光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第35話 先生って言ったら

翌日、美月は日勤だった。

朝、家を出る時、理久には会わなかった。

それが少しありがたくて、少しだけ気になった。

リビングの灯りは消えていて、テーブルの上には何も置かれていない。

昨夜、理久が座っていたソファも、何事もなかったように整っていた。

本当に、何もなかったみたいだった。

低い声。

近すぎる距離。

ソファの背に置かれた手。

日本酒の匂い。

好きって言ってよ。

思い出した瞬間、美月は鍵を持つ手に力を入れた。

無理。

朝から思い出す内容ではない。

今日は日勤。

仕事。

美月はそう自分に言い聞かせ、部屋を出た。

病棟に出れば、いつも通りだった。

申し送りを受け、患者の状態を確認し、点滴の時間を見て、医師の指示を確認する。

後輩に声をかけ、ナースコールに対応し、電子カルテを開く。

10Aの一日は、相変わらず慌ただしい。

考える暇がないことに、美月は少し救われていた。

病棟では、美月は綾瀬さんでいられる。

藤崎理久の恋人ではなく、10Aの看護師として立っていられる。

その方が楽だった。

少なくとも、今は。

午後、外科の医師が病棟に来た。

ナースステーションの空気が、ほんの少しだけ変わる。

誰が来たのかは、見なくても分かった。

けれど、美月は顔を上げなかった。

電子カルテの画面を見たまま、記録を続ける。

ここでは見ない。

目で追わない。

恋人になったからこそ、余計に。

病棟では、藤崎先生と綾瀬さん。

それ以上でも、それ以下でもない。

「お疲れさまです」

穏やかな声がした。

白衣の藤崎先生の声。

美月は手元の記録を一区切りつけてから、必要な分だけ顔を上げた。

「お疲れさまです」

視線は短く。

表情は変えない。

理久も、いつもの藤崎先生の顔をしていた。

誰にでも感じがよく、品があって、距離の取り方が完璧な外科医。

外科へコンサルトしている患者の処置時間の調整だった。

「午後の処置ですが、十五時半でお願いできますか。こちらが少し押していて」

「分かりました。患者さんにはこちらからお伝えしておきます」

「ありがとうございます」

たったそれだけ。

仕事の会話。

必要なことだけ。

理久はすぐに外科レジデントへ声をかけ、病棟の奥へ向かった。

美月はその背中を見なかった。

見ない。

周囲に何も残さないために。

自分の仕事を守るために。

そして、理久が守ろうとしてくれている距離を、自分も壊さないために。

美月は電子カルテの画面へ視線を戻した。

指先は、少しも止めなかった。

勤務が終わり、更衣室で着替えていると、スマートフォンが震えた。

理久からだった。

『今日、少し話せる?』

美月は画面を見つめた。

昨日のことだ。

分かっている。

避けたい。

かなり避けたい。

でも、同じ部屋に戻る以上、避け続ける方が不自然だった。

美月は少し迷ってから返信した。

『十五分以内なら』

すぐに返事が来た。

『短いな』

美月は、少しだけ口元を緩めた。

『反省は簡潔にお願いします』

少し間が空いてから、返事が来た。

『了解』

その二文字だけだった。

部屋に戻ると、リビングの灯りがついていた。

「おかえり」

理久は、昨日と同じようにそう言った。

けれど、声の温度は違った。

今日は酔っていない。

それは、玄関からでも分かった。

白いシャツに、濃い色のカーディガン。

髪も整っている。

テーブルには、空のカップが二つと、焼き菓子の皿が置かれていた。

キッチンの方から、コーヒーの香りがする。

美月は靴を脱ぎながら返した。

「……戻りました」

リビングへ入ると、理久はダイニング側に立っていた。

近すぎない。

逃げ道を塞がない。

それが分かって、美月は少しだけ肩の力を抜いた。

「コーヒー、飲む?」

「はい」

「カフェイン大丈夫?」

「今からなら、たぶん」

「じゃあ、淹れる」

理久はそう言って、キッチンへ戻った。

美月は鞄を置き、少し迷ってからダイニングの椅子に座った。

