HELLO! マイ・ロスト・シーズン
元カレが今でも、ずっと好きでした。
第1章:クローゼットの奥の温度
そのクローゼットの右端には、触れてはいけない「季節」が眠っている。
冴島凛(さえじまりん)は、小さく息を吸ってから、一番奥に押し込まれた紙袋を取り出した。中に入っているのは、くたびれたグレーのパーカーと、三〇〇〇円もしないチープなシルバーのペアリング。そして、二年前の日付が印刷された映画の半券。
どれもこれも、五島亮太(ごとうりょうた)の匂いが染みついた遺物だ。
「……バカみたい」
呟いた声は、狭いワンルームの天井に虚しく吸い込まれていった。
別れてから、もう二年。季節は何度も巡り、街の景色も変わった。それなのに、私の時間だけが、亮太と手を繋いで歩いたあの秋の日のまま凍りついている。
スマートフォンが震えた。親友の花(はな)からのメッセージだ。
『今週末、いつものカフェで。話聞くよ!』
凛は少しだけ胸を痛めながら、『うん、楽しみにしてる』と返信した。
週末。お気に入りのカフェで、花は運ばれてきたカフェラテをストローでかき混ぜながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「で? 最近どうなの、凛。あの『気になる人』とは進展あった?」
胸の奥がチクリと痛む。
「う、うん……。まあ、ぼちぼちかな。向こうも忙しいみたいだし」
「ふーん。凛ってば、その人のことになると急に奥手になるよね。名前も教えてくれないし」
嘘をつくのは苦しい。けれど、「気になる人」の正体が、二年も前に振られた元カレの亮太だなんて、口が裂けても言えなかった。
「未だに元カレを引きずっている執着まみれの女」
そんなレッテルを貼られるのが怖かった。花の優しさに甘えて、これ以上幻滅されたくなかったのだ。
「焦らなくていいけどさ」
花は窓の外に目を向け、ぽつりと言った。その瞳は、どこか見透かすように静かだった。
「凛がちゃんと、前に進めるといいなって、私はいつも思ってるよ」
その言葉の本当の意味に、この時の凛はまだ気づいていなかった。
第2章:花のファインダー
私は、凛のことが大好きだ。
不器用で、傷つきやすくて、そのくせ変なところで頑固な私の大切な友達。
だからこそ、凛が目の前でつく「嘘」が、見ていてたまらなく痛かった。
凛が言う『気になる人』が、五島亮太であることなんて、最初から気づいている。だって、凛がスマホを見つめて悲しそうに微笑むとき、その画面の端に映っているのはいつも、亮太のLINEのアイコンなのだから。
私はある日、大学のサークル仲間を通じて、偶然亮太と飲む機会があった。
お酒が進む中、私は探るように、ごく自然を装って凛の話題を出してみた。
「そういえば亮太くん、凛とは最近連絡とったりしてるの?」
亮太はジョッキを持ったまま、なんのてらいもない、眩しいほどの笑顔で答えた。
「あー、冴島? いや、全然。あいつどうしてる? 元気にしてんなら良かったわ。懐かしいな、サークル楽しかったよな」
心臓が冷たくなるのを感じた。
亮太の言葉には、敵意も、気まずさも、そして未練も、一滴すら含まれていなかった。
彼にとって「冴島凛」という存在は、押し入れの奥に片付けた「昔のアルバム」のようなものなのだ。たまに思い出して懐かしむことはあっても、今の彼の人生には、一ミリの影響も与えていない。完全に終わった過去。
それなのに、凛はまだ、あの頃の温度を信じて凍えている。
「凛……」
カフェの帰り道、隣を歩く凛の横顔を見る。
亮太はもう、前を向いて走っている。凛がどれだけ過去のクローゼットを抱きしめていても、その温もりはもう、どこにも存在しない。
それを伝えることが、どれほど残酷か。けれど、伝えないまま彼女の二十代が、失われた季節(ロスト・シーズン)の中に埋もれていくのを、私はただ黙って見ていることなんてできなかった。
