光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第27話 洗面所の事故
好きとは、まだ言っていない。
その事実を、美月は翌朝から何度も確認していた。
好きとは言っていない。
悪くはない、と言った。
ここにいることも、自分で選んだ。
好きという言葉にしてしまうのが怖いことも、自分の中では分かっている。
でも。
好きです、とは言っていない。
だから、まだ大丈夫。
何が大丈夫なのかは分からない。
けれど、そう思わないと落ち着かなかった。
昨夜のリビング。
珈琲の香り。
少し斜めの席に座る先生。
触れない距離。
それでも近すぎる会話。
好きって、言わせたい。
あの言葉を思い出すたびに、仕事中でも耳が熱くなった。
本当にやめてほしい。
病棟で点滴確認をしている時に思い出す言葉ではない。
退院指導の資料を確認している時に、頭をよぎっていい声ではない。
美月はナースステーションで電子カルテを開きながら、小さく息を吐いた。
仕事中。
勤務中。
便利な言葉を胸の中で繰り返す。
けれど、その便利な言葉も、最近少し効きが悪い。
「綾瀬さん、何か疲れてます?」
後輩に聞かれ、美月はすぐに顔を上げた。
「大丈夫」
言った瞬間、また自分で気づく。
大丈夫。
便利な言葉。
藤崎先生なら、ここで「二回言う?」と聞くだろう。
そう思ったところで、美月は自分に腹が立った。
なぜ、今、藤崎先生が出てくるのか。
後輩は不思議そうに首を傾げる。
「本当に大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫」
二回言った。
美月は心の中で頭を抱えた。
もう駄目かもしれない。
いや、駄目ではない。
仕事はできている。
できているのだから、大丈夫。
……たぶん。
* * *
その日は、美月の方が少し早くマンションへ戻った。
ゲストルームに荷物を置き、管理会社から届いていた修繕費の書類を確認する。
部屋は戻った。
戻ろうと思えば戻れる。
けれど、自分はまだここにいる。
その事実に、何度も意識が向く。
合鍵は、バッグの内ポケットに入っている。
一度返して、もう一度受け取った鍵。
その重みが、以前よりずっと意味を持ってしまった気がする。
美月は書類を閉じ、ベッドに腰を下ろした。
最初にここへ来た夜は、知らない部屋だった。
今も、自分の部屋ではない。
でも、完全に知らない場所でもなくなっている。
それが怖い。
そして、嫌ではない。
そこが一番困る。
スマホが震えた。
藤崎理久。
『今から帰る。夕飯、食べた?』
美月は画面を見つめた。
帰る。
その言葉が、あまりにも自然に入ってくる。
自分もここに帰ってきている。
先生もここに帰ってくる。
同じ場所へ。
美月は少し迷ってから返した。
『軽く食べました』
すぐ既読がつく。
『足りてる?』
『足りています』
『二回言わない?』
美月は画面を睨んだ。
同じ家に帰ってくる相手と、LINEでこのやり取り。
おかしい。
完全におかしい。
でも、もう慣れ始めている。
それもまた怖い。
『勤務外です』
送ったあと、しまったと思った。
今は勤務外だ。
つまり、その逃げ方は使えない。
案の定、すぐ返信が来た。
『便利な言葉、今日は使えないね』
美月はスマホを伏せた。
本当に、なんつー男。
しばらくして、玄関の音がした。
先生が帰ってきた。
美月はゲストルームから出るタイミングを少し迷った。
出るべきか。
出ないべきか。
おかえりと言う必要はない。
そもそもここは、自分の家ではない。
でも、玄関の音がした瞬間に顔を上げてしまった時点で、もうかなりおかしい。
リビングの方から、先生の声がした。
「ただいま」
美月は固まった。
それはずるい。
おかえりを言わせる気だ。
絶対に言わせる気だ。
しばらく黙っていると、スマホが震えた。
『今のは独り言』
美月は思わず小さく笑いそうになった。
本当に、この人は。
美月はゲストルームのドアを開け、リビングへ出た。
先生はスーツのジャケットを脱いだところだった。
