光の中で〜あなたの隣に立つ日まで〜
第57話 前に進む支度
理久の留学の話が、正式に動き出した。
行き先。
時期。
受け入れ先との手続き。
それまで「まだ決まっていない」と言っていたものが、少しずつ現実の形を持ちはじめていた。
ひとつ決まれば、次に動くものがある。
入籍。
式。
渡航の準備。
仕事。
住む場所。
生活。
理久と結婚することは、自分で選んだ。
理久の隣に立ちたいと思った。
それでも、理久の世界へ足を踏み入れることは、やはり不安でもあった。
藤崎家。
格式のある家。
きちんとした場。
親戚付き合い。
節目ごとの挨拶。
理久の家に初めて行った日、佳乃は温かく迎えてくれた。
玲子も、美月を試すようなことはしなかった。
それでも、美月は感じていた。
育ってきた場所が違う。
当たり前に身についているものが違う。
理久が自然に立っている場所に、自分は本当に立てるのだろうか。
それを理久に話せば、きっと受け止めてくれる。
でも、それだけでは足りない気がした。
理久の隣に立ちたいのなら。
理久の世界に入ることを選ぶのなら。
自分から、そこへ向かって歩かなければいけない。
美月は、以前佳乃が言ってくれた言葉を思い出した。
いつでもいらしてね。
その言葉に背中を押されるように、美月はスマートフォンを手に取った。
お時間のある時に、一度お会いできませんか。
理久さんには、まだ話していません。
ご相談したいことがあります。
送信してから、胸が少し早く鳴った。
数分後、返信が来た。
もちろんです。
一人でいらっしゃい。
お昼をご一緒しましょう。
その短い文面を見た瞬間、美月は少しだけ泣きそうになった。
* * *
佳乃は、美月を温かく迎えてくれた。
藤崎家の玄関に立つと、やはり背筋が伸びる。
整えられた花。
余計なもののない廊下。
静かな空気。
けれど、佳乃の表情は柔らかかった。
「来てくださって嬉しいわ」
「お時間をいただいて、すみません」
「いいのよ。理久には?」
「話していません」
佳乃は少しだけ目を細めた。
「そう」
責めるような響きはなかった。
庭に面した部屋に通され、美月は用意されたお茶の前で、少しだけ背筋を伸ばした。
佳乃は急かさなかった。
美月が話し始めるまで、静かに待ってくれていた。
「理久さんの留学の話が、正式に進むことになりました」
「聞いています」
「入籍も、式も、思っていたより早く進めることになりそうです」
「忙しくなるわね」
「はい」
美月は膝の上の手を握った。
「私、怖いんです」
言葉にした瞬間、胸の奥にあったものが形を持った。
「理久さんと結婚することも、留学についていくことも、自分で決めました。後悔はしていません」
佳乃は静かに頷いた。
「でも、理久さんの家のことや、親戚付き合いのこと、改まった場での振る舞いのことを考えると……知らないことばかりで」
美月は一度、言葉を止めた。
「理久さんに恥をかかせたくない、という気持ちもあります。でも、それ以上に、何も分からないまま小さくなりたくないんです」
佳乃は湯呑みに手を添えたまま、美月を見ていた。
「だから、会いに来てくれたのね」
美月は小さく頷いた。
「教えていただきたいんです」
佳乃の表情が、ほんの少し和らいだ。
「ええ」
その一言だけで、美月の肩から少し力が抜けた。
「一度で全部覚えようとしなくていいのよ」
「はい」
「必要なことは、その時々で一緒に確認しましょう。着物のことも、席での振る舞いも、親戚へのご挨拶も」
佳乃は静かに笑った。
「知らないことは、恥ずかしいことではないわ」
美月は顔を上げた。
「知らないまま怖がるより、知ろうとする方がずっといい」
その言葉が、胸に落ちた。
美月は深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
佳乃の声は温かかった。
「理久の隣に立つ人を、私も少しずつ知っていきたいもの」
その言葉で、美月の胸の奥にあった緊張が、静かにほどけていった。
* * *
そして、今。
美月は再び、父の前に座っていた。
母は来ていない。
父と二人だけで会うのは、久しぶりだった。
場所は、ホテルの静かなラウンジだった。
父は相変わらず、圧が強い。
隙のないスーツ姿。
鋭い目。
無駄のない所作。
ただ座っているだけなのに、周囲の空気が少し引き締まる。
昔の美月なら、この空気だけで息が詰まった。
でも、今日は違う。
怖くないわけではない。
けれど、逃げずに前に進もうと思っていた。
父が先に口を開いた。
「留学の話が決まったそうだな」
「うん」
「藤崎先生から、簡単には聞いている。詳しい話は、明日の学会のあとに本人から聞くことになっている」
「うん」
「今日は、お前の話を聞く」
その言い方に、美月は少しだけ背筋を伸ばした。
「理久の留学手続きの関係もあって、早めに入籍することにした」
父は黙って聞いている。
