光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第2話 名乗らないまま、噛み合った

倒れている男性のそばに膝をつき、美月はまず周囲を確認した。

ぶつかった荷物はない。
出血も、目に見える外傷もない。
人は集まり始めているが、まだ男性の周囲には少し空間がある。

「聞こえますか?」

美月は男性の肩を軽く叩いた。

「聞こえますか。分かりますか」

まぶたが、わずかに動いた。

意識はある。

ただ、反応は鈍い。

美月は顔色を見る。

蒼白。
額に汗。
呼吸はある。
胸元に手がかかっている。

嫌な可能性が、頭の中をすばやく通り過ぎる。

けれど、考えを広げすぎてはいけない。
今、必要なことだけを拾う。

呼吸。
脈。
意識レベル。
顔色。
発汗。
胸痛の有無。

休日だろうと、病棟の外だろうと、身体は勝手に動いた。

「救急車を呼んでください」

美月は周囲に向かって、はっきり言った。

「119番です。男性が倒れています。意識はありますが、反応が鈍いです」

近くにいた女性が、慌ててスマホを取り出した。

「は、はい。119ですね」

「AEDを持ってきてもらえますか。駅ビルならどこかにあります。店員さんを呼んでください」

「分かりました!」

書店のスタッフが走り出す。

美月は男性の体位を整えた。

「苦しいですか。胸が苦しいですか?」

男性が、わずかに頷く。

胸痛あり。

美月は声を落とした。

「救急車を呼んでいます。ゆっくり呼吸してください」

周囲の人がさらに集まり始める。

視線。
ざわめき。
不安そうな声。

誰かのスマホのカメラが上がりかけたのが見えて、美月は少し強めに言った。

「すみません、人が集まると空気が悪くなります。少し下がってください」

自分の声は、思ったより落ち着いていた。

内心が落ち着いていたわけではない。
でも、こういう時に声が揺れると、周囲の不安が増える。

それは、病棟でも、駅ビルでも同じだった。

その時、少し遅れて一人の男性が近づいてきた。

背が高い。

休日らしい服装だった。
黒に近い落ち着いた色のトップスに、無駄のない立ち姿。

急いで駆け寄ってきたわけではないのに、目線だけが状況を素早く拾っている。

どこか隙がない人だと思った。

けれど、美月は相手が誰かなど考えなかった。

ただの通行人。

その時は、そう思った。

「すみません」

美月は顔を上げずに言った。

「そちら側、少し空けてもらえますか。救急隊が入れるように」

男性は、一瞬だけ美月を見た。

けれど、何も言わずに周囲へ向いた。

「少し下がってください。通路を空けましょう」

低く、よく通る声だった。

大きな声ではない。
強く命令したわけでもない。

それなのに、人の流れが少し整理された。

さっきまでざわついていた人たちが、言われた通りに半歩ずつ下がる。
通路の中央に、救急隊が入れるだけのスペースができた。

美月は内心で思った。

指示が通る人だ。

店員がAEDを持って戻ってきた。

「AEDです!」

美月が受け取ろうとした時、その男性が自然に横へ膝をついた。

「ここ、代わります。バイタル取れます?」

美月の手が、一瞬止まった。

言い方が違った。

素人ではない。

男性は倒れた人の状態を見ながら、迷いなく確認を始める。

「既往、分かります?」
「発症はいつ頃ですか」
「救急隊、あと何分くらいですか」

美月はすぐに切り替えた。

「意識はあります。胸痛の訴えあり。呼吸あり、橈骨動脈触知できます。発症は、目撃者によると数分前です。既往は未確認です」

「AED、装着しましょう」

「はい」

それ以上の説明は必要なかった。

二人の動きは、不思議なほど噛み合った。

名乗らない。
職業も聞かない。
どこの病院かも、何科かも知らない。

それでも、必要なことだけが通じる。

美月がAEDのパッドを準備する。
男性が周囲に声をかける。

「離れてください。解析します」

一瞬、周囲が静まった。

AEDの音声が流れる。

解析。

ショック適応なし。

美月は倒れている男性のそばで声をかけ続けた。

「救急車、もうすぐ来ます。ゆっくり呼吸してください」

男性は苦しそうに頷く。

隣の男性は、目撃者から発症時刻と倒れた時の様子を簡潔に聞き取っていた。

「立っていたところから?」
「突然?」
「胸を押さえる前に、何か言っていましたか?」
「倒れる前、ふらつきは?」

質問が短い。
無駄がない。

相手が混乱していても答えやすい聞き方だった。

やっぱり、この人は医療者だ。

美月はそう確信した。

ただ、今はそれを確認する必要はない。

遠くからサイレンが近づいてきた。

数分後、救急隊が到着した。

人垣が割れ、ストレッチャーが入ってくる。
救急隊員の声が響き、現場の空気がまた変わる。

男性はすっと立ち上がった。

そして、救急隊へ簡潔に申し送った。

「意識レベルは最初JCS一桁、呼吸あり、橈骨動脈触知可。胸痛の訴えあり。発症はおそらく数分前。AED装着しましたがショック適応なしです。既往は未確認。目撃者によると、立位から崩れるように倒れたとのことです」

その声を聞いて、美月は内心で思った。

うわ。

これは医療者だ。

しかも、かなり場慣れしている。

申し送りに無駄がない。
必要な情報の優先順位が分かっている。

救急隊が男性を搬送していく。

ストレッチャーが遠ざかり、駅ビルのざわめきが少しずつ日常の音に戻っていった。

書店のスタッフが深く頭を下げる。

「ありがとうございました。お二人とも、本当に……」

「いえ」

美月は短く答え、床に置いていた買い物袋を拾い上げた。

膝をついていたせいで、スカートの裾に少し埃がついている。
手のひらには、床の冷たさが残っていた。

ようやく、息をつく。

その時、隣にいた男性と視線が合った。

近くで見ると、整った顔立ちの人だった。



けれど、それ以上に印象に残ったのは、その落ち着きだった。

騒ぎの中心にいたのに、彼だけが少し違う速度で動いていた気がする。

状況に流されず、必要なところだけに手を伸ばす人。

彼は、軽く言った。

「助かりました。最初に動いてくれていたので」

美月は少しだけ頭を下げた。

「いえ、そちらこそ」

言葉は、それだけだった。

名前は聞かなかった。
職業も聞かなかった。
連絡先など、もちろん交換しない。

休日の駅ビルで、急病人に対応した。

医療者らしき男性と、たまたま連携した。

それだけ。

美月はそう思っていた。

本当に、それだけの出来事だと思っていた。

数日後までは。
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