光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第14話 時間をちょうだい
タクシーのお釣りを返すだけのはずだった。
美月は、何度もそう思った。
先日の飲み会の帰り、理久が勝手に払ったタクシー代。
そのお釣りを返すために連絡をしただけなのに、送られてきた待ち合わせ場所は、都心の新しい複合施設にあるカフェだった。
高い天井。
大きな窓。
整いすぎている照明。
窓際の席で、藤崎理久は文庫本を読んでいた。
白衣ではない。
黒に近いジャケットに、明るい色のインナー。
手元には本。
テーブルには、飲みかけのコーヒー。
その姿があまりにも自然で、美月は一瞬だけ足を止めた。

この人は、どこにいても絵になる。
それがまた腹立たしい。
美月が近づくと、理久は顔を上げた。
「来た」
「来ました。これを返すために」
美月は席に着く前に、小さな封筒を差し出した。
中には、先日のタクシー代のお釣りが入っている。
理久は封筒を受け取った。
「律儀」
「当然です」
「ありがとう」
その言い方が変に素直で、美月は少しだけ返事に困った。
「……それに、この前のお礼も、まだできていませんし」
理久は封筒を指先で軽く押さえたまま、美月を見た。
「普通のお店で、って言ってたやつ?」
「はい」
「それは、いったん保留でいい」
美月は眉を寄せた。
「保留?」
「うん」
理久は本を閉じた。
「代わりに、少し時間をちょうだい」
「時間?」
「近くに、行きたい場所がある」
「それを今言うんですか」
「今言った」
「そういう問題ではありません」
理久はいつもの顔で笑った。
少し悪い。
でも、押しつけているわけではない。
「嫌なら帰っていいよ」
またそれだ。
逃げ道を出しているようで、こちらに選ばせる。
けれど、その顔を見ると、たぶん本当に嫌なら止めてくれるのだろうとも分かる。
それが一番ずるい。
美月は小さく息を吐いた。
「……少しだけです」
理久が目元を緩めた。
「うん。少しだけ」
完全に、また巻き込まれている。
* * *
そうして連れて行かれたのは、光の展示空間だった。
暗い空間の中に、無数の光が満ちている。
足元に広がる色。
壁一面を流れていく光。
天井から降ってくるような、青や白のきらめき。
人はいる。
子どもの声も、誰かの笑い声も聞こえる。
それでも中に入ると、音は少し遠くなって、そこだけ別の場所みたいだった。
美月は入口で、少し立ち止まった。
「……意外です」
隣で理久が言う。
「何が?」
「先生が、こういうところを選ぶことです」
「俺、どういうところ選びそう?」
「高いレストラン」
「偏見」
「実績があります」
理久が少し笑う。
「反論しにくいな」
美月は光の中をゆっくり歩き出した。
床に映る花のような光が、足元で揺れる。
一歩踏み出すたびに、色がほどけるように広がっていく。
白。
青。
淡い紫。
踏むと、消える。
けれど、少し離れた場所でまた咲く。
不思議な感覚だった。
消えても、終わらない。
場所を変えて、また光る。
美月はしばらく、その動きを見つめていた。
理久は隣で、黙って待っていた。
からかわない。
話しかけない。
美月が見ているものを、一緒に見るように立っている。
それが少しだけ、居心地悪い。
でも、嫌ではなかった。
次の空間では、無数の光が雨のように降っていた。
青から白へ。
白から金へ。
また青へ。
人が通るたびに、流れが変わる。
美月は思わず立ち止まる。

「……綺麗」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
けれど、理久は茶化さなかった。
「うん」
ただ、それだけ。
その声が妙に優しくて、美月は光を見るふりをして、隣の理久を見ないようにした。
見たら、少し危ない気がした。
人の流れがある場所では、理久は半歩だけ前に出る。
足元が暗い場所では、少しだけ速度を落とす。
美月が立ち止まれば、急かさずに待つ。
触れない。
でも、見ている。
それがいつもの理久だった。
「そこ、段差ある」
足元を見るより少し早く、理久が言った。
美月は反射的に足を止めた。
「見えていました」
「ほんとに?」
「……今、見えました」
「じゃあ、ぎりぎり」
「揚げ足を取らないでください」
理久が笑う。
美月は段差を越え、また光の中へ進んだ。
しばらくして、鏡のような壁に囲まれた空間へ入る。