第3章:偶然の、冷たい雨
神様の悪戯というのは、往々にして最悪なタイミングで起こる。
金曜日の夕暮れ。突然降り出した雨を避けるように逃げ込んだ駅ビルのエントランスで、凛は「その声」を聞いた。
「うわ、めっちゃ降ってきたな」
聞き間違えるはずがない。低くて、少し鼻にかかった、大好きだった声。
ゆっくりと振り返ると、濡れた髪を払いながら、傘をたたんでいる亮太の姿があった。
「――亮太」
声が震えた。亮太が驚いたように目を見開く。けれど、次の瞬間、彼の表情に浮かんだのは、あまりにも屈託のない、人懐っこい笑顔だった。
「お、冴島! 久しぶりじゃん! 何年ぶり? 元気にしてた?」
そのトーンに、凛の全身から血の気が引いていくのが分かった。
もしも彼の中に、ほんの少しでも私への気まずさや、付き合っていた頃の特別な感情が残っているのなら、こんなに「友達」としてフラットに話しかけられるはずがない。
「うん……元気、だよ。亮太も、元気そうだね」
「おう。あ、そういえばサークルの奴らと今度飲むんだけどさ、冴島も来なよ。連絡先、変わってない?」
亮太のスマホが光る。そこには、凛が毎日のように眺めていたアイコンがあった。
目の前にいる亮太は、昔と何も変わらない。けれど、私を見つめるその瞳の中に、「恋人としての私」はもうどこにも映っていない。
「……ごめん、最近忙しくて」
「そっか。じゃあ、またタイミング合う時にな! 風邪ひくなよ」
そう言って、亮太は軽く手を振って雨の中へ去っていった。
凛は立ち尽くした。傘を持たない体は濡れていないはずなのに、芯から凍えるように寒かった。彼にとって私は、ただの「懐かしい知り合い」に成り下がっていた。その現実が、冷たい雨のように心に突き刺さった。
第4章:境界線を踏み越える
ガシャーン、と激しい音がして、グラスの水がテーブルにこぼれた。
「……もう、亮太くんのことはやめなよ」
ファミレスの席で、花が真っ直ぐに凛を見つめていた。その手は少し震えている。
凛は慌てておしぼりで水を拭き取りながら、乾いた笑いを浮かべた。
「え? 何言ってるの花。私、気になる人がいるって言ったじゃん。亮太はただの元カレで――」
「凛!」
花の強い声が、凛の言葉を遮った。
「その『気になる人』のイニシャルも、誕生日も、亮太くんと同じでしょ? スマホの画面、見えてるよ。亮太くんと行った映画の半券、今でも財布に入れてるでしょ」
凛の動きがピタリと止まる。心臓が痛いほど脈打つ。
「なんで……」
「友達だから。ずっと見てきたから」
花は凛の手をぎゅっと握りしめた。その温かさが、かえって痛かった。
「あいつはね、もう前を向いてる。凛が傷つくだけだよ。これ以上、自分をいじめないで。新しい季節に進もうよ、凛」
「やめて……!」
凛の目から、堰を切ったように涙があふれ出た。
「わかってる……わかってるよ! 亮太が私のことなんて何とも思ってないことくらい、再会したときにはっきりわかった! でも、好きなの。忘れられないの。どうやって前に進めばいいのか、わからないの……!」
泣きじゃくる凛を、花は何も言わずに抱きしめた。
その温もりの中で、凛は静かに悟った。
私の季節は、私の手で終わらせるしかない。亮太に嫌われるのが怖くて、思い出の中に逃げ込んでいたけれど、この「ロスト・シーズン(失われた季節)」に、自分自身で決着をつける時が来たのだ。
第5章:さよなら、私のいちばん好きな人
日曜日。かつて二人が何度も待ち合わせた、夕日の見える公園のベンチ。
呼び出しに応じた亮太は、少し不思議そうな顔をして歩いてきた。
「冴島、急にどうした? 改まって連絡してくるから驚いたよ」
凛は深く息を吸い込み、亮太の目を真っ直ぐに見つめた。もう、嘘の仮面はいらない。
「亮太。私、あなたに言わなきゃいけないことがあるの」
「え?」
