光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第5話 仕事中だけは、騙されない

10A病棟に、外科の術後患者が入院してくることになった。

その日のナースステーションは、朝から少し慌ただしかった。

週明けの入退院。
検査出し。
点滴更新。
退院前カンファレンス。

そして、午後から上がってくる予定の術後患者。

「今日、外科のオペ後入るって」

日勤帯のナースステーションで、後輩がそう言った。

「え、外科?」

別の看護師が反応する。

「うん。午後に上がってくるらしいよ。術後管理、こっちで見るって」

美月は電子カルテを開きながら、少しだけ嫌な予感がした。

いやいや。

まさかね。

外科医なんて何人もいる。

大学病院の外科なのだから、担当医も後期研修医もスタッフもたくさんいる。

ピンポイントで来るわけがない。

そう思いながら、患者一覧を確認する。

術式。
麻酔時間。
帰室予定。
術後指示。
安静度。
疼痛時指示。
ドレーンの有無。
発熱時の連絡基準。

仕事は仕事だ。

誰が来るかなんて関係ない。

そう思った数分後、ナースステーションの空気が一瞬で変わった。

「……来た」

誰かが小さく言った。

美月は反射的に顔を上げそうになり、それをこらえた。

見ない。

私は関係ない。

外科の先生が来ただけ。

そう思いながらも、周囲のざわつきが耳に入る。

「藤崎先生だ」
「今日こっち来るんだ」
「包交あるって言ってなかった?」
「介助、誰入る?」
「え、見たい」

美月は、ゆっくり視線を上げた。

白衣の藤崎理久が、外科の後期研修医らしき医師と一緒に病棟へ入ってきていた。

穏やかな表情。
柔らかい声。
完璧な距離感。

エレベーターで人の頬のすぐ横に指を止めて、楽しそうに笑っていた男とは思えないくらい、見事に外科医の顔をしている。

「10Aさんで術後管理をお願いしている患者さんの件で、少し処置に入ります」

その一言だけで、ナースステーションがまた少し浮ついた。

「藤崎先生だ……」
「近くで見ると本当に綺麗」
「処置、誰入るの?」

主任が、すぐに低い声で言った。

「仕事しなさい」

ナースステーションが一瞬静かになる。

けれど数秒後には、また小声が漏れる。

「包交、誰入る?」
「私、今手空いてる」
「え、ずるい」
「いや、記録終わってないでしょ」

美月は完全に他人事の顔で、電子カルテに向かった。

関係ない。

私は関係ない。

あんな人は知らない。

その時、主任の声が飛んできた。

「綾瀬さん、入って」

美月の手が止まった。

「……私ですか」

「あなたが一番落ち着いてるから」

げっ。

落ち着いているのではない。

関わりたくないだけだ。

けれど、仕事なので断れない。

「分かりました」

美月は、できるだけいつも通りの声で答えた。

処置車を準備しながら、後輩たちの視線が刺さる。

「綾瀬さん、いいなぁ」
「羨ましい」

美月は心の中でため息をついた。

羨ましくない。

全然、羨ましくない。

むしろ代わってほしい。

でも、もちろん口には出さなかった。

* * *

個室の前で、美月は一度だけ小さく息を吸った。

処置車を押して入室する。

藤崎理久は、すでに患者と家族に説明を終えていた。

「創部の状態を確認します。少しテープを剥がす時に引っ張られる感じがありますが、痛みが強ければすぐ言ってください」

声は穏やかだった。

患者も家族も、安心したように頷いている。

その顔がまた、腹立たしいほど紳士的だった。

患者にも家族にも、看護師にも、誰にでも同じように柔らかい。

みんな、絶対に騙されている。

美月は無表情のまま、処置の準備を始めた。

「ガーゼ、開けます」
「お願いします」

声だけは普通。

仕事だから。

仕事だから大丈夫。

器械台に必要物品を並べる。

手袋。
鑷子。
滅菌ガーゼ。
消毒。
固定テープ。
廃棄物入れ。

美月は淡々と手を動かした。

患者の表情を見ながら、物品の位置を整える。
医師の利き手側に鑷子。
ガーゼはすぐ取れる位置。
テープは剥がしやすいように端を少し折る。

こういう準備は、会話より正直だ。

誰と仕事をするかより、患者にとって安全かどうか。
それだけを考えていればいい。

そう思っていたのに。

藤崎理久が手袋をつけながら、ほんの少しだけ美月の方へ視線を寄せた。

患者には聞こえないくらいの声で言う。

「駅ビルの時も思いましたけど」

美月の手が、わずかに止まった。

「……何ですか」

「指示、短くて分かりやすいですよね」

美月は、目だけで藤崎を睨んだ。

「今、それ言います?」

藤崎理久は、平然とガーゼを受け取りながら、口元だけで笑った。

「思い出したので」
「仕事中です」
「うん。だから小声」

なんつー男。

本当に、なんつー男。

美月は患者に聞こえないよう、低く返した。

「必要な処置をしてください」
「はい。綾瀬さんの指示なので」
「そういう意味ではありません」

藤崎は、ほんの少しだけ笑った。

けれど次の瞬間には、完全に仕事の顔へ戻る。

「創部確認します。少し引っ張られる感じがあります」