テーブルを挟む距離。

昨日よりずっと安全だった。

それでも、胸は落ち着かなかった。

しばらくして、理久がコーヒーを二つ運んできた。

美月はカップを受け取る。

温かい。

湯気が、少しだけ顔に当たる。

理久は向かいに座った。

そして、先に口を開いた。

「昨日は、ごめん」

美月はカップを持つ手を止めた。

「酔ってたから、では済ませない。嫉妬してたから、でも済ませない」

静かな声だった。

「美月を困らせた」

美月は、少しだけ視線を落とした。

「……困りました」

「うん」

「驚きました」

「うん」

「でも、止まりました」

理久の目が少しだけ動く。

美月はカップを置いた。

「だから、それ以上は言いません」

「それでいいの?」

「よくはないです」

美月は正直に答えた。

「でも、先生が本当に悪いと思っているのは分かります」

理久は、少し苦笑した。

「……先生」

美月は一瞬、何のことか分からなかった。

「え?」

「いや」

理久は首を横に振った。

「今はまだいい」

「何ですか」

「あとで言う」

美月は少し眉を寄せた。

こういう言い方は、だいたい良くない。

でも今は、先に言うべきことがある。

美月は小さく息を吸った。

「私も、昨日の言い方はよくありませんでした」

理久は何も言わなかった。

「先生を、顔や雰囲気で勝手に決めつけるような言い方でした」

そこまで言って、美月は少し恥ずかしくなった。

自分で言うと、余計に最低だ。

「すみませんでした」

理久は、しばらく黙っていた。

それから、静かに言った。

「……少し、堪えた」

美月の胸が、きゅっと縮む。

軽く言われるより、ずっと刺さった。

「……はい」

「でも、そう感じたからって、ああいうふうに返していいわけじゃない」

理久は、まっすぐ美月を見た。

「そこは本当にごめん」

美月は頷いた。

「分かりました」

そこで、少し沈黙が落ちた。

重い沈黙ではなかった。

昨日の夜のような危うさもない。

ただ、二人とも、言葉を探している沈黙だった。

美月はコーヒーを一口飲んだ。

苦味が少し強い。

でも、香りがいい。

「おいしいです」

ぽつりと言うと、理久が少しだけ目を細めた。

「よかった」

「豆は正解です」

「豆は?」

美月は、カップで口元を隠した。

「……反省会中なので、余計なことは言いません」

理久が小さく笑った。

その笑い方に、美月は少しだけ安心した。

昨日の夜の笑い方ではない。

いつもの理久に近い。

けれど、病棟の藤崎先生よりは少し柔らかい。

理久はカップを置いた。

「じゃあ、反省会はここまで」

「十五分以内でしたか」

「たぶん」

「たぶん?」

「反省は簡潔に、って言われたから」

「守ったんですね」

「うん」

少しだけ、空気が戻った気がした。

それ以上、昨日のことを掘り返す空気ではなくなった。

けれど、なかったことにしたわけでもない。

二人の間に、少しだけ新しい距離が残った。

そのあと、二人はリビングのソファへ移動した。

テレビはついているが、音量は小さい。

内容はほとんど頭に入ってこない。

距離は近すぎない。

でも、遠くもない。

美月は膝の上にクッションを置き、何となくそれを抱えた。

理久は隣で、少しだけ頬杖をつくようにしてこちらを見る。

「ねぇ」

「はい」

「俺は、ここでも先生なの?」

美月は首を傾げた。

「ここでも、とは?」

「病院の外。家の中。二人でいる時」

理久は美月を見る。

「先生と、美月?」

美月は言葉に詰まった。

「……」

「名前で呼んでほしいんだけど」

「名前……」

「うん」

「藤崎先生、ではなく?」

「それは病院用」

理久は少し笑った。

「ここでは、理久って呼んでほしい」

美月は固まった。

来た。

いつか来るとは思っていた。

でも、来てほしくはなかった。

「……り」

「うん」

「り……」

「うん」

「……」

「惜しい」

「ハードルが高いです」

「たった二文字なのに?」

「かなり高いです」

「美月は真面目だね」

「真面目というか……病院でずっと先生と呼んでいますし」