仕事帰りの顔をしている。
少し疲れているのに、相変わらず整っている。
「……お疲れさまです」
美月が言うと、先生が少しだけ目を細めた。
「それで返すんだ」
「適切な挨拶です」
「おかえりじゃなくて?」
「言いません」
「二回目は?」
「言いません」
「もう二回言った」
美月は悔しくなった。
「そういうところ、本当に性格が悪いです」
「知ってる」
先生は楽しそうに笑った。
その顔を見て、美月は少しだけ安心している自分に気づく。
駄目だ。
本当に、駄目だ。
この人が帰ってくることに、安心している。
* * *
夜は静かに過ぎていった。
先生は買ってきた夕食を軽く済ませ、美月はその向かいで書類を整理した。
会話は少ない。
でも、気まずくはない。
「これ、保険会社に出す写真?」
「はい。管理会社からもらいました」
「日付と場所、分かるように保存しておいた方がいいよ」
「そうですね」
「クラウドにも上げた?」
「まだです」
「やっておく?」
「自分でできます」
「うん。分かってる」
それでも、先生は横から勝手に触ったりしない。
必要な助言だけをして、あとは待つ。
その距離感に、少しずつ慣れている。
慣れてはいけないのに。
寝る前、美月は先にお風呂を使わせてもらうことにした。
「先にお風呂、入ってきてもいいですか」
「どうぞ」
「では、先に失礼します」
美月は洗面所へ向かった。
この家に来てから、風呂と洗面所を使う時間は基本的にずらしている。
最初に決めたルールだ。
ゲストルームには勝手に入らない。
風呂と洗面所は時間をずらす。
職場では今まで通り。
必要なことはLINEでもいい。
そのルールがあったから、ここにいられた。
そのはずだった。
美月は洗面所で髪をほどき、スマホを手に取った。
明日の持ち物を確認する。
管理会社へ返送する書類。
忘れないように、リマインダーに入れておく。
通知時間を朝に設定して、スマホを洗面台の端に置いた。
それから、浴室へ入った。
湯気の中で、ようやく少しだけ息が抜けた。
今日は一日、落ち着かなかった。
昨日のリビングの会話が、何度も頭をよぎった。
好きって、言わせたい。
思い出すたびに、耳が熱くなる。
美月はシャワーを少し強めに出した。
流せるものなら、全部流してしまいたい。
けれど、流れない。
先生の声も。
珈琲の香りも。
ここにいることを自分で選んだという事実も。
全部、身体のどこかに残っている。
風呂を出て、髪を乾かし、歯を磨いて、スキンケアを済ませた。
そのままゲストルームへ戻り、明日の服を出す。
書類をバッグに入れる。
しばらくして、そろそろ寝ようと思った。
アラームをかけようとして、手が止まる。
スマホがない。
「……あ」
ベッドの上。
枕元。
バッグの中。
どこにもない。
数秒考えて、思い出した。
洗面台の端だ。
リマインダーを設定して、そのまま置いてきた。
最悪。
美月は小さく息を吐いた。
先生は、もうお風呂を済ませただろうか。
耳を澄ませる。
シャワーの音は聞こえない。
廊下も静かだった。
もう部屋に戻ったのかもしれない。
それなら、スマホを取るだけ。
すぐに戻ればいい。
美月はゲストルームを出て、洗面所の前まで行った。
廊下の明かりはついている。
足元も暗くない。
だから、洗面所の下から漏れている光には気づかなかった。
美月はドアノブに手をかけた。
鍵は、かかっていない。
誰も使っていないのだと思った。
思ってしまった。
スマホを取るだけ。
そう思って、ノックもせずに扉を開けた。
そして、固まった。
洗面台の前に、先生がいた。
風呂上がりらしく、髪が濡れている。
首にはタオル。
前開きのパジャマを羽織っているのに、ボタンは留められていなかった。
襟元が開いて、鎖骨から胸元にかけての肌が見える。
見えた。
見えてしまった。
病棟の藤崎先生ではない。
家の中で、風呂上がりに洗面台の前に立っている男。
美月は、完全に動けなくなった。
先生も鏡越しにこちらを見て、一瞬だけ止まった。
それから、少しだけ口元を緩める。
「……覗き?」
美月の顔が、一気に熱くなった。
