」
「私みたいに?何、BARでもやってみたいの?」
「それもあるんだけど……僕は、静香さんみたいに強くなりたくて……!」
非常に抽象的な言い方だった。何て言われるのだろうか?
「わかっていたわよ……」
「えっ……」
「だってあのとき、見たもんね?」
やはり彼女は気づいていた。彼女は箸を置き——
「私は幸ちゃんと血がつながっているわけじゃないし、親みたいにそんなことやめとけとか言うつもりはない……けど、私は幸ちゃんのお父さんより怖いかもよ?」
このときの彼女の目は非常に鋭くて冷たかった。引き止めようとする意志も伝わってくる。それでも——
「うん……僕は必ず強くなって、凪ちゃんを迎えに行きたいの……!」
「そう……わかった。けど高校だけは卒業しなさい。それは絶対に約束よ?」
「うん……!」
当時高校3年生の彼は、担任の教師には就職希望と言い、就職先は『養母が経営する飲食店で働く』と説明していた。高校を卒業したら男子生徒用の制服を着る必要はない。自分の好きな可愛い服を着られるんだ!私生活の面でも期待に胸を膨らませていた。やがて——
2017年4月3日、10時頃。高校を卒業した幸人は、静香に案内されて施設のような場所に辿り着いた。
「ここよ……」
「ノクターン……?」
施設に入ると『Nocturne』と書かれた旗と、葡萄のような紋章。
「お久しぶりです静香さん……」
「急に悪いわね……早速だけど、この子を育ててほしいの」
「君?静香さんに紹介されたのは」
「氷川幸人です!よろしくお願いします!」
「……面白い子ね?私は針宮 彩海よ。よろしくね」
ノクターンとは女性のみで構成された暗殺者組織。当時既に組織の解散が決まっていたのだが、静香に推薦された幸人を最後の弟子にすると決めて解散を延期したのだ。彼の場合戸籍上は男性だが、女性らしい生き方を貫く幸人に惚れた静香が特例で弟子に認めたのだった。
「いくわよ……まずは近接戦闘、ボクシングのように脇を締めて、楽に打つ……」
「はい……!」
彼は18歳で暗殺者としての訓練を受け始めた。ときには力とスピードに追いつけず、身も心も限界になったこともある。19歳の頃には海外の危険地域で人質救出作戦、20歳には政治家を暗殺する単独任務も経験。厳しい実戦を次々とこなしていった。戦場の中で、彼の眠っていた才能が開花していく。それは『暗殺』の技術だった。
2020年8月3日。22歳の誕生日を迎えた幸人はノクターンを脱退。組織も最後の弟子がいなくなったことで解散した。彼が第二の人生に選んだもの。それは——
「幸ちゃんおめでとう!」
「ありがとう!全部静香さんのおかげよ!」
静香はこのとき57歳。まるで我が子の成功のように喜んでいる。2人がいるのは札幌の飲み屋街。
「でも札幌でよかったの?」
「うん!もう凪ちゃんを、迎えに行く必要もなくなっちゃったし……」
凪は中学を卒業してから、家を逃げるように出て室蘭市に移住し、高校に通いながらアイドル養成所に行っていた。彼女は特待生であったため授業料は無料だったが、アイドルとして活動するためにアルバイトをかけ持ちしながら頑張っていた。暗殺任務で得た報酬の半分を凪に仕送りしたことは、実は内緒だ。
「あの子アイドルだもんね?幸ちゃんの妹なんだから、きっと誰よりも強いわ!ところで、BARの名前決めたの?」
「決めたわ。零度よ!炭酸って冷たい方が美味しいでしょ?それに僕もゼロからスタートしたいから」
「いいじゃない!零度、カッコ可愛いわ!」
22歳の誕生日にBARを開業。彼は炭酸水を『ソーダ水』と呼んでいる。零度は、炭酸のお酒を提供する専門店。ドン底だった氷川幸人の人生が生まれ変わった瞬間だ!
