光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第18話 廊下の灯り

避難同居が始まってから、数日が経った。

最初に決めた通り、お互いの勤務時間だけは共有した。

理久には、オペ日がある。
外来もある。
当直もある。
急な呼び出しもある。

美月にも、日勤がある。
準夜がある。
深夜がある。

勤務表を見せ合ったわけではない。
ただ、必要な範囲だけ、スマホのメッセージで送る。

『明日、朝から手術日です』
『分かりました』

『今日は準夜です』
『了解。鍵、忘れないで』

その程度。

必要最低限。
業務連絡のようなやり取り。

その方が、美月にはありがたかった。

生活時間帯は、思ったほど重ならなかった。

朝、美月が起きると、理久はもういない。
夜、美月が戻ると、理久はまだ病院にいる。
逆に、理久が帰宅する頃には、美月がゲストルームで眠っていることも多い。

同じ家にいる。

けれど、同じ生活をしているわけではない。

同居というより、静かなシェアハウス。

いや、避難。

あくまで、避難。

美月は何度もそう思い直した。

冷蔵庫は使っていいと言われている。
キッチンも、自由に使っていいと言われている。
洗濯機も、使っていいと言われている。

けれど、美月は基本的に自分の分だけを使った。

食べたものは補充する。
使った場所は元に戻す。
洗濯は、理久のものと重ならない時間にする。
リビングに私物は置きっぱなしにしない。

ここは自分の家ではない。

そう思っていないと、何かを間違えそうだった。

それでも、家はいつも綺麗だった。

水回りは、驚くほど清潔だった。
タオルはいつの間にか新しいものに替わっている。
洗面所には、未開封の歯ブラシや小さなアメニティが補充されていた。

どうやら、週に何度かハウスキーパーが入っているらしい。

ゲストルームのシーツも、ハウスキーパーが入った日にはきれいに整えられていた。

事前に聞いてはいたけれど、他人の家でそこまで整えられていることに、美月はまだ慣れなかった。

ある朝、洗面所に積まれた新しいタオルを見て、思わず手を止める。

……どれだけお金持ちなのだろうか。

藤崎理久。

外科医。
タワーマンションの高層階。
ハウスキーパー。
整いすぎた部屋。
余裕。
清潔。
隙がない。

やっぱり、普通ではない。

普通ではないのに。

その生活圏に入ってみると、意外なほど圧がなかった。

理久は、リビングに私物を置きっぱなしにしない。
美月の部屋のドアには、必要な時以外近づかない。
美月の帰宅時間に合わせて、起きて待っていることもしない。
朝も、無理に顔を合わせようとはしない。