「ち、違います」
声が裏返った。
「スマホを取りに来ただけです」
「スマホ」
「はい」
「そっか」
先生は笑った。
困ったような、面白がっているような笑い方だった。
「俺も不注意だったよね。ごめん」
その素直な謝罪に、美月は少しだけ我に返る。
「そ、そうですよ。鍵をかけるルールでしたよね?」
「そうなんだよね」
先生はタオルで濡れた髪を軽く押さえた。
その仕草だけで、また目のやり場に困る。
「一回、水を取りに行ったから、鍵を閉め忘れてた」
「き、気をつけてください」
「うん」
先生は素直に頷いた。
「仕事ができる綾瀬さんも、忘れ物には気をつけて」
「……今、それを言います?」
「今だから」
先生は洗面台の端に置かれていたスマホを手に取った。
「これでしょ」
「はい」
美月は、できるだけ先生の顔だけを見るようにして手を伸ばした。
顔だけ。
絶対に、視線を下げてはいけない。
そう思っていたのに、開いた襟元が視界の端に入る。
無理。
本当に無理。
「ありがとうございます」
そう言って受け取ろうとした瞬間、先生がスマホをひょいっと横へずらした。
美月の手が空を切る。
「……え?」
もう一度手を伸ばす。
今度は少し上に逃げる。
届かない。
美月は固まった。
「な……何がしたいんですか?」
「んー」
先生は少し考えるような顔をした。
「なんとなく?」
「なんとなくで遊ばないでください」
「そうだね」
「返してください」
「はい、どうぞ」
そう言いながら、また少しだけ持ち上げる。
美月はむっとして手を伸ばした。
届きそうで、届かない。
腹立たしい。
本当に腹立たしい。
そういえば、先生はこういう揶揄うようなこともする人だった。
病院で見せる王子は、たぶん仮面だ。
本来の姿は、割と子どもっぽい一面もある。
エセ王子。
美月は心の中でそう決めた。
「先生」
「ん?」
「取らせる気、あります?」
「あるよ」
「全然ありません」
「二回言う?」
「言いません」
先生は少しだけ笑った。
それから、今度はちゃんとスマホを差し出した。
「はい、どうぞ」
美月は慎重に手を伸ばす。
今度は逃げなかった。
指先が、ほんの少しだけ先生の指に触れた。
ただそれだけなのに、肩が跳ねそうになる。
スマホを受け取って、美月はすぐに一歩下がった。
「あ……ありがとうございます」
「うん」
先生は笑っていた。
濡れた髪。
開いた襟元。
余裕のある表情。
少し子どもっぽいからかい方。
全部が、ずるい。
こんなに揶揄われているのに。
引っかからないなんて思っていたのに。
綺麗なものは、やっぱり綺麗だと思ってしまう。
それが悔しい。
本当に悔しい。
「では、失礼します」
美月は逃げるようにドアへ向かった。
その背中に、先生の声が落ちる。
「おやすみ、美月」
心臓に悪い。
こんなプライベートな姿を見せられて、平常心でいられるわけがない。
しかも、その声で名前を呼ばないでほしい。
美月はドアノブを握ったまま、なんとか返した。
「……おやすみなさい」
それだけ言って、洗面所を出た。
廊下に出て、ようやく息を吐く。
心臓がうるさい。
スマホを握りしめたまま、ゲストルームへ戻る。
ドアを閉めて、背中を預けた。
事故だ。
これは事故。
生活動線の事故。
仮住まいの距離が、少しだけ近すぎただけ。
そう言い聞かせる。
けれど、さっき見えてしまったものが頭から消えない。
濡れた髪。
前を留めていないパジャマ。
鎖骨。
胸元。
低い声。
おやすみ、美月。
美月はスマホをベッドの上に置き、両手で顔を覆った。
揶揄われた。
完全に揶揄われた。
しかも、かなり子どもっぽいやり方で。
腹立たしい。
本当に、腹立たしい。
それなのに。
この家にいるのが嫌だとは思わなかった。
むしろ、困るくらい胸が落ち着かない。
悔しいけれど。
こんなにドキッとさせられて、気持ちが先生に向かないなんてこと、あるわけがない。
でも。
それをまだ口にして認めるのは、やっぱり怖かった。
好きとは、まだ言っていない。
美月はもう一度、心の中で確認する。
でも、その言葉で自分を守れる時間は、たぶんもう長くない。