「私、二年前、亮太と別れてから……ずっと、亮太のことが大好きだった。今でも、亮太のことが好きなの」
夕日が、二人の影を長く地面に引き延ばす。
亮太の表情から笑みが消え、静かな驚きと、そして困惑が広がっていくのが分かった。
彼は少しの間沈黙し、それから、とても申し訳なさそうに、けれど誤魔化すことなく、真っ直ぐに答えた。
「……ごめん、冴島。俺はもう、冴島とは付き合えない」
冷酷なまでに誠実な拒絶だった。
「冴島の気持ちは嬉しい。でも、俺にとって冴島は、もう大切な過去なんだ。今は新しい生活があって、別の人を――」
「うん。わかってる。ありがとう」
凛は遮るように、でも、人生で一番綺麗な笑顔を作って微笑んだ。
不思議だった。胸は引き裂かれるように痛いのに、それと同時に、驚くほど澄み渡った解放感が、心の中に広がっていくのを感じていた。
「もういいの。私の気持ちに、返事をしてほしかっただけだから。ちゃんと振ってくれて、ありがとう」
「冴島……」
「バイバイ、亮太。元気でね」
凛は振り返らずに歩き出した。
歩くたびに、目から涙がボロボロとこぼれて、止まらなくなった。けれど、足取りは不思議と軽かった。もう、あの冷たいクローゼットの奥を覗き込む必要はない。もう、期待して傷つくこともない。私の季節が、今、カチリと音を立てて動き出した。
駅の改札口。
滲む視界の先、改札の向こう側で、花が立っていた。
凛の涙顔を見た花は、すべてを察したように、ただ優しく微笑んで両手を広げた。
凛は駆け寄り、花の胸に飛び込んだ。
「花、私、ちゃんとフラれてきたよ……!」
「うん。がんばったね、凛。本当にかっこよかった」
花の温かい手が、凛の凍えた背中を何度もさする。
夕闇が街を包み込み、冷たい夜風が吹く。けれど、凛の心には、もう次の春の気配が満ちていた。
心の中で、今度こそ本当に、愛しくて切なかった過去へ手を振る。
(バイバイ、私のいちばん好きだった人)
そして、涙を拭って、一歩を踏み出す。
(新しい私の季節に、ハロー)
そのクローゼットの右端には、触れてはいけない「季節」が眠っている。
冴島凛(さえじまりん)は、小さく息を吸ってから、一番奥に押し込まれた紙袋を取り出した。中に入っているのは、くたびれたグレーのパーカーと、三〇〇〇円もしないチープなシルバーのペアリング。そして、二年前の日付が印刷された映画の半券。
どれもこれも、五島亮太(ごとうりょうた)の匂いが染みついた遺物だ。
「……バカみたい」
呟いた声は、狭いワンルームの天井に虚しく吸い込まれていった。
別れてから、もう二年。季節は何度も巡り、街の景色も変わった。それなのに、私の時間だけが、亮太と手を繋いで歩いたあの秋の日のまま凍りついている。
スマートフォンが震えた。親友の花(はな)からのメッセージだ。
『今週末、いつものカフェで。話聞くよ!』
凛は少しだけ胸を痛めながら、『うん、楽しみにしてる』と返信した。
週末。お気に入りのカフェで、花は運ばれてきたカフェラテをストローでかき混ぜながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「で? 最近どうなの、凛。あの『気になる人』とは進展あった?」
胸の奥がチクリと痛む。
「う、うん……。まあ、ぼちぼちかな。向こうも忙しいみたいだし」
「ふーん。凛ってば、その人のことになると急に奥手になるよね。名前も教えてくれないし」
嘘をつくのは苦しい。けれど、「気になる人」の正体が、二年も前に振られた元カレの亮太だなんて、口が裂けても言えなかった。
「未だに元カレを引きずっている執着まみれの女」
そんなレッテルを貼られるのが怖かった。花の優しさに甘えて、これ以上幻滅されたくなかったのだ。
「焦らなくていいけどさ」
花は窓の外に目を向け、ぽつりと言った。その瞳は、どこか見透かすように静かだった。