「病院では、それでいい」

理久はあっさり言った。

「そこは変えない。むしろ、変えないでほしい」

美月は少しだけ顔を上げた。

「……はい」

「でも、ここでは違う」

理久の声が少し柔らかくなる。

「ここでは、理久って呼んでほしい」

また、逃げ道を塞ぐような言い方をする。

でも昨日とは違う。

酔っていない。

傷ついた反動でもない。

ちゃんと自分の言葉で、距離を詰めてきている。

それが分かるから、余計に困る。

美月が黙っていると、理久は少し考えるように目を細めた。

「じゃあ、条件をつけようか」

美月は嫌な予感がした。

「条件?」

「二人でいる時に先生って呼んだら、キスね」

美月は完全に止まった。

「……はい?」

「二人でいる時に、先生って呼んだら、キス」

「どうしてそうなるんですか」

「名前で呼べば解決する」

「解決の仕方が強引です」

「そう?」

理久は楽しそうに笑う。

「嫌なら理久って呼べばいい」

美月は理久を見た。

この人。

また盤面を作っている。

名前で呼べば、理久は喜ぶ。

先生と呼べば、キスの理由になる。

どちらを選んでも、理久が困ることはない。

つまり、最初から理久が勝つようにできている。

本当に。

相変わらず策士だ。

美月はクッションを抱え直した。

「……どちらを選んでも、先生が得をするだけでは?」

理久の目が、少しだけ楽しそうに緩んだ。

「気づいた?」

「気づきます」

「じゃあ、どうする?」

美月は黙った。

普通に考えれば、ここは避けるところだ。

先生と呼ばないようにする。

名前で呼べるように努力する。

理久の作った盤面の中で、できるだけ安全な方を選ぶ。

でも、それでは悔しい。

また理久の手のひらの上だ。

美月は、心臓が速くなるのを感じながら、少しだけ息を吸った。

そして、理久を見た。

「……先生」

理久の表情が、一瞬止まった。

本当に、一瞬だった。

けれど美月には分かった。

予想外だったのだ。

「今、わざと?」

低い声だった。

美月はクッションを抱えたまま、視線を逸らさなかった。

「先生が、そういう条件にしたんでしょう」

理久は黙った。

その沈黙が、妙に長く感じた。

美月の心臓がうるさい。

自分で言った。

あえて言った。

分かっていて、言った。

逃げ道を塞がれたから、逆にその道を選んだ。

理久の作った盤面を、少しだけひっくり返したかった。

でも、ひっくり返した瞬間、自分がどこに立っているのか分からなくなった。

理久が、ゆっくり笑った。

その笑みは、いつもの余裕とは少し違っていた。

驚きと、楽しさと、どうしようもなく惹かれているものが混ざっているような顔。

「本当に、敵わないな」

そう言って、理久が少し近づいた。

美月の指に、力が入る。

「美月」

名前を呼ばれて、胸が跳ねた。

「どういう意味か、分かって言った?」

「……先生が決めた条件です」

「うん」

理久の声が低くなる。

「じゃあ、約束だから」

美月は息を止めた。

理久の手が、そっとクッションに触れる。

奪うのではなく、問いかけるように。

美月は一瞬だけ迷った。

それから、抱えていたクッションを、ゆっくり手放した。

理久の目が、ほんの少し揺れた。

今度は、美月が逃げ道を消した。

リビングのテレビの音が、遠くなる。

昨日とは違う。

理久は酔っていない。

美月も、勤務を理由にはしなかった。

ただ、名前を呼ぶ代わりに。

あえて、先生と呼んだ。

理久が、静かに近づく。

「……目、閉じて」

低い声が、すぐそばで聞こえた。

美月は、息を吸う。

閉じられるわけがない。

そう思ったのに、理久の顔が近づくにつれて、自然にまぶたが震えた。

ここから先をどうしていいのか、分からない。

でも、分からないまま逃げるのは、今日は少し違う気がした。

理久が、もう一度だけ囁く。

「怖かったら、止めて」

美月は小さく首を横に振った。

理久の気配が、さらに近づいた。

そして、美月は目を閉じた。
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