青白い光が、どこまでも続いているように見えた。
そこに立つと、自分がどこにいるのか、少し分からなくなる。
美月は息を止めるように、その景色を見つめた。
理久は隣で、黙っていた。
美月が見ているものを、邪魔しない。
けれど、ちゃんとそこにいる。
その距離感が、また厄介だった。
光の中に立つ理久は、いつもより少し遠く見えた。
病棟で王子と呼ばれる理由が、分かってしまいそうになる。
整った横顔。
静かな立ち姿。
余裕のある目元。
でも、美月が知り始めている理久は、それだけではない。
人質みたいにピアスを返した男。
チェスで逃げ道を塞ぐ男。
お礼を次の約束に変える男。
酔うと少しだけ面倒な男。
そして、最後の線は越えない男。
王子なのか、策士なのか、悪役寄りなのか。
最近、本当に分からなくなってきた。
「何?」
不意に理久がこちらを見る。
美月はすぐに視線を逸らした。
「何でもありません」
「見てた」
「見えてしまっただけです」
理久が少し笑う。
「それ、俺のやつ」
「便利なので」
「じゃあ、使用料取ろうかな」
「取りません」
美月は即答した。
理久は楽しそうに笑ったけれど、それ以上は追ってこなかった。
光の音だけが、遠くで揺れていた。
* * *
出口に近い少し明るい場所へ出た頃には、美月は思っていたよりずっと展示を楽しんでいた。
悔しいけれど。
かなり、楽しかった。
「……思っていたより、ずっと良かったです」
理久が目元を緩めた。
「よかった」
「こういう場所、選ぶんですね」
「綾瀬さんが好きそうだったから」
美月は足を止めた。
「私の好み、そんなに分かります?」
理久は少し考えた。
「全部は分からない」
「でしょうね」
「でも、分かりたいとは思ってる」
さらっと言われたのに、逃げ場がなかった。
理久は続けない。
それ以上は押さない。
だから余計に残る。
美月は視線を逸らした。
「……そういうことを言うから、ずるいんです」
理久は笑う。
「今日は、ずるいくらいで済んだ?」
「かなり、です」
「じゃあ進歩」
「進歩ではありません」
「じゃあ、悪化?」
「……分かりません」
言ってから、美月は自分で少し驚いた。
いつもなら、もっと早く線を引いていたはずだった。
違います。
お礼です。
関係ありません。
そうやって、きっぱり。
でも今は、本当に少しだけ分からない。
理久も、その言葉にはすぐに返さなかった。
ただ、静かに美月を見ている。
その目が、いつものからかう目ではなかったから、美月は余計に落ち着かなくなった。
外へ出ると、夜の空気は少しひんやりしていた。
ガラスに灯りが映っている。
人の流れはあるのに、騒がしすぎず、静かすぎもしない。
さっきまで光の中にいたせいか、現実の街灯まで少し違って見えた。
美月はバッグを持ち直した。
「今日は、ありがとうございました」
言ってから、自分で少し驚く。
理久も少しだけ目を細めた。
「素直」
「さすがに、これは素直に言います。綺麗だったので」
「いつもそのくらい素直でいてほしいな」
「それは別問題です」
「戻るの早いね」
「必要な防御です」
理久は楽しそうに笑った。
その時、美月のスマホが鳴った。
表示されたのは、知らない番号だった。
美月は一瞬ためらい、それから通話に出る。
「はい、綾瀬です」
電話の向こうの声は、管理会社の担当者だった。
最初の数秒、美月は、話の意味がうまく掴めなかった。
火事。
同じフロア。
消防。
煙。
消火活動。
水濡れ。
今夜は入れない可能性。
言葉だけが、ばらばらに耳に入ってくる。
美月は、ただ頷くように聞いていた。
「……はい」
「分かりました」
「今から向かいます」
電話を切る。
スマホを下ろしたまま、美月はしばらく動けなかった。
さっきまで、光の中にいた。
綺麗だった。
楽しかった。
少しだけ、素直になってしまった。
それなのに、現実は急に戻ってくる。
理久がすぐに表情を変えた。
「何かあった?」
美月は顔を上げた。
「マンションで、火事があったみたいです」
「部屋?」
「同じフロアの別室らしいです。私の部屋も、煙と水で……」
そこまで言って、自分の声が少し不安定になっていることに気づいた。
理久は、もうさっきまでの顔をしていなかった。
からかうような笑みもない。
王子みたいな余裕のある顔でもない。
仕事中に急変対応へ切り替わる時みたいな、静かな顔だった。
「今から行く?」
美月は小さく頷く。
「……はい」