鏡の中で見た自分の顔は、少しも事故では済まない赤さをしていた。
その事実を、美月は翌朝から何度も確認していた。
好きとは言っていない。
悪くはない、と言った。
ここにいることも、自分で選んだ。
好きという言葉にしてしまうのが怖いことも、自分の中では分かっている。
でも。
好きです、とは言っていない。
だから、まだ大丈夫。
何が大丈夫なのかは分からない。
けれど、そう思わないと落ち着かなかった。
昨夜のリビング。
珈琲の香り。
少し斜めの席に座る先生。
触れない距離。
それでも近すぎる会話。
好きって、言わせたい。
あの言葉を思い出すたびに、仕事中でも耳が熱くなった。
本当にやめてほしい。
病棟で点滴確認をしている時に思い出す言葉ではない。
退院指導の資料を確認している時に、頭をよぎっていい声ではない。
美月はナースステーションで電子カルテを開きながら、小さく息を吐いた。
仕事中。
勤務中。
便利な言葉を胸の中で繰り返す。
けれど、その便利な言葉も、最近少し効きが悪い。
「綾瀬さん、何か疲れてます?」
後輩に聞かれ、美月はすぐに顔を上げた。
「大丈夫」
言った瞬間、また自分で気づく。
大丈夫。
便利な言葉。
藤崎先生なら、ここで「二回言う?」と聞くだろう。
そう思ったところで、美月は自分に腹が立った。
なぜ、今、藤崎先生が出てくるのか。
後輩は不思議そうに首を傾げる。
「本当に大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫」
二回言った。
美月は心の中で頭を抱えた。
もう駄目かもしれない。
いや、駄目ではない。
仕事はできている。
できているのだから、大丈夫。
……たぶん。
* * *
その日は、美月の方が少し早くマンションへ戻った。
ゲストルームに荷物を置き、管理会社から届いていた修繕費の書類を確認する。
部屋は戻った。
戻ろうと思えば戻れる。
けれど、自分はまだここにいる。
その事実に、何度も意識が向く。
合鍵は、バッグの内ポケットに入っている。
一度返して、もう一度受け取った鍵。
その重みが、以前よりずっと意味を持ってしまった気がする。
美月は書類を閉じ、ベッドに腰を下ろした。
最初にここへ来た夜は、知らない部屋だった。
今も、自分の部屋ではない。
でも、完全に知らない場所でもなくなっている。
それが怖い。
そして、嫌ではない。
そこが一番困る。
スマホが震えた。
藤崎理久。
『今から帰る。夕飯、食べた?』
美月は画面を見つめた。
帰る。
その言葉が、あまりにも自然に入ってくる。
自分もここに帰ってきている。
先生もここに帰ってくる。
同じ場所へ。
美月は少し迷ってから返した。
『軽く食べました』
すぐ既読がつく。
『足りてる?』
『足りています』
『二回言わない?』
美月は画面を睨んだ。
同じ家に帰ってくる相手と、LINEでこのやり取り。
おかしい。
完全におかしい。
でも、もう慣れ始めている。
それもまた怖い。
『勤務外です』
送ったあと、しまったと思った。
今は勤務外だ。
つまり、その逃げ方は使えない。
案の定、すぐ返信が来た。
『便利な言葉、今日は使えないね』
美月はスマホを伏せた。
本当に、なんつー男。
しばらくして、玄関の音がした。
先生が帰ってきた。
美月はゲストルームから出るタイミングを少し迷った。
出るべきか。
出ないべきか。
おかえりと言う必要はない。
そもそもここは、自分の家ではない。
でも、玄関の音がした瞬間に顔を上げてしまった時点で、もうかなりおかしい。
リビングの方から、先生の声がした。
「ただいま」
美月は固まった。
それはずるい。
おかえりを言わせる気だ。
絶対に言わせる気だ。
しばらく黙っていると、スマホが震えた。
『今のは独り言』
美月は思わず小さく笑いそうになった。
本当に、この人は。
美月はゲストルームのドアを開け、リビングへ出た。
先生はスーツのジャケットを脱いだところだった。
仕事帰りの顔をしている。
少し疲れているのに、相変わらず整っている。
「……お疲れさまです」
