光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第17話 大したことないホテル

翌朝。

美月は、見慣れない天井を見上げていた。

白い天井。
静かな部屋。
整ったベッド。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。

一瞬、どこにいるのか分からなかった。

寝ぼけた頭で、ゆっくりと思い出す。

火事。
煙の匂い。
水濡れ。
修繕。
そして、藤崎理久の部屋。

美月は、ベッドの上で固まった。

……ここ、藤崎先生の家だ。

昨日の夜は、疲れすぎていた。

部屋の被害を見て、管理会社の説明を聞いて、最低限の荷物をまとめて、理久の家に来た。

ゲストルームを使わせてもらった。
水もタオルも用意されていた。
必要なものがあれば言って、と言われた。

「明日のことは、明日考えればいい」

そう言われて、何とか眠った。

眠れないと思っていたのに、気づいたら朝だった。

美月はゆっくり起き上がる。

自分の寝巻き。
すっぴん。
整っていない髪。

この状態で部屋を出たら、藤崎先生がいるかもしれない。

どうする。

おはようございます、でいいのだろうか。

いや、変。

でも、黙って洗面所へ行くのも変。

そもそもここは、他人の家だ。

しかも、ただの他人ではない。
外科の藤崎先生。
病棟では王子と呼ばれている男。
自分の前では、かなり厄介な男。

美月はベッドの上でしばらく固まった。

けれど、時計を見て我に返る。

日勤。

迷っている場合ではない。

美月はそっとドアを開けた。

リビングは静かだった。

誰もいない。

広い窓の向こうに、朝の街が見える。
ダイニングテーブルには、マグカップと、小さなメモと鍵が置かれていた。

美月は近づき、メモを手に取る。

『合鍵です。
戸締まりよろしく。
冷蔵庫は好きに使って。
無理しないで』

その下に、もう一行。

『朝ごはんは冷蔵庫。食べられそうなら』

美月は、しばらくメモを見つめた。

簡潔。
必要なことだけ。

でも、最後にちゃんと「無理しないで」とある。

こういうところだ。

こういうところが、ずるい。

美月は鍵を手に取った。

小さな金属の重みが、妙に現実的だった。

合鍵。

藤崎理久の家の合鍵。

それを自分が持っている。

冷静に考えると、かなりおかしい。

けれど、今はおかしさに立ち止まっている時間がなかった。

美月は洗面所を借り、手早く身支度を整えた。

洗面台には、未開封の歯ブラシとタオルが置かれていた。

必要以上には踏み込まない。
でも、必要になりそうなものは先に置いてある。

距離の取り方が、いちいち上手い。

本当に厄介だ。

冷蔵庫を開けると、ヨーグルトとカットフルーツ、ペットボトルの水が入っていた。

朝食を作る余裕はない。

けれど、何も食べずに出ると、確かに午前中がきつい。

美月は迷った末、ヨーグルトとカットフルーツを取り出した。

「……いただきます」

誰もいないリビングで、小さく呟く。

ヨーグルトの蓋を開け、カットフルーツを少しずつ口に運ぶ。

甘い。

ちゃんと食べられるものを選ばれている。

変な感じだった。

けれど、不思議と嫌ではなかった。

それが少し怖い。

* * *

病院に着くと、日常の音が戻ってきた。

ナースステーションのざわめき。
電子カルテの起動音。
モニターのアラーム。
朝の申し送り。
検査出しの確認。

ここに来ると、美月は自然に看護師の顔になる。

火事のことも、理久の部屋にいることも、いったん頭の奥へ押し込める。

患者の状態。
指示変更。
点滴更新。
検査時間。
後輩の動き。

見るべきものはいくらでもある。

だから、仕事中は大丈夫。

そう思っていた。

昼休憩。

美月は同僚たちと食堂へ行った。

昨日から、火事の件は病棟内でも少し話題になっている。

もちろん、詳細までは話していない。

テーブルで食べていると、後輩が心配そうに聞いてきた。

「綾瀬さん、火事の件、大丈夫でした?」

「うん。部屋自体は燃えてないから」

「でも、住めないんですよね?」

「しばらくはね」

「災難でしたね……。今どこで過ごしてるんですか?」

美月の箸が止まった。

一瞬、間が空く。

正直には言えない。

藤崎先生の家です。

言えるわけがない。

言った瞬間、10A病棟が爆発する。

美月は、できるだけ自然な顔で言った。

「……ホテルだよ」

同僚が少し目を丸くする。

「ホテル?」

「うん。あ、いや、大したことないホテルだよ」

言った瞬間、自分でも分かった。

今の言い方は、かなり不自然だった。

大したことないホテル。

何それ。

でも、もう戻れない。

美月は味噌汁を飲むふりをした。

その時だった。

食堂の通路を、白衣姿の理久が通りかかった。

外科の医師たちと一緒だった。
何かを話しながら、こちらに視線を向けることもなく歩いていく。

聞こえなかった。

そう思いたかった。

けれど、距離は近かった。

そして理久は、何事もなかったように通り過ぎていった。

いつもの藤崎先生の顔で。

職場の中で、余計な反応はしない。

分かっている。

分かっているけれど。

聞かれていたら、終わりだ。

後輩が続ける。

「ホテル暮らしって大変じゃないですか?」

「……まあ、少しね」

「病院から近いんですか?」

「近い……かな」

近い。

かなり近い。

というか、近すぎる。

同僚が言う。

「でも、変なホテルより安心できるところの方がいいですよね」

美月は小さく頷いた。

「……うん。安心は、できる」

言ってから、また少し気まずくなった。

安心はできる。

それは本当だった。

そこが一番困る。

* * *

昼休憩を終えて、病棟へ戻る前。

美月は、食堂を出たところでスマホを確認した。

通知が入っていた。

藤崎理久。

嫌な予感しかしない。

美月は画面を開いた。

『大したことないホテル、快適?』

美月は一瞬でスマホを伏せた。

やっぱり聞いていた。

しかも、そこを拾ってくる。

最低。

少し迷ってから、返信する。

『勤務中です』

すぐに返事が来た。

『便利だね、それ』

美月は小さく息を吐いた。

『必要な言葉です』

『じゃあ、勤務外なら答える?』

美月は、画面を睨んだ。

答えない。

絶対に答えない。

そう思っていたのに、指が勝手に動く。

『大したことはありません』

すぐに返事が来た。

『うち、そこそこ大したことあると思うけど』

腹立つ。

自覚があるのが腹立つ。

『ホテルではありません』

『じゃあ、何?』

美月は返事に困った。

藤崎先生の家。

そう打つのは、何となく嫌だった。

借りている部屋。
それも違う気がする。

避難先。

それが一番正しいのかもしれない。

けれど、そう書くと急に現実味が増してしまう。

結局、美月は短く返した。

『仮住まいです』

少し間が空いた。

『うん。それでいい』

その返事を見て、美月は動きを止めた。

からかわれると思った。

「仮住まいって硬いね」とか。
「ホテルより堅い」とか。

そういう返事が来ると思っていた。

でも、理久はそこでは茶化さなかった。

それでいい。

その一言だけ。

美月はスマホを持ったまま、小さく息を吐いた。

本当に、この人は分からない。
< 17 / 18 >

この作品をシェア

pagetop