「凛がちゃんと、前に進めるといいなって、私はいつも思ってるよ」
その言葉の本当の意味に、この時の凛はまだ気づいていなかった。
第2章:花のファインダー
私は、凛のことが大好きだ。
不器用で、傷つきやすくて、そのくせ変なところで頑固な私の大切な友達。
だからこそ、凛が目の前でつく「嘘」が、見ていてたまらなく痛かった。
凛が言う『気になる人』が、五島亮太であることなんて、最初から気づいている。だって、凛がスマホを見つめて悲しそうに微笑むとき、その画面の端に映っているのはいつも、亮太のLINEのアイコンなのだから。
私はある日、大学のサークル仲間を通じて、偶然亮太と飲む機会があった。
お酒が進む中、私は探るように、ごく自然を装って凛の話題を出してみた。
「そういえば亮太くん、凛とは最近連絡とったりしてるの?」
亮太はジョッキを持ったまま、なんのてらいもない、眩しいほどの笑顔で答えた。
「あー、冴島? いや、全然。あいつどうしてる? 元気にしてんなら良かったわ。懐かしいな、サークル楽しかったよな」
心臓が冷たくなるのを感じた。
亮太の言葉には、敵意も、気まずさも、そして未練も、一滴すら含まれていなかった。
彼にとって「冴島凛」という存在は、押し入れの奥に片付けた「昔のアルバム」のようなものなのだ。たまに思い出して懐かしむことはあっても、今の彼の人生には、一ミリの影響も与えていない。完全に終わった過去。
それなのに、凛はまだ、あの頃の温度を信じて凍えている。
「凛……」
カフェの帰り道、隣を歩く凛の横顔を見る。
亮太はもう、前を向いて走っている。凛がどれだけ過去のクローゼットを抱きしめていても、その温もりはもう、どこにも存在しない。
それを伝えることが、どれほど残酷か。けれど、伝えないまま彼女の二十代が、失われた季節(ロスト・シーズン)の中に埋もれていくのを、私はただ黙って見ていることなんてできなかった。
第3章:偶然の、冷たい雨
神様の悪戯というのは、往々にして最悪なタイミングで起こる。
金曜日の夕暮れ。突然降り出した雨を避けるように逃げ込んだ駅ビルのエントランスで、凛は「その声」を聞いた。
「うわ、めっちゃ降ってきたな」
聞き間違えるはずがない。低くて、少し鼻にかかった、大好きだった声。
ゆっくりと振り返ると、濡れた髪を払いながら、傘をたたんでいる亮太の姿があった。
「――亮太」
声が震えた。亮太が驚いたように目を見開く。けれど、次の瞬間、彼の表情に浮かんだのは、あまりにも屈託のない、人懐っこい笑顔だった。
「お、冴島! 久しぶりじゃん! 何年ぶり? 元気にしてた?」
そのトーンに、凛の全身から血の気が引いていくのが分かった。
もしも彼の中に、ほんの少しでも私への気まずさや、付き合っていた頃の特別な感情が残っているのなら、こんなに「友達」としてフラットに話しかけられるはずがない。
「うん……元気、だよ。亮太も、元気そうだね」
「おう。あ、そういえばサークルの奴らと今度飲むんだけどさ、冴島も来なよ。連絡先、変わってない?」
亮太のスマホが光る。そこには、凛が毎日のように眺めていたアイコンがあった。
目の前にいる亮太は、昔と何も変わらない。けれど、私を見つめるその瞳の中に、「恋人としての私」はもうどこにも映っていない。
「……ごめん、最近忙しくて」
「そっか。じゃあ、またタイミング合う時にな! 風邪ひくなよ」
そう言って、亮太は軽く手を振って雨の中へ去っていった。
凛は立ち尽くした。傘を持たない体は濡れていないはずなのに、芯から凍えるように寒かった。彼にとって私は、ただの「懐かしい知り合い」に成り下がっていた。その現実が、冷たい雨のように心に突き刺さった。
第4章:境界線を踏み越える
ガシャーン、と激しい音がして、グラスの水がテーブルにこぼれた。
「……もう、亮太くんのことはやめなよ」
ファミレスの席で、花が真っ直ぐに凛を見つめていた。その手は少し震えている。