理久はためらわなかった。
「一緒に行く」
光の余韻は、その一言で現実に切り替わった
美月は、何度もそう思った。
先日の飲み会の帰り、理久が勝手に払ったタクシー代。
そのお釣りを返すために連絡をしただけなのに、送られてきた待ち合わせ場所は、都心の新しい複合施設にあるカフェだった。
高い天井。
大きな窓。
整いすぎている照明。
窓際の席で、藤崎理久は文庫本を読んでいた。
白衣ではない。
黒に近いジャケットに、明るい色のインナー。
手元には本。
テーブルには、飲みかけのコーヒー。
その姿があまりにも自然で、美月は一瞬だけ足を止めた。

この人は、どこにいても絵になる。
それがまた腹立たしい。
美月が近づくと、理久は顔を上げた。
「来た」
「来ました。これを返すために」
美月は席に着く前に、小さな封筒を差し出した。
中には、先日のタクシー代のお釣りが入っている。
理久は封筒を受け取った。
「律儀」
「当然です」
「ありがとう」
その言い方が変に素直で、美月は少しだけ返事に困った。
「……それに、この前のお礼も、まだできていませんし」
理久は封筒を指先で軽く押さえたまま、美月を見た。
「普通のお店で、って言ってたやつ?」
「はい」
「それは、いったん保留でいい」
美月は眉を寄せた。
「保留?」
「うん」
理久は本を閉じた。
「代わりに、少し時間をちょうだい」
「時間?」
「近くに、行きたい場所がある」
「それを今言うんですか」
「今言った」
「そういう問題ではありません」
理久はいつもの顔で笑った。
少し悪い。
でも、押しつけているわけではない。
「嫌なら帰っていいよ」
またそれだ。
逃げ道を出しているようで、こちらに選ばせる。
けれど、その顔を見ると、たぶん本当に嫌なら止めてくれるのだろうとも分かる。
それが一番ずるい。
美月は小さく息を吐いた。
「……少しだけです」
理久が目元を緩めた。
「うん。少しだけ」
完全に、また巻き込まれている。
* * *
そうして連れて行かれたのは、光の展示空間だった。
暗い空間の中に、無数の光が満ちている。
足元に広がる色。
壁一面を流れていく光。
天井から降ってくるような、青や白のきらめき。
人はいる。
子どもの声も、誰かの笑い声も聞こえる。
それでも中に入ると、音は少し遠くなって、そこだけ別の場所みたいだった。
美月は入口で、少し立ち止まった。
「……意外です」
隣で理久が言う。
「何が?」
「先生が、こういうところを選ぶことです」
「俺、どういうところ選びそう?」
「高いレストラン」
「偏見」
「実績があります」
理久が少し笑う。
「反論しにくいな」
美月は光の中をゆっくり歩き出した。
床に映る花のような光が、足元で揺れる。
一歩踏み出すたびに、色がほどけるように広がっていく。
白。
青。
淡い紫。
踏むと、消える。
けれど、少し離れた場所でまた咲く。
不思議な感覚だった。
消えても、終わらない。
場所を変えて、また光る。
美月はしばらく、その動きを見つめていた。
理久は隣で、黙って待っていた。
からかわない。
話しかけない。
美月が見ているものを、一緒に見るように立っている。
それが少しだけ、居心地悪い。
でも、嫌ではなかった。
次の空間では、無数の光が雨のように降っていた。
青から白へ。
白から金へ。
また青へ。
人が通るたびに、流れが変わる。
美月は思わず立ち止まる。

「……綺麗」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
けれど、理久は茶化さなかった。
「うん」
ただ、それだけ。
その声が妙に優しくて、美月は光を見るふりをして、隣の理久を見ないようにした。
見たら、少し危ない気がした。
人の流れがある場所では、理久は半歩だけ前に出る。
足元が暗い場所では、少しだけ速度を落とす。
美月が立ち止まれば、急かさずに待つ。
触れない。
でも、見ている。
それがいつもの理久だった。
「そこ、段差ある」
足元を見るより少し早く、理久が言った。
美月は反射的に足を止めた。
「見えていました」
「ほんとに?」
「……今、見えました」
「じゃあ、ぎりぎり」
「揚げ足を取らないでください」
理久が笑う。
美月は段差を越え、また光の中へ進んだ。
しばらくして、鏡のような壁に囲まれた空間へ入る。
青白い光が、どこまでも続いているように見えた。
そこに立つと、自分がどこにいるのか、少し分からなくなる。
