光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第51話 秘密の味方
師長に相談してから、数日が過ぎた。
まだ、何かが具体的に決まったわけではない。
退職するのか。
休職という形があるのか。
時期はどうするのか。
そもそも、自分が本当に10Aを離れるのか。
何も決定していない。
けれど、一度言葉にしたことで、胸の中にあった重さは少しだけ形を変えていた。
不安が消えたわけではない。
ただ、ひとりで抱え込んでいた時より、自分が何を怖がっているのかは見え始めていた。
その日、美月は準夜勤だった。
準夜勤の10Aは、日勤とは違う空気をしている。
面会時間が終わり、病棟は少しずつ夜へ向かっていく。
日中のような慌ただしさはない。
けれど、静けさの中に気を抜けない緊張がある。
美月はいつも通り、ひとつずつ確認していった。
休憩に入れたのは、予定より少し遅い時間だった。
軽く食べられるものを買おうと思い、美月は院内のコンビニへ向かった。
夜の院内コンビニは、昼間とはまるで違う。
棚の前に立つ人も少なく、レジ横の照明だけがやけに明るく見える。
美月はおにぎりをひとつと、温かいお茶を取った。
その時、隣の棚の前から軽い声がした。
「綾瀬」
顔を上げると、及川が立っていた。
白衣のポケットに片手を入れ、もう片方の手でおにぎりを取ろうとしている。
「及川くん」
「今日、準夜?」
「見れば分かるでしょう」
「分かるけど、確認」
及川は棚からおにぎりをひとつ取った。
「終わったら飯行かない?」
美月はおにぎりを持ったまま、少しだけ目を細めた。
「準夜明けですよ」
「だから、ちゃんと食べて帰れって話」
「及川くんに言われると、説得力があるような、ないような」
「あるだろ」
「微妙です」
及川は笑って、おにぎりを手の中で軽く持ち直した。
「この前の話も、少し聞きたいし」
美月の手が止まった。
この前の話。
10Aを離れるかもしれない、と言ったこと。
「……それは、勤務明けにする話ですか」
「飯食いながらなら、少しは重くならないだろ」
「及川くんがいる時点で、重くはなりにくいでしょうね」
「今の褒めた?」
「いいえ」
「即答だな」
美月は少しだけ息を吐いた。
嫌ではなかった。
けれど、簡単に頷く気にもなれなかった。
自分の中でまだ整理しきれていないものを、誰かに聞かれるのは少し怖い。
及川相手ならなおさら、軽く見抜かれそうで困る。
「考えておきます」
「それ、だいたい来ない時の返事じゃん」
「分かっているなら聞かないでください」
及川が何か言い返そうとした時、白衣のポケットで院内端末が鳴った。
短い電子音が、コンビニの明るい空気を切る。
及川は画面を見て、顔をしかめた。
「呼ばれた」
「行ってください」
「冷たい」
「業務です」
「また連絡する」
「無理なら返しません」
「じゃあ、返したら来るってことで」
「そうは言っていません」
及川は返事を聞かずに、軽く手を上げてコンビニを出ていった。
美月はしばらくその背中を見ていた。
相変わらず唐突で、雑で、こちらの都合を聞いているようで聞いていない。
けれど、及川が「この前の話」と言った時の声は、いつもより少しだけ真面目だった。
美月は手元のおにぎりに視線を落とす。
行かない。
そう思ったはずなのに、胸の奥には小さな引っかかりが残った。
その後の勤務は、大きなトラブルなく進んだ。
急変はなかった。
けれど、準夜明けには身体の奥に疲労が残る。
記録を終えて更衣室へ向かう頃、美月はようやく空腹に気づいた。
スマートフォンが震えたのは、その時だった。
及川からだった。
『10分後、裏門。
さっきの続き。
腹減ってるだろ。』
美月は画面を見つめた。
「……結局、命令形」
小さく呟いて、返信する。
『少しだけなら。』
送信してから、すぐに後悔した。
どうせ及川は「少しだけ」を守らない。
美月は更衣室へ向かった。