踏み込まない。

でも、放っておかれているわけでもない。

準夜勤を終えて戻ってきた夜、玄関の先の廊下に、小さな灯りが点いていた。



明るすぎない。
眠りを邪魔しない。
けれど、足元はちゃんと見える。

偶然なのか、気遣いなのかは分からない。

ただ、真っ暗な部屋に一人で入らなくていいことに、美月は少しだけ救われた。

その日だけではなかった。

日勤で疲れて戻ってきた夜も。
深夜明けで頭がぼんやりしている朝も。
玄関を開けると、廊下の灯りだけは、いつも小さく点いていた。

理久に聞こうと思ったことはある。

でも、聞けなかった。

聞いてしまえば、それが気遣いだと認めることになる。

気遣いだと分かってしまえば、きっともっと困る。

だから美月は、何も言わずに靴を脱いだ。

「……お邪魔します」

誰もいない玄関で、小さく言う。

返事はない。

それでいい。

返事がないことに、安心する。

でも、廊下の灯りが点いていることにも、安心してしまう。

そこが、一番困る。

* * *

ある深夜勤明けの朝。

美月が理久の部屋へ戻ると、リビングは静かだった。

理久は、もう出勤している。

最初に共有した予定では、今日は朝から手術日だった。

玄関の先の廊下には、いつものように小さな灯りが点いている。

「……お邪魔します」

誰もいない玄関で、小さく言う。

深夜勤明けの体は重い。

頭の奥がぼんやりしていて、空腹なのか疲労なのかもよく分からない。

美月は荷物をゲストルームへ置き、シャワーより先に水だけ飲もうと冷蔵庫を開けた。

ペットボトルの水を取ろうとして、手が止まる。

小さな保存容器が入っていた。

その上に、短いメモが貼られている。

『昨夜のスープ、作りすぎた。食べられそうなら』

それだけ。

一緒に食べようと言われたわけではない。
待たれていたわけでもない。
温めろとも、食べろとも書かれていない。

ただ、置いてあった。

美月はしばらく保存容器を見つめた。

作りすぎた。

その言い方が、いかにも逃げ道を残している。

食べなくてもいい。
気を遣わなくてもいい。
でも、必要なら使っていい。

そういう置き方。

本当に、距離の取り方が上手い。

美月は小さく息を吐き、保存容器を取り出した。

鍋に移して温める。
湯気が上がる。
野菜と鶏肉の、やさしい匂いがした。

「……いただきます」

一口飲んで、美月は少しだけ黙った。

悔しいくらい、おいしかった。

深夜勤明けの体に、ちょうどよかった。

濃すぎない。
軽すぎない。
胃に重くない。

ちゃんと、食べられるものだった。

誰もいないリビングで。
理久のいない部屋で。

それなのに、ひとりで食べている気がしなかった。

食べ終えてから、美月は迷った末、スマホを開いた。

『スープ、いただきました。ありがとうございます』

送ってから、少しだけ後悔した。

丁寧すぎただろうか。

いや、借りている立場なのだから、礼は必要だ。

返事はすぐには来なかった。

当然だ。

今日は朝から手術日だと聞いている。

美月はスマホを伏せた。

シャワーを浴びて、ゲストルームに戻る。

体は疲れているはずなのに、頭だけが少しだけ起きていた。

廊下の灯り。
冷蔵庫のスープ。
短いメモ。

それらを思い出しながら、美月はベッドに横になった。

ここは藤崎先生の家だ。

自分の部屋ではない。

そう思うのに、目を閉じた時、胸の奥は昨日より少しだけ静かだった。

眠りに落ちる直前、それが少し怖いと思った。

目を覚ましたのは、夕方だった。

カーテンの向こうが、淡い色に沈み始めている。

スマホを見ると、返信が届いていた。

『食べられたならよかった』

それだけだった。

美月は画面を見つめる。

からかわれなかった。

「作りすぎを信じた?」とか。
「大したことないホテルの朝食です」とか。

そういう返事をしてきてもおかしくないのに。

理久は、そこではふざけなかった。

美月はスマホを伏せた。

こういうところだ。

からかう時と、からかわない時の線が、分かりにくいようで、妙にはっきりしている。

だから安心してしまう。

だから、怖い。

* * *

別の日。

美月が日勤を終えて戻ると、珍しくリビングに灯りがついていた。

玄関を開けた瞬間、奥から声がした。

「おかえり」

美月は、その場で固まった。

おかえり。

その言葉が、あまりにも自然に聞こえたから。

ここは自分の家ではない。
帰ってきたと言われる場所でもない。
そう返される立場でもない。

美月は少し遅れて、靴を脱ぎながら言った。

「……お邪魔します」

リビングの方から、理久が顔を出した。

シャツの袖を軽くまくり、手にはタブレットを持っている。
帰ってきて少し経っているのか、髪は整っているのに、表情だけが少し緩んでいた。

理久は、美月の返事を聞いて、ほんの少し笑った。

「堅いな」

「実際、そうなので」

「そう?」

「そうです」

理久はそれ以上言わなかった。

「この前のスープ、口に合った?」

「いただきました」

「よかった」

「……作りすぎた量ではなかったと思います」

理久の口元が少し動く。

「そう?」

「そうです」

「じゃあ、次はもう少し多く作る」

「そういう意味ではありません」

いつもの調子で返してから、美月は自分で少し驚いた。

普通に会話している。

病棟ではない。
外食でもない。
理久の部屋のリビングで。

それなのに、変に緊張していない。

理久は、少し離れた位置に立っていた。

近づきすぎない。
ドアの前を塞がない。
手を伸ばせば届く距離ではない。

それが、かえって安心する。

「今日、疲れてる?」

不意に聞かれ、美月は少しだけ目を伏せた。

「普通です」

「二回言わないなら、まあ普通かな」

「何ですか、その基準」

「綾瀬さん基準」

「勝手に作らないでください」

理久は笑った。

その笑い方が、少しだけ穏やかだった。

美月は視線を逸らす。

こういう時、どうしていいか分からない。

おかえり、と言われた。
ただいま、とは返せなかった。

でも。

返せなかったことに、ほんの少しだけ胸の奥が引っかかっている。

それが嫌だった。

「私は、部屋に戻ります」

「うん」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

短い会話。

それだけで終わる。

理久は引き止めない。
美月も振り返らない。

ゲストルームに入ってドアを閉めると、静けさが戻ってきた。

美月はベッドの端に座り、少しだけ息を吐いた。

同じ家にいるのに、近づきすぎない。

必要以上に話さない。
必要以上に触れない。
必要以上に待たない。

それがありがたかった。

ありがたいはずだった。

* * *

避難同居は、淡々と続いた。

朝、テーブルに短いメモがある日。

『今日は当直です』

冷蔵庫に水が補充されている日。

『使って』

準夜勤明けに戻ると、廊下の灯りだけが点いている日。

深夜入りの日、美月が夕方に起きると、リビングに誰もいないのに、カーテンだけが少し開けられていた日。

踏み込まれない。

でも、完全には一人にされない。

その距離が、美月には楽だった。

楽で、安心で。

だからこそ、怖かった。

ここは、藤崎理久の家だ。

大したことないホテルでもない。
ただの仮住まいでもない。
自分の部屋でもない。

それなのに、玄関の扉を開けた時、廊下に小さな灯りが点いているだけで、胸の奥が少しだけ緩む。

美月は、その感覚に名前をつけないようにした。

名前をつけたら、きっと戻れなくなる。

だから今日も、いつものように小さく言う。

「……お邪魔します」

誰もいない玄関で。

けれど、真っ暗ではない部屋の中で。

近づきすぎない。
でも、離れすぎてもいない。

その距離が、いつの間にか少しだけ、楽になっていた。

楽になってしまったことが、少しだけ怖かった。
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