美月は息を止めるように、その景色を見つめた。
理久は隣で、黙っていた。
美月が見ているものを、邪魔しない。
けれど、ちゃんとそこにいる。
その距離感が、また厄介だった。
光の中に立つ理久は、いつもより少し遠く見えた。
病棟で王子と呼ばれる理由が、分かってしまいそうになる。
整った横顔。
静かな立ち姿。
余裕のある目元。
でも、美月が知り始めている理久は、それだけではない。
人質みたいにピアスを返した男。
チェスで逃げ道を塞ぐ男。
お礼を次の約束に変える男。
酔うと少しだけ面倒な男。
そして、最後の線は越えない男。
王子なのか、策士なのか、悪役寄りなのか。
最近、本当に分からなくなってきた。
「何?」
不意に理久がこちらを見る。
美月はすぐに視線を逸らした。
「何でもありません」
「見てた」
「見えてしまっただけです」
理久が少し笑う。
「それ、俺のやつ」
「便利なので」
「じゃあ、使用料取ろうかな」
「取りません」
美月は即答した。
理久は楽しそうに笑ったけれど、それ以上は追ってこなかった。
光の音だけが、遠くで揺れていた。
* * *
出口に近い少し明るい場所へ出た頃には、美月は思っていたよりずっと展示を楽しんでいた。
悔しいけれど。
かなり、楽しかった。
「……思っていたより、ずっと良かったです」
理久が目元を緩めた。
「よかった」
「こういう場所、選ぶんですね」
「綾瀬さんが好きそうだったから」
美月は足を止めた。
「私の好み、そんなに分かります?」
理久は少し考えた。
「全部は分からない」
「でしょうね」
「でも、分かりたいとは思ってる」
さらっと言われたのに、逃げ場がなかった。
理久は続けない。
それ以上は押さない。
だから余計に残る。
美月は視線を逸らした。
「……そういうことを言うから、ずるいんです」
理久は笑う。
「今日は、ずるいくらいで済んだ?」
「かなり、です」
「じゃあ進歩」
「進歩ではありません」
「じゃあ、悪化?」
「……分かりません」
言ってから、美月は自分で少し驚いた。
いつもなら、もっと早く線を引いていたはずだった。
違います。
お礼です。
関係ありません。
そうやって、きっぱり。
でも今は、本当に少しだけ分からない。
理久も、その言葉にはすぐに返さなかった。
ただ、静かに美月を見ている。
その目が、いつものからかう目ではなかったから、美月は余計に落ち着かなくなった。
外へ出ると、夜の空気は少しひんやりしていた。
ガラスに灯りが映っている。
人の流れはあるのに、騒がしすぎず、静かすぎもしない。
さっきまで光の中にいたせいか、現実の街灯まで少し違って見えた。
美月はバッグを持ち直した。
「今日は、ありがとうございました」
言ってから、自分で少し驚く。
理久も少しだけ目を細めた。
「素直」
「さすがに、これは素直に言います。綺麗だったので」
「いつもそのくらい素直でいてほしいな」
「それは別問題です」
「戻るの早いね」
「必要な防御です」
理久は楽しそうに笑った。
その時、美月のスマホが鳴った。
表示されたのは、知らない番号だった。
美月は一瞬ためらい、それから通話に出る。
「はい、綾瀬です」
電話の向こうの声は、管理会社の担当者だった。
最初の数秒、美月は、話の意味がうまく掴めなかった。
火事。
同じフロア。
消防。
煙。
消火活動。
水濡れ。
今夜は入れない可能性。
言葉だけが、ばらばらに耳に入ってくる。
美月は、ただ頷くように聞いていた。
「……はい」
「分かりました」
「今から向かいます」
電話を切る。
スマホを下ろしたまま、美月はしばらく動けなかった。
さっきまで、光の中にいた。
綺麗だった。
楽しかった。
少しだけ、素直になってしまった。
それなのに、現実は急に戻ってくる。
理久がすぐに表情を変えた。
「何かあった?」
美月は顔を上げた。
「マンションで、火事があったみたいです」
「部屋?」
「同じフロアの別室らしいです。私の部屋も、煙と水で……」
そこまで言って、自分の声が少し不安定になっていることに気づいた。
理久は、もうさっきまでの顔をしていなかった。
からかうような笑みもない。
王子みたいな余裕のある顔でもない。
仕事中に急変対応へ切り替わる時みたいな、静かな顔だった。
「今から行く?」
美月は小さく頷く。
「……はい」
理久はためらわなかった。
「一緒に行く」
光の余韻は、その一言で現実に切り替わった