ノクターン脱退後も暗殺の依頼が舞い込んでくることはあった。彼はバーテンダーとして、暗殺者として。表社会でも裏社会でも名を馳せる男の娘となった。零度には様々な問題を抱えた人が訪れることもある。そんなとき彼が言う台詞がこれだ。
カランカラン……
「いらっしゃい……今日は何を忘れたいの?」
2005年5月14日。幸人が小学校へ入学した頃、父の誘いで一通り観戦したスポーツの中から、彼は野球に興味を持った。だが、母は少しずつ幸人が『男の娘』になっていくのを感じ始めた。ちょうどこの日は学校が休みで、近所に住む同級生の女の子と遊んでいたのだが——
「ハハハ!」
「キャキャキャ……!」
当時流行っていたヒロインもののアニメ、『きらめき☆ジュエルハート』。男の子の幸人はそんなものに興味を持つはずがないと思っていた。
「僕はジュエルペリドットに変身!今日も君の心を優しく癒しちゃうよ!」
「私はジュエルエメラルドに変身!いつまでも優しい気持ちにさせちゃうよ!」
「ああ……」
「どうしたんだ……?」
「あなた……最近幸人が、ずっと女の子みたいなことやってて……」
「ちっ……またか……」
「……?」
正信は何度か見ていた。女の子といつも遊び、ヒロインになりきっている姿を。野球の練習にはきちんと行くのだが、暇なときはずっとジュエルハートの真似をしている。母の千尋は『息子が好きなものなら否定しない』と考えていた。一方、気持ち悪いと思い始めたのは父だった……
2005年8月3日、この日は幸人の7歳の誕生日だった。その日の夜——
「お誕生日おめでとう!ママからは、ジュエルペリドットのブローチよ!」
「おめでとうお兄ちゃん!凪からは、ママと選んだ着せ替え人形!」
母と妹からプレゼントをもらって嬉しくなる幸人。男の子だが女の子のもので喜んでいる。
「ありがとう!ママ!凪ちゃん!」
だが、そんな平和を破るかのように——
「パパからもプレゼントだ……」
「パパからも?開けていい!?」
「もちろんだ……」
父から差し出されたのはプレゼント用に梱包された箱。新しいグローブか?何も疑わない彼は箱を開ける。
「……!パパ……何これ……!?」
箱に入っていたのは、子どもが観てはいけないショッキングな映画のDVDと、殺害の様子が写っている写真数枚……小学1年生の彼は写真を見た瞬間に恐怖でいっぱいになる。
「あなたそんなもの……!?」
「これ怖いよ……!」
「男の子は少しでも、『厳しさ』を知らないとダメだ……」
確かに厳しさは知らなければいけないかもしれない。だが、野球が好きで少し女の子っぽい子どもになぜ人殺しを題材にしたものを見せる?
ピッ……
消えていたテレビがつけられる。既にDVDはプレーヤーにセットされており——
グサッ……!ザシュッ……!
「キャー……!」
いきなり観せられたのは、人を殺して死体を切り刻み、最終的には食す映画。当たり前だが子どもが観てはいけない。あまりのグロさに母も目を伏せる。
「お兄ちゃん……!」
凪は自分の目を隠しながら彼の目を覆う。
「あなた……!?どうしてこんなことするんですか……!?」
「女……」
「……?」
「こいつは私の期待を裏切った……女みたいになってな……」
「そんなこと……成長すれば自然に……」
「いや、私にはわかる……こいつは男でも女でもない……オカマなんだよ……」
彼はこの日から、父から冷遇された環境で育つことになる。食事を抜かれる、家族行事に呼ばれないことは日常茶飯事。母は父の目を盗んで食事を与えることもあったものの、もしバレたら最後——
ドスッ……!
「うぅ……!」
「いいか……こいつには残飯で十分だ……」
「そんな……幸人が可哀想よ……」
暴力を振るわれ続けた母も次第に諦めるようになり、目を合わせる機会も減ってしまった。それでも、彼には唯一の味方がいた。
「お兄ちゃん……凪はずっと、お兄ちゃんのこと守るから……」
「凪ちゃん……!」
生まれたときから父に溺愛され続けていた凪は、兄妹間で差別された家庭環境でも決して腐らなかった。幸人と凪は必死で考えていた。中学を卒業するまではこの家庭で耐えようと……
それから年月が経っていく中、幸人は父に認められようと必死で努力した。髪形を坊主にしたり、身体を壊すまで素振りしたり……それでも認められず、母は遂に話しかけても反応してくれなくなった。唯一の味方は凪。しかし、そんな家庭環境で育てば凪の心も徐々に壊れていく。やがて野球チームから脱退した彼は、父の意志に反するように女の子になりきった。彼が自分なりの生き方を見つけようと思ったある日、遂に取り返しのつかない事件が起きる。
2010年11月26日。スカートを履いた幸人は幼なじみの保山 美咲と共に下校していた。高学年になった2人はジュエルハートについて盛り上がることは少なくなったものの、気が合う者同士で、同じアイドルが好きだった。
「いつか幸ちゃんと白石莉乃のライブ行きたいな!」
「行きたい行きたい!ママに頼めば聞いて……くれるかな……?」
ギギギギ……!
「ママに頼めば……」
ギギギギ……!