制服から私服に着替え、最低限の身だしなみを整える。
鏡に映る自分は、完全に準夜明けの顔をしていた。
外に出るなら、せめて少しだけ整えておきたい。
美月は薄く口紅を塗り、すぐにポーチを閉じた。
裏門へ向かう廊下は、夜の病院特有の静けさがあった。
日中とは違い、人の気配が少ない。
蛍光灯の光が少し冷たく、外へ近づくほど夜風の気配が強くなる。
裏門が見えた。
その先に、男のシルエットが二つ。
一人はすぐに分かる。
立ち方がやたらと軽い及川。
もう一人は、少し離れて立っている理久だった。
美月は足を止めかけた。
聞いていない。
及川は片手を上げた。
「遅い」
「10分後と言ったのは及川くんです」
美月が返した瞬間、理久がこちらを見た。
少し驚いたような表情だった。
その顔を見て、美月はすぐに分かった。
理久も、自分が来ることを知らなかったのだ。
「及川、スペシャルゲストって……綾瀬さんのこと?」
理久の小さな声が聞こえた。
美月は聞こえなかったことにした。
及川は悪びれない。
「準夜明けの綾瀬を回収しました」
「回収って何ですか」
美月が睨むと、及川は肩をすくめた。
「腹減ってるだろ」
「それは否定しませんけど」
美月が小さく返すと、理久が隣で苦笑した。
「及川、せめて事前に説明して」
「説明したら来ないじゃないですか、二人とも」
「自覚はあるんだね」
理久が静かに言う。
及川は胸を張った。
「あります」
「威張るところではありません」
美月が言うと、及川は笑った。
理久の顔は、すぐにいつもの外向きのものへ変わる。
「綾瀬さん、お疲れ様」
藤崎先生の声。
落ち着いていて、丁寧で、少し距離がある。
美月は内心で少しだけ笑いそうになった。
この切り替えは、いつ見ても見事だ。
「お疲れ様です」
職場の外。
でも、まだ病院の敷地内。
及川がいる。
だから、美月も綾瀬看護師の顔をする。
及川が得意げに言った。
「いやー、働いた後は食べないと。藤崎先生も腹減ってるし、綾瀬も腹減ってる。つまり平和」
「勝手にまとめないでください」
美月が返す。
「いいじゃん。どうせ帰っても何も食べないだろ」
「食べます」
「何を」
「……何か」
「ほら」
及川はさっさと歩き出した。
美月は呆れながら後を追う。
理久はその様子を見て、少しだけ笑っていた。
三人で病院から少し離れた、小さな飲み屋に入った。
遅い時間でも開いている店だった。
派手さはない。
でも、温かい照明と、少し油の香りがする空気が、準夜明けの身体には妙に染みる。
「こっちこっち」
及川が奥の席へ向かう。
そして、当然のように理久の隣を指した。
「綾瀬、こっち」
「なぜそこを指定するんですか」
「準夜明けの人は奥。藤崎先生はその隣。俺は入口側」
「勝手に決めないでください」
「まあまあ、座って座って」
「雑ですね」
「及川采配です」
「信用できません」
美月は呆れながらも、結局理久の隣に座った。
理久は何も言わない。
ただ、自然にメニューを美月の方へ少し寄せる。
「何食べる?」
その声も、対外的には普通だった。
丁寧すぎず、近すぎず。
美月は少しだけ理久を見た。
「……何でも」
「準夜明けの何でもは、一番困るやつだね」
「お腹が空きすぎて決められません」
「じゃあ、温かいもの頼もうか」
及川が向かい側でにやにやしている。
「何だよ、その自然なやり取り」
美月はすぐにメニューを見るふりをした。
「普通です」
「普通じゃねぇよ」
「及川くんも、注文係なら早く決めてください」
「扱いの差がすごい」
「日頃の行いです」
「刺さる」
理久が小さく笑った。
ビールが運ばれてくる。
グラスが三つ。
及川が声を少し落として、やたら楽しそうに持ち上げた。
「じゃあ」
嫌な予感がした。
「藤崎先生と綾瀬に乾杯」
美月はグラスを持ったまま固まった。
理久も、グラスを持つ手を一瞬止めた。
及川は楽しそうに笑っている。
「先生、隠しても無理っすよ」
理久は黙って及川を見る。
美月も、チラッと理久を見た。