美月が言うと、先生が少しだけ目を細めた。
「それで返すんだ」
「適切な挨拶です」
「おかえりじゃなくて?」
「言いません」
「二回目は?」
「言いません」
「もう二回言った」
美月は悔しくなった。
「そういうところ、本当に性格が悪いです」
「知ってる」
先生は楽しそうに笑った。
その顔を見て、美月は少しだけ安心している自分に気づく。
駄目だ。
本当に、駄目だ。
この人が帰ってくることに、安心している。
* * *
夜は静かに過ぎていった。
先生は買ってきた夕食を軽く済ませ、美月はその向かいで書類を整理した。
会話は少ない。
でも、気まずくはない。
「これ、保険会社に出す写真?」
「はい。管理会社からもらいました」
「日付と場所、分かるように保存しておいた方がいいよ」
「そうですね」
「クラウドにも上げた?」
「まだです」
「やっておく?」
「自分でできます」
「うん。分かってる」
それでも、先生は横から勝手に触ったりしない。
必要な助言だけをして、あとは待つ。
その距離感に、少しずつ慣れている。
慣れてはいけないのに。
寝る前、美月は先にお風呂を使わせてもらうことにした。
「先にお風呂、入ってきてもいいですか」
「どうぞ」
「では、先に失礼します」
美月は洗面所へ向かった。
この家に来てから、風呂と洗面所を使う時間は基本的にずらしている。
最初に決めたルールだ。
ゲストルームには勝手に入らない。
風呂と洗面所は時間をずらす。
職場では今まで通り。
必要なことはLINEでもいい。
そのルールがあったから、ここにいられた。
そのはずだった。
美月は洗面所で髪をほどき、スマホを手に取った。
明日の持ち物を確認する。
管理会社へ返送する書類。
忘れないように、リマインダーに入れておく。
通知時間を朝に設定して、スマホを洗面台の端に置いた。
それから、浴室へ入った。
湯気の中で、ようやく少しだけ息が抜けた。
今日は一日、落ち着かなかった。
昨日のリビングの会話が、何度も頭をよぎった。
好きって、言わせたい。
思い出すたびに、耳が熱くなる。
美月はシャワーを少し強めに出した。
流せるものなら、全部流してしまいたい。
けれど、流れない。
先生の声も。
珈琲の香りも。
ここにいることを自分で選んだという事実も。
全部、身体のどこかに残っている。
風呂を出て、髪を乾かし、歯を磨いて、スキンケアを済ませた。
そのままゲストルームへ戻り、明日の服を出す。
書類をバッグに入れる。
しばらくして、そろそろ寝ようと思った。
アラームをかけようとして、手が止まる。
スマホがない。
「……あ」
ベッドの上。
枕元。
バッグの中。
どこにもない。
数秒考えて、思い出した。
洗面台の端だ。
リマインダーを設定して、そのまま置いてきた。
最悪。
美月は小さく息を吐いた。
先生は、もうお風呂を済ませただろうか。
耳を澄ませる。
シャワーの音は聞こえない。
廊下も静かだった。
もう部屋に戻ったのかもしれない。
それなら、スマホを取るだけ。
すぐに戻ればいい。
美月はゲストルームを出て、洗面所の前まで行った。
廊下の明かりはついている。
足元も暗くない。
だから、洗面所の下から漏れている光には気づかなかった。
美月はドアノブに手をかけた。
鍵は、かかっていない。
誰も使っていないのだと思った。
思ってしまった。
スマホを取るだけ。
そう思って、ノックもせずに扉を開けた。
そして、固まった。
洗面台の前に、先生がいた。
風呂上がりらしく、髪が濡れている。
首にはタオル。
前開きのパジャマを羽織っているのに、ボタンは留められていなかった。
襟元が開いて、鎖骨から胸元にかけての肌が見える。
見えた。
見えてしまった。
病棟の藤崎先生ではない。
家の中で、風呂上がりに洗面台の前に立っている男。
美月は、完全に動けなくなった。
先生も鏡越しにこちらを見て、一瞬だけ止まった。
それから、少しだけ口元を緩める。
「……覗き?」
美月の顔が、一気に熱くなった。
「ち、違います」
声が裏返った。
「スマホを取りに来ただけです」
「スマホ」