凛は慌てておしぼりで水を拭き取りながら、乾いた笑いを浮かべた。
「え? 何言ってるの花。私、気になる人がいるって言ったじゃん。亮太はただの元カレで――」
「凛!」
花の強い声が、凛の言葉を遮った。
「その『気になる人』のイニシャルも、誕生日も、亮太くんと同じでしょ? スマホの画面、見えてるよ。亮太くんと行った映画の半券、今でも財布に入れてるでしょ」
凛の動きがピタリと止まる。心臓が痛いほど脈打つ。
「なんで……」
「友達だから。ずっと見てきたから」
花は凛の手をぎゅっと握りしめた。その温かさが、かえって痛かった。
「あいつはね、もう前を向いてる。凛が傷つくだけだよ。これ以上、自分をいじめないで。新しい季節に進もうよ、凛」
「やめて……!」
凛の目から、堰を切ったように涙があふれ出た。
「わかってる……わかってるよ! 亮太が私のことなんて何とも思ってないことくらい、再会したときにはっきりわかった! でも、好きなの。忘れられないの。どうやって前に進めばいいのか、わからないの……!」
泣きじゃくる凛を、花は何も言わずに抱きしめた。
その温もりの中で、凛は静かに悟った。
私の季節は、私の手で終わらせるしかない。亮太に嫌われるのが怖くて、思い出の中に逃げ込んでいたけれど、この「ロスト・シーズン(失われた季節)」に、自分自身で決着をつける時が来たのだ。
第5章:さよなら、私のいちばん好きな人
日曜日。かつて二人が何度も待ち合わせた、夕日の見える公園のベンチ。
呼び出しに応じた亮太は、少し不思議そうな顔をして歩いてきた。
「冴島、急にどうした? 改まって連絡してくるから驚いたよ」
凛は深く息を吸い込み、亮太の目を真っ直ぐに見つめた。もう、嘘の仮面はいらない。
「亮太。私、あなたに言わなきゃいけないことがあるの」
「え?」
「私、二年前、亮太と別れてから……ずっと、亮太のことが大好きだった。今でも、亮太のことが好きなの」
夕日が、二人の影を長く地面に引き延ばす。
亮太の表情から笑みが消え、静かな驚きと、そして困惑が広がっていくのが分かった。
彼は少しの間沈黙し、それから、とても申し訳なさそうに、けれど誤魔化すことなく、真っ直ぐに答えた。
「……ごめん、冴島。俺はもう、冴島とは付き合えない」
冷酷なまでに誠実な拒絶だった。
「冴島の気持ちは嬉しい。でも、俺にとって冴島は、もう大切な過去なんだ。今は新しい生活があって、別の人を――」
「うん。わかってる。ありがとう」
凛は遮るように、でも、人生で一番綺麗な笑顔を作って微笑んだ。
不思議だった。胸は引き裂かれるように痛いのに、それと同時に、驚くほど澄み渡った解放感が、心の中に広がっていくのを感じていた。
「もういいの。私の気持ちに、返事をしてほしかっただけだから。ちゃんと振ってくれて、ありがとう」
「冴島……」
「バイバイ、亮太。元気でね」
凛は振り返らずに歩き出した。
歩くたびに、目から涙がボロボロとこぼれて、止まらなくなった。けれど、足取りは不思議と軽かった。もう、あの冷たいクローゼットの奥を覗き込む必要はない。もう、期待して傷つくこともない。私の季節が、今、カチリと音を立てて動き出した。
駅の改札口。
滲む視界の先、改札の向こう側で、花が立っていた。
凛の涙顔を見た花は、すべてを察したように、ただ優しく微笑んで両手を広げた。
凛は駆け寄り、花の胸に飛び込んだ。
「花、私、ちゃんとフラれてきたよ……!」
「うん。がんばったね、凛。本当にかっこよかった」
花の温かい手が、凛の凍えた背中を何度もさする。
夕闇が街を包み込み、冷たい夜風が吹く。けれど、凛の心には、もう次の春の気配が満ちていた。
心の中で、今度こそ本当に、愛しくて切なかった過去へ手を振る。
(バイバイ、私のいちばん好きだった人)
そして、涙を拭って、一歩を踏み出す。
(新しい私の季節に、ハロー)