理久の表情は穏やかだった。
でも、目だけが少しだけ細くなっている。
美月は小さく息を吐いた。
「及川くん、今回は踏み込んできたんですね」
「さすがにな」
「前回は思いとどまって、胸の内に秘めていたのに?」
「それは、触れたら俺が刺されそうだったから」
「身の危険を冒してまで、今回は踏み込んだわけですか」
「綾瀬が分かりやすいからな」
「どこがですか?」
「病棟で藤崎先生のことを考えてる顔をしてた」
「してません」
即答した。
けれど、顔が熱くなる。
理久が横で、少しだけ笑っている気配がした。
「り……藤崎先生も笑わないでください」
危ない。
呼び方を間違えそうになった。
及川はそれも聞き逃さなかった。
「今、り、って言いかけたよな」
「言ってません」
美月は即答した。
「言った」
「疲労です」
「疲労、便利すぎ」
及川が笑う。
理久は観念したように、グラスを置いた。
「及川」
「はい」
「どこまで気づいてる?」
及川は少しだけ真面目な顔になった。
「屋形船の時には、藤崎先生が綾瀬を特別に見てるのは分かりました」
美月は黙った。
理久も否定しなかった。
「触れるなって言ってきたじゃないですか」
理久は目を細めて、及川を見た。
「あの時は、何でそこまで言うのかと思いましたけど」
及川は美月を見る。
「思い返すと、先生はずっと、綾瀬のことを見てないようで見てたんですよね」
美月は目を伏せた。
「その後、綾瀬に聞いたら、否定されなかったし」
「……それで?」
「そうなんだなって、確信しました」
及川は肩をすくめる。
「その後も、先生は何もないように振る舞ってたし、綾瀬も病棟ではきっちり距離を取ってたから、俺も触れないようにしてましたけど」
一度言葉を切って、及川は理久と美月を交互に見た。
「さすがに、もう無理です」
理久の目が、少しだけ動いた。
「何か、ありましたよね」
理久は少しだけ黙った。
それから、一度、美月を見た。
「言ってもいい?」
美月は少しだけ迷った。
けれど、及川の目はもう茶化していなかった。
美月は小さく頷く。
「うん」
理久は及川へ向き直った。
「美月さんと婚約した」
及川が、数秒固まった。
本当に、珍しく何も言わなかった。
それから、ゆっくり美月を見る。
「……マジで?」
美月は小さく頷いた。
「うん」
及川は今度は理久を見る。
「それ、病棟には」
「まだ言っていない」
理久が答える。
「留学の可能性も含めて、美月さんの仕事のことは、これから順番に相談していく」
及川は黙った。
その表情から、この前病棟で交わした会話を思い出しているのが分かった。
10Aを離れる可能性を、考えています。
美月が言った言葉。
及川は、グラスを見つめながら小さく息を吐いた。
「そっか」
それだけだった。
けれど、その一言は軽くなかった。
「だからか」
美月は及川を見る。
「何がですか」
「この前の顔」
及川は少しだけ笑った。
「腹決める前の顔って言っただろ」
「……まだ決めたわけじゃないです」
「分かってる」
及川は頷いた。
「でも、そういうことかって思っただけ」
それから、及川は一度だけ理久を見た。
何か言いかけたように見えた。
けれど、結局言わなかった。
理久と美月の間に、及川が口を挟むことではない。
たぶん、そう思ったのだ。
及川はビールを一口飲み、いつもより少しだけ低い声で言った。
「誰にも言わねぇよ」
美月は何も言えなかった。
「婚約のことも、10Aのことも。綾瀬が話す前に、俺が勝手に言うことじゃないだろ」
美月が黙っていると、及川は少しだけ眉を上げた。
「疑ってる?」
「……少し」
「正直だな」
及川は箸で美月を指しそうになり、理久の視線に気づいて箸を下ろした。
「こう見えて、俺、綾瀬の味方だから」
美月は少し驚いた。
「……そうなんですか?」
「何だよ、その意外そうな顔」
「意外でした」
「おい」
理久が小さく笑った。
及川は少し不満そうにビールを飲む。