2人はガールズトークを楽しんでいて、身に迫る危険に気づかなかった。母にお願いすればライブのチケットを買ってくれるかもしれないと考えていた。
ミシッ……!ブチッ……!
「絶対に行こ!僕と美咲ちゃんでペンライ……」
「危ない……!」
ドンッ……!
「わっ……!?」
突然美咲が彼の身体を突き飛ばす。一体何が?考える間もなく——
ガシャーン……!
ワイヤーがいきなり切れ、吊るされていた鉄筋が美咲の身体を冷たく押し潰す。
「美咲ちゃん……!美咲ちゃん……!?嫌だ……嫌だ……!うわぁ~ん……!」
すさまじい音を聞きつけた近隣住民が集まってくる。
「大変だ……!中に女の子が……!」
「何だって……!?早く警察と救急車呼ばないと……!」
「美咲ちゃん……!美咲ちゃん……」
「君……!ここにいちゃダメだ……!離れないと……」
「嫌だ……!嫌だよぉ……!」
これは不慮の事故なのだろうか?実際その後、工事を担当していた現場責任者たちは業務上過失致死罪に問われ、会社側は『不注意で起きてしまったことに間違いない』と責任を認めている。だが現場にいた作業員は不思議に思っていた。鉄筋を吊るす前に、きちんとワイヤーの強度に問題がないことを数人でチェックしていた。だが、本当は氷川正信によって仕組まれていたことが明かされることはなかった……
美咲の死から幸人と凪は、『父親』という悪魔に怯えながら生きていった。幸いにも凪は可愛がられていたため、魔の手が忍び寄ることはなかったのだが、幸人には休まる場所がなかった。誰かと友達になったら、友達が殺されてしまうかもしれない。母も味方にはなってくれたものの、やはり旦那の前では無力。それでも彼は凪と母のことが好きだった。幸人と凪を守る母だったが、遂に身も心も限界を迎えてしまう。
2011年9月12日。東京都港区のライブ会場『TOKYO CELESTIA HALL』ではAurora Kissのライブが行われていた。だが千尋は、夫から受ける精神的苦痛によって完全に痩せ細り、栄養失調でまともに動けない状態だった。今年中に解散が決まっているAurora Kissのメンバーは、千尋を含めて3人。抜けたメンバーもいたが、残った3人で頑張ってきた。そして——
ワー……!
「北風にKissして あなたへ届け〜」
声は出ている。このまま歌い切りたい。だがこの後に続く曲、数時間のライブは身体に堪える。
「もう一度あなたと 笑いた……い……うぅ……!」
ガタンッ……!
「雪より眩しい〜……千尋?どうしたの千尋!?」
「はぁ……はぁ……!」
バタンッ……
「千尋ー……!?」
千尋は1曲歌い切る前に倒れ込んでしまった。原因は栄養失調とうつ病だった。予定されていた解散ライブを迎える前の出来事だった。結局この日のライブは千尋抜きに行われることになった。後日、彼女は北海道に帰らず港区の病院で入院。退院しても体調が回復することはなく、仕事にも行けずに貯金も尽きてしまい、そのまま港区でホームレス生活を送ることになった。当初は裸足ではなかったのだが、街に潜むホームレス狩りに遭い、靴を奪われていた。靴を奪われても、幸人と凪の写真が入ったロケットペンダントだけは大事に持っている。命よりも大切なものだから。
2011年9月30日、18時頃。この日、凪は10歳の誕生日を迎えた。母が帰ってこない中、凪は嬉しくない表情で父から『おめでとう』の言葉を受ける。
「さあ今日は誕生日だから、凪の好きなカルボナーラだ……」
「……」
「……」
「どうした?違うのが食べたかったか?おい、お前凪に何か言ったわけじゃないよな?」
「僕は何も……!」
「フン……まあいい……食おうか……?」
凪は見ていた。父が作ったカルボナーラが、湯せんして温めたレトルトのパスタソースだってことを。料理は全てママに任せていたから……だが、凪には見抜けなかったものが一つあった。
「いただきます……」
パクッ……
やはり空腹には勝てなかった。考えても仕方がないと思った幸人と凪はパスタを食べる。しかし——
スパッ……
「……!?痛い……!」
「お兄ちゃん……!?」
幸人の口から大量の血が流れている!まさか吐血したのか?彼は飲み込む前に、口の中に入っていたパスタをシンクに戻した。
カラン……
「何よこれ……?」
何と彼の口から出てきたのはカミソリの刃だったのだ!飲み込む前に、口の中を切って気づいたことが不幸中の幸いだった。
「くそ……そのまま飲み込んでいれば……」
「パパ……何てことするの!?飲んじゃったらお兄ちゃん死んじゃうのよ……!?」
「そうかもな……!全く、中学生になったら男らしくなるかもって、ちょっとは期待してみたが、余計に気持ち悪くなりやがって……」
「何てこと言うのよ……お兄ちゃんは私なんかより全然綺麗よ……!?」
ポトポト……
口の中から血が止まらない。相当深く切ってしまっている……
「どうするお前……おかわりするか?」
彼は確信した。この家にいたら、いや……今殺されてしまうと!
