光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第36話 初キス
目を閉じたまま、美月は息を詰めていた。
閉じた瞬間、世界が急に狭くなる。
テレビの音。
コーヒーの残り香。
隣にいる理久の気配。
自分の心臓の音。
全部が、近すぎる。
怖かったら、止めて。
さっき理久はそう言った。
だから、これ以上の確認はなかった。
理久の気配が、静かに近づく。
美月はクッションを手放した手を、膝の上で握った。
逃げない。
そう決めたはずなのに、身体はうまく言うことを聞かない。
肩に力が入る。
指先が固まる。
息をするタイミングすら分からない。
そして。
唇に、柔らかい感触が落ちた。
一瞬だった。
本当に、軽く触れるだけ。
奪うようなものではなく、試すようなものでもなく。
確かめるような、短いキス。
それだけなのに、美月の頭の中は真っ白になった。
唇が離れても、しばらく動けなかった。
目も開けられない。
息もできない。
いや。
息を止めていた。
「美月」
理久の声が近くで聞こえる。
低くて、少しだけ笑いを含んだ声。
「息して」
美月は、そこでようやく、止めていた息を吐いた。
細く、震えるような息だった。
それから慌てて吸い込む。
「……してます」
「今した」
「してました」
「止まってたよ」
美月はゆっくり目を開けた。
理久がすぐ近くにいる。
近い。
近すぎる。
キスをしたのだから当然なのに、その当然に身体がついていかない。
美月は反射的に少し引こうとして、ソファの背もたれに当たった。
もう下がれない。
それを見て、理久が小さく笑った。
でも、その笑いは、からかうだけのものではなかった。
困ったようで、優しい。
そして、少しだけ何かを抑えている顔だった。
理久が、ゆっくり身体を離す。
近かった空気が、少しだけ戻った。
美月は瞬きをした。
「今日はここまで」
理久が静かに言った。
美月は固まった。
「……え?」
声が出てから、自分でも驚いた。
え、とは何だ。
何に対する、え、なのか。
終わってほっとしたのか。
急に終わって驚いたのか。
それとも。
美月は自分の考えをそこで止めた。
理久が少しだけ目を細める。
「期待してた?」
美月の顔が、一気に熱くなった。
「ち、違います」
「即答」
「違います」
「分かった」
絶対に分かっていない顔だった。
理久は少し笑っている。
美月は唇を引き結んだ。
「笑うところではありません」
「ごめん」
「絶対に思っていませんよね」
「思ってる」
「嘘です」
「ばれた?」
「ばれます」
理久がまた小さく笑った。
その笑い方が、少しだけいつもの理久に戻っていて、美月は余計に困った。
心臓がまだうるさい。
唇に、さっきの感触が残っている気がする。
軽かった。
本当に軽かった。
それなのに、全身が落ち着かない。
今日はここまで。
そう言われて、ほっとした。
ほっとしたはずなのに、変なところで引っかかった。
え?
なんて声を出してしまった。
違う。
期待していたわけではない。
絶対に違う。
ただ、急に終わったから驚いただけ。
そういうことにする。
美月は視線を逸らした。
「明日も勤務なので」
理久が少し笑う。
「出た」
「大事です」
「うん。大事」
「だから、寝ます」
「はい」
「先生も、明日早いですよね」
言ってから、美月ははっとした。
先生。
二人でいる時に。
今、完全に言った。
理久が何も言わずに美月を見た。
美月の背中が固まる。
「……今のは」
「うん」
「業務上の確認です」
「業務上?」
「明日早い、という話なので」
「二人でいる時に?」
「……」
「先生って言ったね」
美月は唇を引き結んだ。
まずい。
非常にまずい。
さっき、その条件でキスしたばかりなのに。
もう言った。
自分であえて呼んだ時とは違う。
今度は完全にうっかりだった。
理久は少し笑った。
「今日はここまでって言ったから、今のは見逃す」
美月は、ほっとしたような、余計に恥ずかしくなったような顔をした。
「……見逃す、という言い方は」
「じゃあ、今日は保留」
「それも嫌です」
「でも、忘れる気はない」
「忘れてください」
「無理」
理久は楽しそうに笑った。
でも、近づいてはこなかった。
美月が明らかに限界だと分かっているからだろう。
その余裕が、また腹立たしい。
いや、ありがたい。
ありがたいけれど、腹立たしい。
美月は立ち上がった。
「寝ます」
「逃げた」
「寝ます」
「はい」
美月はリビングを出ようとした。
扉の前まで行って、手をかける。
そのまま出ていけばよかった。
いつも通り。
何も言わずに、逃げてしまえばよかった。
でも、足が止まった。
美月は、少しだけ振り返った。
理久はソファに座ったまま、こちらを見ている。
追いかけてくるわけでもない。
からかうわけでもない。
ただ、静かに美月を見ていた。
その視線を受け止めきれなくて、美月はすぐに目を逸らした。
心臓が、またうるさくなる。
声が小さくなった。
「おやすみなさい……りく」
言った。
言ってしまった。
理久の反応を見る勇気はなかった。
美月はそのまま逃げるようにリビングを出た。
扉が閉まる。
