光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第15話 帰れない部屋

タクシーの中で、美月はほとんど話せなかった。

窓の外を流れる街の灯りを見ているのに、何も頭に入ってこない。

火事。
同じフロア。
煙。
水濡れ。
今夜は入れない可能性。

管理会社の担当者が言った言葉だけが、何度も頭の中で繰り返される。

理久は隣で、必要以上に話しかけてこなかった。

ただ、運転手に行き先を伝え、美月のマンションへ向かう道を確認し、それから静かに座っている。

さっきまで、光の中にいた。

綺麗だった。
楽しかった。
少しだけ、素直になってしまった。

それなのに、今はもう、現実のことしか考えられない。

いや。

考えなければいけないことが多すぎて、何も考えられなかった。

「綾瀬さん」

理久の声で、美月は顔を上げた。

「着いたよ」

マンションの前には、まだ人が集まっていた。

消防車は何台か撤収していたが、赤い光の名残と、ざわついた空気が残っている。

住人らしき人たちが、建物の前で不安そうに話していた。

焦げたような匂い。
濡れた床の匂い。
どこか湿った空気。

美月はタクシーを降りた瞬間、足元が少し頼りなくなった。

自分の住んでいる場所なのに、まるで知らない場所みたいだった。

管理会社の担当者が、美月の名前を確認して近づいてくる。

「綾瀬様ですね」

「はい」

説明は、淡々としていた。

火元は同じフロアの別室。
美月の部屋が燃えたわけではない。
けれど、廊下から煙が入り、消火活動の影響で水も入っている。
安全確認と清掃、修繕が必要になるため、今夜は泊まれない。