「入籍は四月。式は六月に挙げる予定」
「急だな」
「うん」
「だが、手続き上はその方がいいということか」
「うん。理久とも話して、そうすることにした」
父は少しだけ頷いた。
「仕事はどうする」
来ると思っていた質問だった。
美月は一度、息を吸う。
「師長には相談している。休職も含めて確認したけど、今は退職する方向で考えている」
父の表情は変わらなかった。
「病院を離れるのか」
「うん」
口にすると、胸の奥が少し痛んだ。
でも、その痛みから逃げたくはなかった。
「逃げたわけじゃないよ」
父は何も言わない。
美月は続けた。
「今いる10A病棟は、大事な場所。新人の時から、ずっと育ててもらった場所だから。辞めるって決めるのは、簡単じゃない」
「そうだろうな」
「でも、せっかく海外に行く機会があるなら、語学を身につけたいと思ってる」
父の目が、少しだけ動いた。
「語学か」
「うん。それと、教養も身につけたい」
「教養」
「理久の隣にいても、自分らしくいられるようになりたい」
父は黙っていた。
美月は膝の上の手を握る。
「理久の家に合わせるためだけじゃない。知らない場所で、小さくならないようにしたいの。分からないことを分からないまま怖がるんじゃなくて、知って、覚えて、自分で立てるようになりたい」
父は静かに美月を見ている。
「だから、海外に行く前に、理久のお母様に、いろいろ教えていただこうと思ってる」
「藤崎先生のお母様に?」
「うん。もうお願いした」
父の眉が、わずかに上がった。
「何を教わる」
「着付け。改まった席での所作。食事の場での振る舞い。親戚付き合いのことも、節目の挨拶のことも」
父は、しばらく黙っていた。
怒っているのか。
呆れているのか。
試しているのか。
美月には分からなかった。
けれど、父はやがて静かに頷いた。
「そうか」
それだけだった。
でも、その声に否定はなかった。
「お前がそう考えたなら、それでいい」
美月は少しだけ目を見開いた。
父は水をひと口飲み、窓の外へ視線を向けた。
「懐かしいな」
「何が?」
「小さかったお前を連れて、アメリカで過ごしたことを思い出す」
美月は瞬きをした。
父の口から、そんな言葉が出ると思わなかった。
「覚えてるの?」
「お前はあまり覚えていないだろう」
「少しだけ」
「そうか」
父は静かに言った。
「向こうでの生活は、楽なことばかりではなかった。言葉も違う。文化も違う。日本で当たり前だったことが、当たり前ではなくなる」
「うん」
「だが、悪いことばかりでもなかった」
美月は黙って父を見た。
「お前は、向こうの公園でよく走っていた」
「私が?」
「ああ。怖がりのくせに、知らない子どもの輪に入っていこうとしていた。言葉は通じていなかったがな」
美月は思わず小さく笑った。
「それ、覚えてない」
「そうだろうな」
父の声が、少しだけ柔らかくなる。
「でも、そういうところは昔からあった」
「そういうところ?」
「怖がるくせに、結局は行くところだ」
美月は何も言えなかった。
父の言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
「お父さん」
「何だ」
「私、ちゃんと行ってくる」
父は美月を見た。
「理久についていくだけじゃなくて、自分で行く。自分で見て、自分で学んでくる」
父はしばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「ああ」
それ以上、踏み込まなかった。
認めてくれたのか、許してくれたのかは、分からない。
でも、少なくとも、拒まれてはいなかった。
父と向き合う時間が、昔ほど息苦しいものではなくなっていた。
* * *
帰宅すると、理久がいた。
リビングの明かりがついている。
理久はソファに座り、書類に目を通していた。
美月がドアを開けると、すぐに顔を上げる。
「おかえり」
「ただいま」
理久は書類を閉じた。
「お父さんとの食事、どうだった?」
「相変わらず圧は強かった」
理久が少し笑う。
「想像できる」
「でも、前みたいに怖いだけじゃなかった」
「そっか」
美月は理久の隣に座った。
「自分の思いは、伝えられたと思う」
「よかったね」
「うん」
理久は、それ以上すぐには聞かなかった。
美月が話すのを待ってくれている。
その距離が、ありがたかった。
「明日は、お父さんと食事するんでしょ?」
「うん」
「かなり細かく聞かれると思う」
「だろうね」
「緊張する?」
「するよ」
美月は少し笑った。
「医者として話すのに?」
理久は少し考えた。
「医者として話す方が、まだ楽かもしれない」
「そうなの?」
「うん」
理久は小さく笑った。
「美月の婚約者として会う方が、緊張する」
その言い方が少し可笑しくて、美月も笑った。
「そうかもね」
「笑うところ?」
「うん。少し」
理久は苦笑した。
きっと、明日の食事は留学の話だけでは終わらない。