「まあ、先生の味方かは分かんないっすけど」
理久は落ち着いて答えた。
「美月の味方なら、それでいいよ」
及川は一瞬黙った。
それから、少しだけ目を逸らす。
「そういうこと言うから王子なんすよ」
「王子はやめて」
「無理っす」
「じゃあ、せめて人前では」
「ここ、身内しかいないじゃないすか」
及川はそう言って、グラスを持ち上げた。
「じゃあ、改めて」
理久と美月を見る。
今度は、さっきより少しだけ真面目な顔だった。
「婚約おめでとうございます」
美月の胸が静かに温かくなった。
「ありがとう」
理久もグラスを持つ。
「ありがとう」
三人のグラスが、軽く触れた。
小さな音がした。
及川はすぐにいつもの顔に戻る。
「で、いつから綾瀬は藤崎先生のこと“りく”って呼んでんの?」
美月はむせそうになった。
「ちょっと」
理久は横で笑っている。
「それは聞かなくていい」
「気になるじゃないすか」
「気にしなくていい」
「先生、独占欲出てますよ」
「出てるね」
「認めるんすか」
「隠す必要ないでしょ、ここでは」
美月は顔を覆いたくなった。
及川が大笑いする。
「うわ、やっぱ進展してる」
「及川くん、うるさいです」
「だって面白いだろ。病棟のクール綾瀬が」
「黙って食べてください」
「はいはい」
運ばれてきた温かい料理の湯気が、テーブルの上に広がる。
美月は箸を取った。
お腹が空いていたことを、ようやく思い出す。
理久が隣でさりげなく取り皿を渡してくれる。
及川はそれを見て、また何か言いたそうな顔をした。
けれど、今度は黙った。
美月は少しだけ笑った。
日常が戻ってきた。
でも、その日常は少しずつ変わっていく。
看護師としてこの病棟にいる時間。
及川とこうしてくだらない言い合いをする時間。
理久が藤崎先生の顔で隣にいる時間。
全部、いつか懐かしくなるのかもしれない。
美月は温かい料理を口に運びながら、左手を一瞬だけ意識した。
今は指輪はつけていない。
でも、そこには確かに重みが残っている。
そして、目の前の及川は、それを知った。
秘密がひとつ、味方になった夜だった。
まだ、何かが具体的に決まったわけではない。
退職するのか。
休職という形があるのか。
時期はどうするのか。
そもそも、自分が本当に10Aを離れるのか。
何も決定していない。
けれど、一度言葉にしたことで、胸の中にあった重さは少しだけ形を変えていた。
不安が消えたわけではない。
ただ、ひとりで抱え込んでいた時より、自分が何を怖がっているのかは見え始めていた。
その日、美月は準夜勤だった。
準夜勤の10Aは、日勤とは違う空気をしている。
面会時間が終わり、病棟は少しずつ夜へ向かっていく。
日中のような慌ただしさはない。
けれど、静けさの中に気を抜けない緊張がある。
美月はいつも通り、ひとつずつ確認していった。
休憩に入れたのは、予定より少し遅い時間だった。
軽く食べられるものを買おうと思い、美月は院内のコンビニへ向かった。
夜の院内コンビニは、昼間とはまるで違う。
棚の前に立つ人も少なく、レジ横の照明だけがやけに明るく見える。
美月はおにぎりをひとつと、温かいお茶を取った。
その時、隣の棚の前から軽い声がした。
「綾瀬」
顔を上げると、及川が立っていた。
白衣のポケットに片手を入れ、もう片方の手でおにぎりを取ろうとしている。
「及川くん」
「今日、準夜?」
「見れば分かるでしょう」
「分かるけど、確認」
及川は棚からおにぎりをひとつ取った。
「終わったら飯行かない?」
美月はおにぎりを持ったまま、少しだけ目を細めた。
「準夜明けですよ」
「だから、ちゃんと食べて帰れって話」
「及川くんに言われると、説得力があるような、ないような」
「あるだろ」
「微妙です」
及川は笑って、おにぎりを手の中で軽く持ち直した。
「この前の話も、少し聞きたいし」
美月の手が止まった。
この前の話。
10Aを離れるかもしれない、と言ったこと。
「……それは、勤務明けにする話ですか」