「う……うわぁ~……!!」
ガシャン……!
「お兄ちゃん……!」
彼は何も持たずに家を飛び出した。本当なら凪と一緒に逃げたかった。だが考える余裕もなく、彼ができたのは全力で逃げることだけ。無我夢中で走る彼はどこへ辿り着くのだろうか?
ダッダッダッ……!
「はぁ……!はぁ……!」
19時頃、彼は振り向くことなく走り続けた。かけっこやマラソン大会の比ではないくらい走った。足の爪は剥がれ、血が出ていた。
「ママ……ママ……!助けて……!」
母はどこへ行ってしまったのか?父から何も聞かされず、母からも連絡一つ寄越さない。僕は捨てられたのだろうか?止まることなく走り続ける彼の身体は遂に——
フラ……フラ……
筋肉がパンパンになり、脚はグラグラと揺れている。
「ここは……どこ?」
1時間必死で走り抜いた彼は、札幌を抜けて江別市へ辿り着いていた。9月末になれば日が沈むのが早く、既に街は街灯に照らされていた。すると——
「いやぁ〜……美味かったよ!」
「また来いな!」
BARのような店から男性客が出てきて、マスターらしき女性が見える。
「……!ママ……!?」
あの髪形と身長……間違いない……!ママ……!
「ママ……!?」
ダッダッ……ドテッ……!
「うぅ……!痛い……!」
膝を擦り剥いてズボンに血が滲む。地を這ってでも向かおうとする。
「……?ちょっと大丈夫?血ぃ出てんじゃん……!?」
「ママ……」
「嬢ちゃん……!大丈夫!?傷の手当てしないと……」
「ママ……」
疲れ切った彼は意識を手放した。ようやくママに会えた……
2011年10月1日、午前6時。
「うぅ……?……ここは?ママは……?」
「目が覚めた?」
「ママ……!?あっ……」
「悪いけど私は君のママじゃないわ……私の名前は黒瀬 静香。君は?」
「氷川……幸人です……」
「幸人?女の子と思ったらやっぱり男の子だったのね。おちんちんついているし……」
そういえばパンツが替わっている。恥ずかしながら、おねしょをしてしまったらしい。どうやら静香がパンツを変えてくれたようだ。
「ところで君、どこから来たの?服も汚れていたし……」
「札幌です……」
「マジで?札幌からここまで来たの!?」
「はい……僕は父に……あっ……」
殺されかけているなんて言えなかった。やはり少しでも家族を想う情があったのだろう。彼は咄嗟に——
「父が車に轢かれて、怖くなって逃げたんです……!そしたら、黒瀬さんがいたから……」
「……」
静香は彼が嘘をついていることくらいわかっていた。確かに服は汚れていたが、父親が車に轢かれたのなら、その時間まで一人で逃げているのはおかしい上、口から血を流している。それに父親が誰なのかはある程度目星がついていた。
「幸人君……もしよかったら、私と暮らさない?中学生よね?学校もこっちの近くに転校してさ?」
「黒瀬さんとですか?」
「黒瀬さんは止しな……私のことは静香って呼べばいい。私は幸ちゃんって呼ぼっかな?」
「静香さん……」
黒瀬静香は当時48歳で、BAR『静寂』のマスター。彼女は生涯独身で子どもを育てた経験などなかったが、養育者として幸人を育てることを決意。一人で生き続けた彼女には相当な貯金があった。
氷川幸人と黒瀬静香との生活は幸せそのものだった。中学校こそ転校になったが、気の合う女子生徒とはすぐ仲良くなり、中学卒業後は江別市の高校へ進学。
「さあ召し上がれ!」
「ありがとう!」
毎日、満腹になるまで食事ができる。それでも彼は、凪と母のことを忘れたことはなかった。そのために——
「静香さん……」
「どうした?」
「静香さん……僕……」
「どうしたのよ?お願いがあるなら言ってごらん?」
「……何でもない……」
「そう……?」
やはり言えない……。ある日の夜、喉が渇いて水を飲もうと冷蔵庫へ向かってみると、静香が銃を組み立てたり、ナイフを研いだりする光景を見ていた。驚いて声が出そうになった。彼女は気づいていない様子だったが、留守のときに部屋を探索してみると、静香の若い頃の写真が数枚あり、中には銃を持って仲間たちと並んだ集合写真まで。彼は確信していた。静香さんは優しいだけじゃなく、すごく強い人だと。
「僕……静香さんみたいになりたいと思って……」
「私みたいに?何、BARでもやってみたいの?」
「それもあるんだけど……僕は、静香さんみたいに強くなりたくて……!」
非常に抽象的な言い方だった。何て言われるのだろうか?