「はい」
「そっか」
先生は笑った。
困ったような、面白がっているような笑い方だった。
「俺も不注意だったよね。ごめん」
その素直な謝罪に、美月は少しだけ我に返る。
「そ、そうですよ。鍵をかけるルールでしたよね?」
「そうなんだよね」
先生はタオルで濡れた髪を軽く押さえた。
その仕草だけで、また目のやり場に困る。
「一回、水を取りに行ったから、鍵を閉め忘れてた」
「き、気をつけてください」
「うん」
先生は素直に頷いた。
「仕事ができる綾瀬さんも、忘れ物には気をつけて」
「……今、それを言います?」
「今だから」
先生は洗面台の端に置かれていたスマホを手に取った。
「これでしょ」
「はい」
美月は、できるだけ先生の顔だけを見るようにして手を伸ばした。
顔だけ。
絶対に、視線を下げてはいけない。
そう思っていたのに、開いた襟元が視界の端に入る。
無理。
本当に無理。
「ありがとうございます」
そう言って受け取ろうとした瞬間、先生がスマホをひょいっと横へずらした。
美月の手が空を切る。
「……え?」
もう一度手を伸ばす。
今度は少し上に逃げる。
届かない。
美月は固まった。
「な……何がしたいんですか?」
「んー」
先生は少し考えるような顔をした。
「なんとなく?」
「なんとなくで遊ばないでください」
「そうだね」
「返してください」
「はい、どうぞ」
そう言いながら、また少しだけ持ち上げる。
美月はむっとして手を伸ばした。
届きそうで、届かない。
腹立たしい。
本当に腹立たしい。
そういえば、先生はこういう揶揄うようなこともする人だった。
病院で見せる王子は、たぶん仮面だ。
本来の姿は、割と子どもっぽい一面もある。
エセ王子。
美月は心の中でそう決めた。
「先生」
「ん?」
「取らせる気、あります?」
「あるよ」
「全然ありません」
「二回言う?」
「言いません」
先生は少しだけ笑った。
それから、今度はちゃんとスマホを差し出した。
「はい、どうぞ」
美月は慎重に手を伸ばす。
今度は逃げなかった。
指先が、ほんの少しだけ先生の指に触れた。
ただそれだけなのに、肩が跳ねそうになる。
スマホを受け取って、美月はすぐに一歩下がった。
「あ……ありがとうございます」
「うん」
先生は笑っていた。
濡れた髪。
開いた襟元。
余裕のある表情。
少し子どもっぽいからかい方。
全部が、ずるい。
こんなに揶揄われているのに。
引っかからないなんて思っていたのに。
綺麗なものは、やっぱり綺麗だと思ってしまう。
それが悔しい。
本当に悔しい。
「では、失礼します」
美月は逃げるようにドアへ向かった。
その背中に、先生の声が落ちる。
「おやすみ、美月」
心臓に悪い。
こんなプライベートな姿を見せられて、平常心でいられるわけがない。
しかも、その声で名前を呼ばないでほしい。
美月はドアノブを握ったまま、なんとか返した。
「……おやすみなさい」
それだけ言って、洗面所を出た。
廊下に出て、ようやく息を吐く。
心臓がうるさい。
スマホを握りしめたまま、ゲストルームへ戻る。
ドアを閉めて、背中を預けた。
事故だ。
これは事故。
生活動線の事故。
仮住まいの距離が、少しだけ近すぎただけ。
そう言い聞かせる。
けれど、さっき見えてしまったものが頭から消えない。
濡れた髪。
前を留めていないパジャマ。
鎖骨。
胸元。
低い声。
おやすみ、美月。
美月はスマホをベッドの上に置き、両手で顔を覆った。
揶揄われた。
完全に揶揄われた。
しかも、かなり子どもっぽいやり方で。
腹立たしい。
本当に、腹立たしい。
それなのに。
この家にいるのが嫌だとは思わなかった。
むしろ、困るくらい胸が落ち着かない。
悔しいけれど。
こんなにドキッとさせられて、気持ちが先生に向かないなんてこと、あるわけがない。
でも。
それをまだ口にして認めるのは、やっぱり怖かった。
好きとは、まだ言っていない。
美月はもう一度、心の中で確認する。
でも、その言葉で自分を守れる時間は、たぶんもう長くない。
鏡の中で見た自分の顔は、少しも事故では済まない赤さをしていた。