「飯食いながらなら、少しは重くならないだろ」
「及川くんがいる時点で、重くはなりにくいでしょうね」
「今の褒めた?」
「いいえ」
「即答だな」
美月は少しだけ息を吐いた。
嫌ではなかった。
けれど、簡単に頷く気にもなれなかった。
自分の中でまだ整理しきれていないものを、誰かに聞かれるのは少し怖い。
及川相手ならなおさら、軽く見抜かれそうで困る。
「考えておきます」
「それ、だいたい来ない時の返事じゃん」
「分かっているなら聞かないでください」
及川が何か言い返そうとした時、白衣のポケットで院内端末が鳴った。
短い電子音が、コンビニの明るい空気を切る。
及川は画面を見て、顔をしかめた。
「呼ばれた」
「行ってください」
「冷たい」
「業務です」
「また連絡する」
「無理なら返しません」
「じゃあ、返したら来るってことで」
「そうは言っていません」
及川は返事を聞かずに、軽く手を上げてコンビニを出ていった。
美月はしばらくその背中を見ていた。
相変わらず唐突で、雑で、こちらの都合を聞いているようで聞いていない。
けれど、及川が「この前の話」と言った時の声は、いつもより少しだけ真面目だった。
美月は手元のおにぎりに視線を落とす。
行かない。
そう思ったはずなのに、胸の奥には小さな引っかかりが残った。
その後の勤務は、大きなトラブルなく進んだ。
急変はなかった。
けれど、準夜明けには身体の奥に疲労が残る。
記録を終えて更衣室へ向かう頃、美月はようやく空腹に気づいた。
スマートフォンが震えたのは、その時だった。
及川からだった。
『10分後、裏門。
さっきの続き。
腹減ってるだろ。』
美月は画面を見つめた。
「……結局、命令形」
小さく呟いて、返信する。
『少しだけなら。』
送信してから、すぐに後悔した。
どうせ及川は「少しだけ」を守らない。
美月は更衣室へ向かった。
制服から私服に着替え、最低限の身だしなみを整える。
鏡に映る自分は、完全に準夜明けの顔をしていた。
外に出るなら、せめて少しだけ整えておきたい。
美月は薄く口紅を塗り、すぐにポーチを閉じた。
裏門へ向かう廊下は、夜の病院特有の静けさがあった。
日中とは違い、人の気配が少ない。
蛍光灯の光が少し冷たく、外へ近づくほど夜風の気配が強くなる。
裏門が見えた。
その先に、男のシルエットが二つ。
一人はすぐに分かる。
立ち方がやたらと軽い及川。
もう一人は、少し離れて立っている理久だった。
美月は足を止めかけた。
聞いていない。
及川は片手を上げた。
「遅い」
「10分後と言ったのは及川くんです」
美月が返した瞬間、理久がこちらを見た。
少し驚いたような表情だった。
その顔を見て、美月はすぐに分かった。
理久も、自分が来ることを知らなかったのだ。
「及川、スペシャルゲストって……綾瀬さんのこと?」
理久の小さな声が聞こえた。
美月は聞こえなかったことにした。
及川は悪びれない。
「準夜明けの綾瀬を回収しました」
「回収って何ですか」
美月が睨むと、及川は肩をすくめた。
「腹減ってるだろ」
「それは否定しませんけど」
美月が小さく返すと、理久が隣で苦笑した。
「及川、せめて事前に説明して」
「説明したら来ないじゃないですか、二人とも」
「自覚はあるんだね」
理久が静かに言う。
及川は胸を張った。
「あります」
「威張るところではありません」
美月が言うと、及川は笑った。
理久の顔は、すぐにいつもの外向きのものへ変わる。
「綾瀬さん、お疲れ様」
藤崎先生の声。
落ち着いていて、丁寧で、少し距離がある。
美月は内心で少しだけ笑いそうになった。
この切り替えは、いつ見ても見事だ。
「お疲れ様です」
職場の外。
でも、まだ病院の敷地内。
及川がいる。
だから、美月も綾瀬看護師の顔をする。
及川が得意げに言った。
「いやー、働いた後は食べないと。藤崎先生も腹減ってるし、綾瀬も腹減ってる。つまり平和」
「勝手にまとめないでください」
美月が返す。