廊下を歩きながら、美月は両手で顔を覆いたくなった。
無理。
本当に無理。
キスをした。
先生って言った。
理久と呼んだ。
一晩に情報量が多すぎる。
明日も勤務なのに。
本当に勤務なのに。
寝られる気がしない。
寝室に入ってドアを閉めた瞬間、美月はその場にしゃがみ込みそうになった。
唇に、そっと指を当てる。
軽く触れただけだった。
でも、確かに初めてだった。
理久のキス。
理久の声。
息して。
今日はここまで。
思い出しただけで、顔が熱くなる。
「……最悪」
小さく呟いた。
けれど、その声には、さっきまでのような困惑だけではないものが混じっていた。
嫌ではなかった。
怖くもなかった。
ただ、分からなかった。
どうしていいか。
どこに気持ちを置けばいいか。
でも、逃げたくなかった。
だから、名前を呼んだ。
おやすみなさい、りく。
もう一度思い出して、美月は布団に顔を伏せた。
無理。
本当に、今日は無理。
* * *
リビングに残された理久は、しばらく動けなかった。
扉が閉まったあとも、視線はそのままだった。
おやすみなさい……りく。
小さな声。
目を逸らしたままの、逃げるような呼び方。
それなのに、確かに聞こえた。
理久。
初めて、美月が名前を呼んだ。
理久はゆっくり片手で口元を覆った。
「……反則だろ」
自分で仕掛けたはずだった。
二人でいる時に先生と呼んだら、キス。
名前で呼ばせるための、少し意地の悪い条件。
どちらを選んでも、自分が嬉しいように作ったはずだった。
それなのに、美月はあえて先生と呼んだ。
キスのあと、息を止めるほど固まって。
今日はここまで、と言えば、本気で不思議そうな顔をして。
最後に、逃げる直前で名前を置いていった。
理久はソファに深く座り直した。
軽いキスだけで止めた自分を、心底褒めたい。
もう一度、名前を呼んでほしい。
今すぐ確かめたくなる気持ちを、理性で押さえ込む。
駄目だ。
今日はここまで。
自分で言った。
それでいい。
それが正解だった。
分かっている。
分かっているのに。
おやすみなさい、りく。
また、声が頭の中で再生される。
理久は低く笑った。
完全に負けた。
キスをしたのはこちらなのに。
仕掛けたのもこちらなのに。
最後に全部持っていったのは、美月だった。
本当に、敵わない。
しばらく理久は、閉じた扉の向こうに消えた声だけを、何度も思い出していた。
閉じた瞬間、世界が急に狭くなる。
テレビの音。
コーヒーの残り香。
隣にいる理久の気配。
自分の心臓の音。
全部が、近すぎる。
怖かったら、止めて。
さっき理久はそう言った。
だから、これ以上の確認はなかった。
理久の気配が、静かに近づく。
美月はクッションを手放した手を、膝の上で握った。
逃げない。
そう決めたはずなのに、身体はうまく言うことを聞かない。
肩に力が入る。
指先が固まる。
息をするタイミングすら分からない。
そして。
唇に、柔らかい感触が落ちた。
一瞬だった。
本当に、軽く触れるだけ。
奪うようなものではなく、試すようなものでもなく。
確かめるような、短いキス。
それだけなのに、美月の頭の中は真っ白になった。
唇が離れても、しばらく動けなかった。
目も開けられない。
息もできない。
いや。
息を止めていた。
「美月」
理久の声が近くで聞こえる。
低くて、少しだけ笑いを含んだ声。
「息して」
美月は、そこでようやく、止めていた息を吐いた。
細く、震えるような息だった。
それから慌てて吸い込む。
「……してます」
「今した」
「してました」
「止まってたよ」
美月はゆっくり目を開けた。
理久がすぐ近くにいる。
近い。
近すぎる。
キスをしたのだから当然なのに、その当然に身体がついていかない。
美月は反射的に少し引こうとして、ソファの背もたれに当たった。
もう下がれない。
それを見て、理久が小さく笑った。
でも、その笑いは、からかうだけのものではなかった。
困ったようで、優しい。
そして、少しだけ何かを抑えている顔だった。
理久が、ゆっくり身体を離す。
近かった空気が、少しだけ戻った。
美月は瞬きをした。
「今日はここまで」
理久が静かに言った。
美月は固まった。
「……え?」
声が出てから、自分でも驚いた。
え、とは何だ。
何に対する、え、なのか。
終わってほっとしたのか。
急に終わって驚いたのか。
それとも。
美月は自分の考えをそこで止めた。
理久が少しだけ目を細める。
「期待してた?」
美月の顔が、一気に熱くなった。
「ち、違います」
「即答」
「違います」
「分かった」
絶対に分かっていない顔だった。
理久は少し笑っている。
美月は唇を引き結んだ。
「笑うところではありません」
「ごめん」
「絶対に思っていませんよね」
「思ってる」
「嘘です」
「ばれた?」
「ばれます」
理久がまた小さく笑った。
その笑い方が、少しだけいつもの理久に戻っていて、美月は余計に困った。
心臓がまだうるさい。
唇に、さっきの感触が残っている気がする。
軽かった。
本当に軽かった。
それなのに、全身が落ち着かない。
今日はここまで。
そう言われて、ほっとした。
ほっとしたはずなのに、変なところで引っかかった。
え?