手つきは正確だった。

テープを剥がす角度。
創部周囲の皮膚を見る目。
ガーゼに付着した滲出液を確認する速さ。

どれも迷いがない。

それでいて、患者を急かさない。

「痛み、今どれくらいですか」
「少し引っ張られるくらいです」
「分かりました。すぐ終わります」

声かけは丁寧。

患者の表情を見る目も早い。

後期研修医へ出す指示も短く、分かりやすい。

「発赤は軽度。滲出液は少量。感染兆候は今のところ目立ちません」
「明日も同じように確認します」
「発熱、疼痛増強、滲出液増加があれば外科へ連絡してください」

美月は介助しながら思った。

こういうところ。

こういうところで、みんな騙される。

でも同時に、認めざるを得ない。

仕事は、できる。

しかも、処置中の空気の作り方がうまい。

患者を不安にさせない。
家族を置いていかない。
後輩医師に指示を出しても、無駄に威圧しない。

こういう医師は、現場ではやりやすい。

それもまた、腹立たしい。

処置が終わり、藤崎理久は手袋を外した。

「ありがとうございました」

患者には、いつもの柔らかい笑顔。

家族にも簡潔に今後の注意点を説明する。

「今日の状態としては問題ありません。食事や離床については主治医と病棟で確認しながら進めます。何か気になることがあれば、看護師さんへ伝えてください」

美月は処置物を片付けながら、最後の確認をした。

「包交物品、下げます」
「お願いします」

病室を出る。

廊下に出た瞬間、美月は小声で言った。

「さっきの、性格悪いです」

藤崎はカルテを確認しながら、少しだけ笑う。

「褒め言葉?」
「違います」
「でも、ちゃんと覚えてたでしょ」
「忘れたいんですけど」
「俺は結構気に入ってる」

美月は足を止めた。

「何をですか」

藤崎理久が、少しだけこちらを見る。

「俺のこと、知らない人扱いしたところ」

軽い言い方だった。

けれど、少しだけ本音っぽかった。



美月はすぐに視線を逸らした。

「実際、知らなかったので」
「今は?」
「……知りたくなかったです」

藤崎は声を出さずに笑った。

「ひどいな」
「事実です」
「じゃあ、少しずつで」
「何がですか」
「知っていくの」

美月は即答した。

「遠慮します」

藤崎理久は、またあの余裕のある顔で笑う。

「三回言う?」

美月は黙った。

腹立つ。

本当に、腹立つ。

あの職員用エレベーターでのやり取りを、また引っ張ってくるなんて。

こちらの反応を見て、面白がっているのが分かる。

美月は処置車を押しながら、何も言わずにナースステーションへ戻った。

* * *

戻るなり、後輩たちに囲まれた。

「どうでした?」
「藤崎先生、近くで見るとやばくないですか?」
「優しかったですか?」
「包交うまかった?」
「声、穏やかでした?」

主任が再び一喝する。

「仕事しなさい!」

後輩たちは散っていく。

でも、完全には散らない。

小声でまだ騒いでいる。

「やっぱり藤崎先生ってすごいよね」
「綾瀬さん、全然動じてなかった」
「さすが」
「私だったら無理」

美月は処置記録を開きながら、心の中で思った。

みんな、絶対に騙されている。

あの人は外では紳士。

でも、二人になると全然違う。

いや。

二人になったから違うのか?

そこまで考えて、美月はすぐに打ち消した。

違う。

考えない。

私は騙されない。

絶対に。

処置記録を入力する。

創部発赤軽度。
滲出液少量。
疼痛訴え軽度。
包交実施。
医師より、発熱・疼痛増強・滲出液増加時は外科へ連絡指示あり。

ただの記録。

仕事。

それだけ。

少しして、後期研修医がナースステーションへ戻ってきた。

「先ほどの術後の方ですが、次回の包交は明日午前でお願いします。指示はカルテに入れてあります」

美月は顔を上げた。

「分かりました」

その後期研修医の後ろに、藤崎理久がいた。

目が合う。

ほんの一瞬。

藤崎は、周囲には分からないくらい小さく会釈した。

「介助、ありがとうございました」

普通の言葉。

外科医として、看護師へ向けた礼。

それだけ。

なのに、さっきの廊下での声が重なる。

少しずつで。

知っていくの。

美月は表情を変えないようにして、軽く頭を下げた。

「お疲れ様です」

藤崎理久は、それ以上何も言わなかった。

そのまま後期研修医と一緒に病棟を出ていく。

後輩たちがまた小声で言う。

「最後までかっこいい」
「綾瀬さん、普通に対応できるのすごい」
「いや、仕事だからでしょ」

美月は画面を見たまま、静かに息を吐いた。

仕事だから。

そう。

仕事だから普通にできる。

けれど、エレベーターで頬のすぐ横に止まった指先と、さっきの小声のやり取りが、なかなか消えない。

触れられたわけではない。

それなのに、あの距離だけが妙に残っている。

本当に、なんつー男。

美月は処置記録を保存し、次の業務へ移った。

私は騙されない。

そう心の中で繰り返しながら。

それでも、病棟を出ていく白衣の背中を、ほんの一瞬だけ目で追ってしまったことは、誰にも言わないでおこうと思った。
< 5 / 14 >

この作品をシェア

pagetop