「いいじゃん。どうせ帰っても何も食べないだろ」
「食べます」
「何を」
「……何か」
「ほら」
及川はさっさと歩き出した。
美月は呆れながら後を追う。
理久はその様子を見て、少しだけ笑っていた。
三人で病院から少し離れた、小さな飲み屋に入った。
遅い時間でも開いている店だった。
派手さはない。
でも、温かい照明と、少し油の香りがする空気が、準夜明けの身体には妙に染みる。
「こっちこっち」
及川が奥の席へ向かう。
そして、当然のように理久の隣を指した。
「綾瀬、こっち」
「なぜそこを指定するんですか」
「準夜明けの人は奥。藤崎先生はその隣。俺は入口側」
「勝手に決めないでください」
「まあまあ、座って座って」
「雑ですね」
「及川采配です」
「信用できません」
美月は呆れながらも、結局理久の隣に座った。
理久は何も言わない。
ただ、自然にメニューを美月の方へ少し寄せる。
「何食べる?」
その声も、対外的には普通だった。
丁寧すぎず、近すぎず。
美月は少しだけ理久を見た。
「……何でも」
「準夜明けの何でもは、一番困るやつだね」
「お腹が空きすぎて決められません」
「じゃあ、温かいもの頼もうか」
及川が向かい側でにやにやしている。
「何だよ、その自然なやり取り」
美月はすぐにメニューを見るふりをした。
「普通です」
「普通じゃねぇよ」
「及川くんも、注文係なら早く決めてください」
「扱いの差がすごい」
「日頃の行いです」
「刺さる」
理久が小さく笑った。
ビールが運ばれてくる。
グラスが三つ。
及川が声を少し落として、やたら楽しそうに持ち上げた。
「じゃあ」
嫌な予感がした。
「藤崎先生と綾瀬に乾杯」
美月はグラスを持ったまま固まった。
理久も、グラスを持つ手を一瞬止めた。
及川は楽しそうに笑っている。
「先生、隠しても無理っすよ」
理久は黙って及川を見る。
美月も、チラッと理久を見た。
理久の表情は穏やかだった。
でも、目だけが少しだけ細くなっている。
美月は小さく息を吐いた。
「及川くん、今回は踏み込んできたんですね」
「さすがにな」
「前回は思いとどまって、胸の内に秘めていたのに?」
「それは、触れたら俺が刺されそうだったから」
「身の危険を冒してまで、今回は踏み込んだわけですか」
「綾瀬が分かりやすいからな」
「どこがですか?」
「病棟で藤崎先生のことを考えてる顔をしてた」
「してません」
即答した。
けれど、顔が熱くなる。
理久が横で、少しだけ笑っている気配がした。
「り……藤崎先生も笑わないでください」
危ない。
呼び方を間違えそうになった。
及川はそれも聞き逃さなかった。
「今、り、って言いかけたよな」
「言ってません」
美月は即答した。
「言った」
「疲労です」
「疲労、便利すぎ」
及川が笑う。
理久は観念したように、グラスを置いた。
「及川」
「はい」
「どこまで気づいてる?」
及川は少しだけ真面目な顔になった。
「屋形船の時には、藤崎先生が綾瀬を特別に見てるのは分かりました」
美月は黙った。
理久も否定しなかった。
「触れるなって言ってきたじゃないですか」
理久は目を細めて、及川を見た。
「あの時は、何でそこまで言うのかと思いましたけど」
及川は美月を見る。
「思い返すと、先生はずっと、綾瀬のことを見てないようで見てたんですよね」
美月は目を伏せた。
「その後、綾瀬に聞いたら、否定されなかったし」
「……それで?」
「そうなんだなって、確信しました」
及川は肩をすくめる。
「その後も、先生は何もないように振る舞ってたし、綾瀬も病棟ではきっちり距離を取ってたから、俺も触れないようにしてましたけど」
一度言葉を切って、及川は理久と美月を交互に見た。
「さすがに、もう無理です」
理久の目が、少しだけ動いた。
「何か、ありましたよね」
理久は少しだけ黙った。
それから、一度、美月を見た。
「言ってもいい?」
美月は少しだけ迷った。
けれど、及川の目はもう茶化していなかった。
美月は小さく頷く。
