光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜

第52話 秘密の祝杯

美月が香澄と玲奈に連絡をしたのは、日勤を終えた日の夕方だった。

話したいことがある。

それだけ送ると、二人からの返信は早かった。

香澄からは、

『今夜?
行ける。』

玲奈からは、

『何それ。
行く。』

と返ってきた。

相変わらず、二人とも決断が早い。

美月はスマートフォンを見つめながら、少しだけ息を吐いた。

自分から誘ったのに、今さら緊張している。

師長に相談した。

及川にも話した。

理久とは、何度も話している。

でも、香澄と玲奈に話すのは、また少し違った。

二人は、美月にとって同期だった。

柏木香澄は、10Aで一緒に新人時代を過ごした同期だ。

よく走り、よく怒られ、それでもすぐに立ち直る。

美月が一人で抱え込むタイプなら、香澄は怒られても周りに助けられながら前へ進むタイプだった。

三浦玲奈は、最初からオペ室にいた。

同じ病棟で働いたわけではない。

けれど、新人の頃に同じ寮で暮らしていて、気づけば一番よく飲む仲になっていた。

勤務終わりに、玲奈の部屋へ香澄が転がり込み、そこに美月も呼ばれる。

仕事の愚痴を言い合った。

失敗した話をした。

先輩に怒られたことも、患者にうまく関われなかったことも、夜中にカップ麺を食べながら何度も話した。

病棟は違っても、玲奈もまた、同じ時期に看護師として叩き込まれていた一人だった。

三人とも、お酒は強い方だった。

ただ、美月は酔わないのではなく、酔っても崩れないようにしていただけだったのかもしれない。

三年目になる頃、三人はそれぞれ寮を出た。

香澄は救急部へ移り、美月は10Aに残った。

玲奈は変わらずオペ室にいたけれど、勤務の忙しさは年々増していった。

それぞれの勤務はばらばらになった。

それでも、勤務が合えば、こうして病院近くの居酒屋に集まった。

ただ飲むだけの夜もあった。

仕事の話で延々と盛り上がる夜もあった。

誰かが落ち込んでいれば、二人が勝手に集められる夜もあった。

美月にとって、二人はそういう仲間だった。

* * *

病院近くの居酒屋に着くと、香澄はすでに席に座っていた。

「美月、こっち」

救急部の勤務後なのに、香澄は相変わらず元気そうだった。

少し遅れて、玲奈も現れる。

「ごめん、オペ押した」

「大丈夫」

「で、何? 話って」

玲奈は席に着くなり、遠慮なく聞いてきた。

香澄も、美月を見る。

二人とも、軽いようでいて、こういう時にはちゃんと待ってくれる。

美月は、グラスに手を添えた。

水滴が指先につく。

冷たい。

言葉を出す前に、少しだけ喉が詰まった。

「……結婚することになった」

香澄と玲奈の動きが止まった。

数秒の沈黙。

それから、二人の声が重なった。

「え」

「え?」

美月は少しだけ視線を落とした。

「まだ、周りにはほとんど伝えてない」

香澄が、ゆっくりグラスを置いた。

玲奈も、さっきまでの勢いを少しだけ引っ込める。

「相手は?」

玲奈が聞いた。

責めるような声ではなかった。

ただ、同期として当然のように出てきた問いだった。

美月は、膝の上で指先を握った。

「ごめん。今は言えない」

二人は黙っていた。

美月は続ける。

「でも、言える時が来たら、ちゃんと伝える」

その言葉で、香澄と玲奈の表情が少し変わった。

察したのだと思った。

美月が今言えない相手。

それでも、いつかちゃんと伝えると言う相手。

ただの秘密ではない。

病院に関係している人なのだと。

香澄が、静かに言った。

「院内にいるんだね」

美月は答えなかった。

否定もしなかった。

それだけで、十分だった。

玲奈が小さく息を吐く。

「それなら、尚更慎重にならないとだね」

その言葉に、美月の胸が少しだけ緩んだ。

聞かれると思っていた。

誰なのか。

医師なのか。

どうして隠すのか。

普通なら、聞きたくなるはずだ。

けれど、二人はそこから先へ踏み込まなかった。