美月は頷いた。

頷いているつもりだった。

でも、言葉がうまく自分の中に入ってこない。

「室内を確認されますか」

そう聞かれて、ようやく美月は顔を上げた。

「……はい」

理久はすぐには動かなかった。

ただ、美月の横で一度だけ管理会社の担当者に視線を向け、それから静かに言った。

「俺はここで待ってる。必要だったら呼んで」

美月は少し遅れて頷いた。

「……分かりました」

そう答えて、美月は一人で部屋へ向かった。

* * *

部屋のドアを開けた瞬間、美月は息を止めた。

燃えたわけではない。

けれど、そこは朝出てきた時の部屋ではなかった。

煙の臭いが残っている。
床の一部が湿っている。
壁際には水の跡があり、いくつかの荷物には養生がかけられていた。

ベッドも、布類も、すぐに使える状態ではない。

いつもの部屋なのに、いつもの部屋ではない。

洗面台に置いたスキンケア。
椅子にかけた部屋着。
読みかけの本。
明日着るつもりだった服。

朝には何でもなかったものが、急に遠く感じた。

美月は、ただ立ち尽くした。

「綾瀬さん」

後ろから理久の声がした。

玄関の外だった。

「大丈夫?」

美月は返事をしようとした。

大丈夫です。

そう言えばよかった。

いつものように。

でも、声が出なかった。

数秒の沈黙のあと、理久がもう一度言った。

「入ってもいい?」

美月は少し遅れて振り向いた。

理久は、勝手に入ってくるつもりはないように、玄関の外で待っていた。

それが分かったから、美月は小さく頷いた。

「……はい」

「分かった」

理久は靴を脱ぎ、濡れていない場所を選んで部屋に入った。

けれど、必要以上に周囲を見回さなかった。

そのことが分かったから、美月は少しだけ息ができた。

「今夜必要なものだけ取ろう」

理久が静かに言った。

「全部考えなくていい。今夜と明日のことだけ」

今夜。
明日。

まずは、そこだけ。

その言葉で、止まっていた頭が少しずつ動き始めた。

財布。
身分証。
スマホの充電器。
明日の勤務に必要なもの。
最低限の着替え。

理久は勝手に引き出しを開けなかった。

触れる前に必ず確認し、必要なものだけを取り、美月の前に置いていく。

「これは持っていく?」

「……はい」

「これは?」

「大丈夫です」

短いやり取りを繰り返しているうちに、バッグの中身が少しずつ整っていった。

全部を元通りにすることはできない。

でも、今夜を越える準備だけはできていく。

管理会社の担当者が、廊下から声をかけた。

「綾瀬様、明日以降の立ち入りについてですが」

美月は顔を上げた。

返事をしなければ。

聞かなければ。

そう思うのに、すぐに言葉が出なかった。

理久が、美月を見た。

「聞いてもいい?」

美月は少し遅れて頷いた。

「……はい」

理久は管理会社の担当者へ向き直り、必要なことだけを短く確認していった。

明日以降、いつ立ち入りできるのか。
荷物の搬出はどうするのか。
保険会社への連絡はどこにすればいいのか。

美月はそれを横で聞きながら、自分がほとんど何も言えていないことに気づいた。

いつもなら、自分で聞ける。

必要なことを整理して、優先順位をつけて、次の行動を決められる。

仕事では、そうしている。

患者の急変でも。
家族対応でも。
退院調整でも。

なのに、自分のことになると、こんなにも動けない。

そのことが、少し悔しかった。

でも今は、悔しさよりも疲れの方が大きかった。

* * *

最低限の荷物をまとめ終える頃には、部屋の中にいるだけで息苦しくなっていた。

煙の匂いが、髪や服に染みついている気がする。

美月はバッグを抱え、玄関の前で立ち止まった。

朝、ここから普通に仕事へ向かった。

それなのに、今はもう、この部屋に戻れない。

そんなことが、本当にあるのかと思った。

理久が荷物の一つを持つ。

「出よう」

美月は小さく頷いた。

「……はい」

マンションの外に出ると、夜の空気がやけに冷たく感じた。

管理会社の担当者にもう一度頭を下げ、明日以降の連絡先を確認する。

それだけで、もう十分疲れていた。

美月はスマホを取り出した。

ホテルを探さなければならない。

そう思って画面を開いたのに、検索欄を前にして指が止まった。

場所。
金額。
空室。
チェックイン時間。
明日の出勤。

どれも大事なのに、どれも選べない。

画面の文字が、うまく頭に入ってこなかった。

「綾瀬さん」

理久が静かに呼んだ。

美月はスマホを見たまま答えた。

「大丈夫です。ホテルを探します」

「うん」

理久は否定しなかった。

「一緒に探す。今から入れるところを探して、そこまで送る」

「……大丈夫です」

そう言ったのに、指は動かなかった。

数秒の沈黙が落ちる。

理久は急かさなかった。

ただ、美月の手元を一度だけ見て、それから静かに言った。

「ホテルでもいい」

美月は顔を上げた。

「それか、俺の家でもいい」

息が止まった。

理久はすぐに続ける。

「ゲストルームがある。俺は別室にいる。鍵も渡す」

「でも」

「変な意味じゃない」

理久の声は、低くて落ち着いていた。

「今から取れるホテルよりは、落ち着けると思う。病院にも近いし、明日の勤務にも間に合う」

正論だった。

あまりにも、正論だった。

けれど、それを受け入れるには、意味が大きすぎる。

藤崎理久の家に行く。

雨宿りとは違う。
寝落ちしただけとは違う。

今度は、自分の意思で、彼の家に行くことになる。

美月はスマホを握ったまま、何も言えなかった。

理久は少しだけ声をやわらげた。

「嫌なら、今の話はなしでいい」

「……」

「ホテルを探そう。俺も一緒に見る」

美月は画面に視線を戻した。

でも、やっぱり文字が頭に入ってこない。

探さなければいけない。
決めなければいけない。

そう思うほど、何も選べなくなる。

理久は、美月の答えを待っていた。

押さない。
でも、離れない。

その距離が、今は少しだけありがたかった。

「綾瀬さん」

理久が言った。

「今夜、全部決めなくていい」

美月は顔を上げた。

「今日の分だけでいい。明日のことは、明日考えればいい」

その言葉で、美月の中の何かが少しだけほどけた。

今夜、全部決めなくていい。

そう言われたことで、ようやく息が吸えた。

理久は、美月の目を見て言った。

「俺の家、来る?」

それは誘いではなかった。

口説き文句でもなかった。

今の美月が、ちゃんと休める場所を差し出す声だった。

だから余計に、断り方が分からなかった。
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