なんて声を出してしまった。
違う。
期待していたわけではない。
絶対に違う。
ただ、急に終わったから驚いただけ。
そういうことにする。
美月は視線を逸らした。
「明日も勤務なので」
理久が少し笑う。
「出た」
「大事です」
「うん。大事」
「だから、寝ます」
「はい」
「先生も、明日早いですよね」
言ってから、美月ははっとした。
先生。
二人でいる時に。
今、完全に言った。
理久が何も言わずに美月を見た。
美月の背中が固まる。
「……今のは」
「うん」
「業務上の確認です」
「業務上?」
「明日早い、という話なので」
「二人でいる時に?」
「……」
「先生って言ったね」
美月は唇を引き結んだ。
まずい。
非常にまずい。
さっき、その条件でキスしたばかりなのに。
もう言った。
自分であえて呼んだ時とは違う。
今度は完全にうっかりだった。
理久は少し笑った。
「今日はここまでって言ったから、今のは見逃す」
美月は、ほっとしたような、余計に恥ずかしくなったような顔をした。
「……見逃す、という言い方は」
「じゃあ、今日は保留」
「それも嫌です」
「でも、忘れる気はない」
「忘れてください」
「無理」
理久は楽しそうに笑った。
でも、近づいてはこなかった。
美月が明らかに限界だと分かっているからだろう。
その余裕が、また腹立たしい。
いや、ありがたい。
ありがたいけれど、腹立たしい。
美月は立ち上がった。
「寝ます」
「逃げた」
「寝ます」
「はい」
美月はリビングを出ようとした。
扉の前まで行って、手をかける。
そのまま出ていけばよかった。
いつも通り。
何も言わずに、逃げてしまえばよかった。
でも、足が止まった。
美月は、少しだけ振り返った。
理久はソファに座ったまま、こちらを見ている。
追いかけてくるわけでもない。
からかうわけでもない。
ただ、静かに美月を見ていた。
その視線を受け止めきれなくて、美月はすぐに目を逸らした。
心臓が、またうるさくなる。
声が小さくなった。
「おやすみなさい……りく」
言った。
言ってしまった。
理久の反応を見る勇気はなかった。
美月はそのまま逃げるようにリビングを出た。
扉が閉まる。
廊下を歩きながら、美月は両手で顔を覆いたくなった。
無理。
本当に無理。
キスをした。
先生って言った。
理久と呼んだ。
一晩に情報量が多すぎる。
明日も勤務なのに。
本当に勤務なのに。
寝られる気がしない。
寝室に入ってドアを閉めた瞬間、美月はその場にしゃがみ込みそうになった。
唇に、そっと指を当てる。
軽く触れただけだった。
でも、確かに初めてだった。
理久のキス。
理久の声。
息して。
今日はここまで。
思い出しただけで、顔が熱くなる。
「……最悪」
小さく呟いた。
けれど、その声には、さっきまでのような困惑だけではないものが混じっていた。
嫌ではなかった。
怖くもなかった。
ただ、分からなかった。
どうしていいか。
どこに気持ちを置けばいいか。
でも、逃げたくなかった。
だから、名前を呼んだ。
おやすみなさい、りく。
もう一度思い出して、美月は布団に顔を伏せた。
無理。
本当に、今日は無理。
* * *
リビングに残された理久は、しばらく動けなかった。
扉が閉まったあとも、視線はそのままだった。
おやすみなさい……りく。
小さな声。
目を逸らしたままの、逃げるような呼び方。
それなのに、確かに聞こえた。
理久。
初めて、美月が名前を呼んだ。
理久はゆっくり片手で口元を覆った。
「……反則だろ」
自分で仕掛けたはずだった。
二人でいる時に先生と呼んだら、キス。
名前で呼ばせるための、少し意地の悪い条件。
どちらを選んでも、自分が嬉しいように作ったはずだった。
それなのに、美月はあえて先生と呼んだ。
キスのあと、息を止めるほど固まって。
今日はここまで、と言えば、本気で不思議そうな顔をして。
最後に、逃げる直前で名前を置いていった。
理久はソファに深く座り直した。
軽いキスだけで止めた自分を、心底褒めたい。
もう一度、名前を呼んでほしい。
今すぐ確かめたくなる気持ちを、理性で押さえ込む。
駄目だ。
今日はここまで。
自分で言った。
それでいい。
それが正解だった。
分かっている。
分かっているのに。
おやすみなさい、りく。
また、声が頭の中で再生される。
理久は低く笑った。
完全に負けた。
キスをしたのはこちらなのに。
仕掛けたのもこちらなのに。
最後に全部持っていったのは、美月だった。
本当に、敵わない。
しばらく理久は、閉じた扉の向こうに消えた声だけを、何度も思い出していた。