美月が今は言えないと言ったから。

ただ、それだけで止まってくれた。

「ありがとう」

そう言うと、玲奈が少し笑った。

「でも、祝うのは祝うからね」

「うん。それは別」

香澄も笑う。

「相手の名前は聞かない。でも、おめでとうは言う」

その言葉に、美月はようやく顔を上げた。

「ありがとう」

声が少し揺れた。

けれど、泣かなかった。

まだ、もう一つ言わなければいけないことがある。

美月は、一度息を整えた。

「それで……10Aを離れる可能性も考えてる」

今度は、二人ともすぐには笑わなかった。

結婚よりも、その言葉の方が、現実味を持って響いたのかもしれない。

香澄が静かに聞いた。

「退職?」

「まだ決めたわけじゃない。でも、そういう選択肢も含めて考えてる」

玲奈は黙って美月を見ていた。

いつもの明るい顔ではない。

けれど、責める顔でもなかった。

「そっか」

玲奈は、ふっと息を吐いた。

香澄も少しだけ目を伏せる。

「寂しいけど、ちゃんと考えてる顔してるね」

「うん」

美月は小さく頷いた。

「怖い。でも、流されて決めたくない。ちゃんと自分で考えたい」

二人は、何も茶化さなかった。

そのことだけで、美月は胸がいっぱいになった。

香澄はビールのグラスを持ち上げる。

「じゃあ、今日は祝い酒だね」

玲奈もすぐにグラスを持つ。

「そうだね。秘密の祝杯」

「秘密って言わないで」

美月が少しだけ眉を寄せると、玲奈が笑った。

「だって秘密じゃん」

「言える時が来たら言うって言った」

「分かってる。だから、今日は聞かない」

香澄がグラスを少し掲げた。

「美月の結婚と、これからの選択に」

玲奈も続ける。

「あと、相手の名前を聞かずに我慢している私たちに」

「それは入れなくていい」

美月が言うと、二人が笑った。

三人のグラスが触れる。

小さな音がした。

その音を聞いた瞬間、美月の中にあった緊張が、少しずつほどけていった。

話せた。

言えた。

相手の名前を伏せたままでも、二人は受け止めてくれた。

10Aを離れるかもしれないと言っても、責めなかった。

寂しいと言いながら、それでも美月が考えていることを尊重してくれた。

美月は、グラスに口をつけた。

いつもより少しだけ、喉を通る速度が早かった。

「美月、ペース早い」

香澄がすぐに言った。

「そう?」

「そう」

玲奈が笑う。

「まあ、今日は祝杯だからいいけど」

「いいんだ」

「今日くらいはね」

香澄も笑った。

「でも水は挟んでね」

「分かってるよ」

「分かってる人の返事じゃないってば」

「分かってるし」

「……もう怪しい」

玲奈が笑う。

そこから先は、いつもの三人だった。

香澄が救急部での慌ただしい夜勤の話をする。

玲奈がオペ室で器械出しの先輩にしごかれた話をする。

美月は10Aの後輩が少しずつ独り立ちしていく話をした。

仕事の愚痴。

失敗した話。

今だから笑える新人時代の話。

寮で夜中に飲んで、空き缶を積み上げて、誰が一番きれいなピラミッドを作れるか競った話。

「美月、あの時めちゃくちゃ真剣だったよね」

玲奈が言う。

「缶の角度が悪いって言ってた」

香澄も笑う。

美月は少しだけ口を尖らせた。

「崩れるから」

「そこに真面目を出さなくていいんだよ」

「美月らしいけどね」

三人で笑う。

楽しかった。

久しぶりに、ただ同期と飲んでいる時間だった。

結婚の話をした。

10Aを離れる可能性の話もした。

それでも、二人は美月を特別扱いしなかった。

ただ、いつものように笑わせてくれた。

だから、美月も気が抜けたのだと思う。

冷酒が運ばれてきた頃には、頬が少し熱くなっていた。

「美月、日本酒いく?」

玲奈が聞く。

「少しだけ」

「少しだけって言う人ほど飲むんだよ」

香澄が言う。

「飲まない」

「飲むよ」

「今日はいいじゃん。祝い酒だし」

玲奈が軽く言うと、美月は少しだけ笑った。

「じゃあ、少しだけ」

少しだけ。