「わかっていたわよ……」
「えっ……」
「だってあのとき、見たもんね?」
やはり彼女は気づいていた。彼女は箸を置き——
「私は幸ちゃんと血がつながっているわけじゃないし、親みたいにそんなことやめとけとか言うつもりはない……けど、私は幸ちゃんのお父さんより怖いかもよ?」
このときの彼女の目は非常に鋭くて冷たかった。引き止めようとする意志も伝わってくる。それでも——
「うん……僕は必ず強くなって、凪ちゃんを迎えに行きたいの……!」
「そう……わかった。けど高校だけは卒業しなさい。それは絶対に約束よ?」
「うん……!」
当時高校3年生の彼は、担任の教師には就職希望と言い、就職先は『養母が経営する飲食店で働く』と説明していた。高校を卒業したら男子生徒用の制服を着る必要はない。自分の好きな可愛い服を着られるんだ!私生活の面でも期待に胸を膨らませていた。やがて——
2017年4月3日、10時頃。高校を卒業した幸人は、静香に案内されて施設のような場所に辿り着いた。
「ここよ……」
「ノクターン……?」
施設に入ると『Nocturne』と書かれた旗と、葡萄のような紋章。
「お久しぶりです静香さん……」
「急に悪いわね……早速だけど、この子を育ててほしいの」
「君?静香さんに紹介されたのは」
「氷川幸人です!よろしくお願いします!」
「……面白い子ね?私は針宮 彩海よ。よろしくね」
ノクターンとは女性のみで構成された暗殺者組織。当時既に組織の解散が決まっていたのだが、静香に推薦された幸人を最後の弟子にすると決めて解散を延期したのだ。彼の場合戸籍上は男性だが、女性らしい生き方を貫く幸人に惚れた静香が特例で弟子に認めたのだった。
「いくわよ……まずは近接戦闘、ボクシングのように脇を締めて、楽に打つ……」
「はい……!」
彼は18歳で暗殺者としての訓練を受け始めた。ときには力とスピードに追いつけず、身も心も限界になったこともある。19歳の頃には海外の危険地域で人質救出作戦、20歳には政治家を暗殺する単独任務も経験。厳しい実戦を次々とこなしていった。戦場の中で、彼の眠っていた才能が開花していく。それは『暗殺』の技術だった。
2020年8月3日。22歳の誕生日を迎えた幸人はノクターンを脱退。組織も最後の弟子がいなくなったことで解散した。彼が第二の人生に選んだもの。それは——
「幸ちゃんおめでとう!」
「ありがとう!全部静香さんのおかげよ!」
静香はこのとき57歳。まるで我が子の成功のように喜んでいる。2人がいるのは札幌の飲み屋街。
「でも札幌でよかったの?」
「うん!もう凪ちゃんを、迎えに行く必要もなくなっちゃったし……」
凪は中学を卒業してから、家を逃げるように出て室蘭市に移住し、高校に通いながらアイドル養成所に行っていた。彼女は特待生であったため授業料は無料だったが、アイドルとして活動するためにアルバイトをかけ持ちしながら頑張っていた。暗殺任務で得た報酬の半分を凪に仕送りしたことは、実は内緒だ。
「あの子アイドルだもんね?幸ちゃんの妹なんだから、きっと誰よりも強いわ!ところで、BARの名前決めたの?」
「決めたわ。零度よ!炭酸って冷たい方が美味しいでしょ?それに僕もゼロからスタートしたいから」
「いいじゃない!零度、カッコ可愛いわ!」
22歳の誕生日にBARを開業。彼は炭酸水を『ソーダ水』と呼んでいる。零度は、炭酸のお酒を提供する専門店。ドン底だった氷川幸人の人生が生まれ変わった瞬間だ!
ノクターン脱退後も暗殺の依頼が舞い込んでくることはあった。彼はバーテンダーとして、暗殺者として。表社会でも裏社会でも名を馳せる男の娘となった。零度には様々な問題を抱えた人が訪れることもある。そんなとき彼が言う台詞がこれだ。
カランカラン……
「いらっしゃい……今日は何を忘れたいの?」