「うん」
理久は及川へ向き直った。
「美月さんと婚約した」
及川が、数秒固まった。
本当に、珍しく何も言わなかった。
それから、ゆっくり美月を見る。
「……マジで?」
美月は小さく頷いた。
「うん」
及川は今度は理久を見る。
「それ、病棟には」
「まだ言っていない」
理久が答える。
「留学の可能性も含めて、美月さんの仕事のことは、これから順番に相談していく」
及川は黙った。
その表情から、この前病棟で交わした会話を思い出しているのが分かった。
10Aを離れる可能性を、考えています。
美月が言った言葉。
及川は、グラスを見つめながら小さく息を吐いた。
「そっか」
それだけだった。
けれど、その一言は軽くなかった。
「だからか」
美月は及川を見る。
「何がですか」
「この前の顔」
及川は少しだけ笑った。
「腹決める前の顔って言っただろ」
「……まだ決めたわけじゃないです」
「分かってる」
及川は頷いた。
「でも、そういうことかって思っただけ」
それから、及川は一度だけ理久を見た。
何か言いかけたように見えた。
けれど、結局言わなかった。
理久と美月の間に、及川が口を挟むことではない。
たぶん、そう思ったのだ。
及川はビールを一口飲み、いつもより少しだけ低い声で言った。
「誰にも言わねぇよ」
美月は何も言えなかった。
「婚約のことも、10Aのことも。綾瀬が話す前に、俺が勝手に言うことじゃないだろ」
美月が黙っていると、及川は少しだけ眉を上げた。
「疑ってる?」
「……少し」
「正直だな」
及川は箸で美月を指しそうになり、理久の視線に気づいて箸を下ろした。
「こう見えて、俺、綾瀬の味方だから」
美月は少し驚いた。
「……そうなんですか?」
「何だよ、その意外そうな顔」
「意外でした」
「おい」
理久が小さく笑った。
及川は少し不満そうにビールを飲む。
「まあ、先生の味方かは分かんないっすけど」
理久は落ち着いて答えた。
「美月の味方なら、それでいいよ」
及川は一瞬黙った。
それから、少しだけ目を逸らす。
「そういうこと言うから王子なんすよ」
「王子はやめて」
「無理っす」
「じゃあ、せめて人前では」
「ここ、身内しかいないじゃないすか」
及川はそう言って、グラスを持ち上げた。
「じゃあ、改めて」
理久と美月を見る。
今度は、さっきより少しだけ真面目な顔だった。
「婚約おめでとうございます」
美月の胸が静かに温かくなった。
「ありがとう」
理久もグラスを持つ。
「ありがとう」
三人のグラスが、軽く触れた。
小さな音がした。
及川はすぐにいつもの顔に戻る。
「で、いつから綾瀬は藤崎先生のこと“りく”って呼んでんの?」
美月はむせそうになった。
「ちょっと」
理久は横で笑っている。
「それは聞かなくていい」
「気になるじゃないすか」
「気にしなくていい」
「先生、独占欲出てますよ」
「出てるね」
「認めるんすか」
「隠す必要ないでしょ、ここでは」
美月は顔を覆いたくなった。
及川が大笑いする。
「うわ、やっぱ進展してる」
「及川くん、うるさいです」
「だって面白いだろ。病棟のクール綾瀬が」
「黙って食べてください」
「はいはい」
運ばれてきた温かい料理の湯気が、テーブルの上に広がる。
美月は箸を取った。
お腹が空いていたことを、ようやく思い出す。
理久が隣でさりげなく取り皿を渡してくれる。
及川はそれを見て、また何か言いたそうな顔をした。
けれど、今度は黙った。
美月は少しだけ笑った。
日常が戻ってきた。
でも、その日常は少しずつ変わっていく。
看護師としてこの病棟にいる時間。
及川とこうしてくだらない言い合いをする時間。
理久が藤崎先生の顔で隣にいる時間。
全部、いつか懐かしくなるのかもしれない。
美月は温かい料理を口に運びながら、左手を一瞬だけ意識した。
今は指輪はつけていない。
でも、そこには確かに重みが残っている。
そして、目の前の及川は、それを知った。
秘密がひとつ、味方になった夜だった。