その言葉は、たいてい守られない。

特に、安心している夜には。

* * *

しばらくして、店の入り口付近が少しだけ賑やかになった。

「三浦?」

聞き覚えのある声に、玲奈が振り返る。

店に入ってきたのは、外科レジデントの中川、相澤、佐伯だった。

三人とも、オペ室で玲奈と顔を合わせることが多い。

香澄も救急部で一緒になることがあり、廊下で軽口を交わす程度には顔なじみだった。

「あれ、ここで飲んでたんだ」

中川が言う。

「そう。同期会」

玲奈が軽く返す。

相澤が席の方を覗き込んだ。

「同期会なら、俺らも混ざっていい?」

玲奈が眉を上げる。

「同期会の意味、分かってる?」

「だいたい同じ病院で、同じ時期に苦労してきた会ってことで」

「雑」

香澄が笑った。

「まあ、うるさくしないならいいよ」

「する」

「じゃあ駄目」

「しない」

佐伯が苦笑しながら中川の肩を叩く。

「お前、黙ってた方がいい」

「何でだよ」

「たぶん、その方が入れてもらえる」

香澄と玲奈が笑う。

そんなやり取りの間に、三人は近くの席へ荷物を置き、結局、少し席を広げる形になった。

結婚の話は、そこで自然に伏せられた。

香澄も玲奈も、誰に言われるでもなく、その話題を出さなかった。

美月は、冷酒の入った小さなグラスを持ったまま、軽く会釈した。

「お疲れ様です」

その声が、いつもより少し柔らかかった。

中川が、一瞬だけ動きを止める。

相澤も目を瞬かせた。

佐伯は黙って美月を見たあと、小さく言った。

「……綾瀬さん?」

美月は首を傾げる。

「はい」

その返事も、いつもの美月とは少し違った。

外科レジデントたちは、美月を知らないわけではない。

10Aの綾瀬美月。

曖昧な指示には静かに圧をかける看護師。

必要な確認は容赦なく行い、余計な雑談には乗らない人。

医師に対して、必要以上に距離を詰めない人。

だからこそ、今の美月に驚いたのだ。

私服で、頬を少し赤くして、柔らかく笑っている。

玲奈が、すぐにその反応に気づいた。

にやりと笑う。

「あ、今、美月のこと可愛いって思ったでしょ」

「え」

中川が焦る。

香澄も乗った。

「私の美月に手を出さないでね」

「いや、俺、綾瀬さんとあんまり話したことないから気になるだけで」

「中川は駄目」

玲奈が即答した。

「何で?」

「隣は禁止」

「何そのルール」

「今できたルール」

香澄が笑う。

美月は、そのやり取りを見ながら少しだけ笑っていた。

いつもなら、こういう場では一歩引く。

医師たちの軽口には入らない。

必要な挨拶だけして、あとは香澄や玲奈に任せる。

けれど今日は、少し違った。

香澄と玲奈がいる。

二人が笑っている。

その空気に、美月も少しだけ乗せられていた。

香澄と玲奈がいることで、いつもの線引きが少しだけ緩んでいた。

「綾瀬さん、日本酒飲むんですね。意外です」

中川が言った。

美月は、小さなグラスを少し持ち上げた。

「そうかな? 美味しいですよ。中川先生も飲みますか?」

美月は、ふわっと笑って答えた。

中川が、また固まった。

相澤が隣で吹き出す。

「中川、誘われてるじゃん」

「いや、そういう意味じゃないだろ」

佐伯まで少し笑った。

「でも、これはちょっとレア」

香澄と玲奈は楽しそうに笑っている。

美月もつられて笑った。

その時、少し遅れて店に入ってきた男がいた。

「悪い、遅れた」

及川だった。

外科レジデントたちの方へ歩いてきて、途中で香澄が気づく。

「あ、及川先生だ」

及川は軽く手を上げる。

「お疲れ。……って、あれ? 何でこんな集まりになってんの?」

香澄が笑いながら説明する。

「同期会してたら、この人たちが来たから合流したの」

「なるほど」

及川は、空いている席に座った。

いつものように、何でもない顔で。

けれどその顔が、すぐに少しだけ変わったことに、美月は気づかなかった。
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