披露宴の招待客。
席の配置。
親戚への挨拶。
留学前の段取り。
父はきっと、必要なことを全部確認する。
細かく。
抜かりなく。
けれど、それはもう、美月がひとりで抱えるものではなかった。
父には父の役割がある。
理久には理久の役割がある。
なら、自分にも、するべきことがある。
知らないことを知ること。
分からないことから、逃げないこと。
「お母様に、会いに行ったの」
理久の目が少し動いた。
「母さんに?」
「うん。理久には言ってなかったけど」
「そう」
責める声ではなかった。
「不安だったの。理久の世界に入っていくことが」
「うん」
「でも、それを理久に言って、大丈夫って言ってもらうだけじゃ、足りない気がした」
理久は黙って聞いている。
「だから、お母様に会いに行った」
理久は少しだけ笑った。
「母さん、喜んだでしょ」
「そうかな」
「うん。たぶん、すごく」
理久は、美月の手にそっと自分の手を重ねた。
「美月」
「うん」
「ありがとう」
「何が?」
「俺の世界を、知ろうとしてくれて」
美月は胸の奥が少し熱くなった。
「理久のためだけじゃないよ」
「うん」
「私のため」
理久は、その答えを少し嬉しそうに受け止めた。
「それでいいと思う」
テーブルの上には、式場から届いた資料が置かれている。
六月の式。
四月の入籍。
留学。
渡航。
どれもまだ少し遠いようで、もう近い。
招待状の校正は、もう終わっていた。
あとは印刷され、白い封筒に入って届くのを待つだけだった。
美月は、その資料の端に指先で触れた。
「招待状が届いたら」
「うん」
「香澄と玲奈にも、渡そうと思う」
理久は静かに頷いた。
「うん」
「その時には、もう名前も言う」
藤崎理久。
自分が選んだ人の名前を。
ずっと伏せてきた名前を。
今度は、祝ってくれた二人にちゃんと伝える。
理久は、美月の手を少しだけ握った。
「怖い?」
美月は少し考えた。
怖い。
でも、それだけではない。
「怖いけど」
「うん」
「言いたい」
理久は頷いた。
「じゃあ、言おう」
その言葉は、いつも通り静かだった。
でも、美月には十分だった。
知らないなら、知ればいい。
分からないなら、少しずつ分かればいい。
その言葉を、もう一度思い出す。
白い封筒が手元に届いたら、香澄と玲奈にも渡そう。
その時には、もう隠さない。
美月は理久の隣で、静かに息を吐いた。
前に進む支度は、少しずつ整いはじめていた。
行き先。
時期。
受け入れ先との手続き。
それまで「まだ決まっていない」と言っていたものが、少しずつ現実の形を持ちはじめていた。
ひとつ決まれば、次に動くものがある。
入籍。
式。
渡航の準備。
仕事。
住む場所。
生活。
理久と結婚することは、自分で選んだ。
理久の隣に立ちたいと思った。
それでも、理久の世界へ足を踏み入れることは、やはり不安でもあった。
藤崎家。
格式のある家。
きちんとした場。
親戚付き合い。
節目ごとの挨拶。
理久の家に初めて行った日、佳乃は温かく迎えてくれた。
玲子も、美月を試すようなことはしなかった。
それでも、美月は感じていた。
育ってきた場所が違う。
当たり前に身についているものが違う。
理久が自然に立っている場所に、自分は本当に立てるのだろうか。
それを理久に話せば、きっと受け止めてくれる。
でも、それだけでは足りない気がした。
理久の隣に立ちたいのなら。
理久の世界に入ることを選ぶのなら。
自分から、そこへ向かって歩かなければいけない。
美月は、以前佳乃が言ってくれた言葉を思い出した。
いつでもいらしてね。
その言葉に背中を押されるように、美月はスマートフォンを手に取った。
お時間のある時に、一度お会いできませんか。
理久さんには、まだ話していません。
ご相談したいことがあります。
送信してから、胸が少し早く鳴った。
数分後、返信が来た。
もちろんです。
一人でいらっしゃい。
お昼をご一緒しましょう。
その短い文面を見た瞬間、美月は少しだけ泣きそうになった。
* * *
佳乃は、美月を温かく迎えてくれた。
藤崎家の玄関に立つと、やはり背筋が伸びる。
整えられた花。
余計なもののない廊下。
静かな空気。
けれど、佳乃の表情は柔らかかった。
「来てくださって嬉しいわ」
「お時間をいただいて、すみません」
「いいのよ。理久には?」
「話していません」
佳乃は少しだけ目を細めた。
「そう」
責めるような響きはなかった。
庭に面した部屋に通され、美月は用意されたお茶の前で、少しだけ背筋を伸ばした。
佳乃は急かさなかった。
美月が話し始めるまで、静かに待ってくれていた。
「理久さんの留学の話が、正式に進むことになりました」
「聞いています」
「入籍も、式も、思っていたより早く進めることになりそうです」
「忙しくなるわね」
「はい」
美月は膝の上の手を握った。
「私、怖いんです」
言葉にした瞬間、胸の奥にあったものが形を持った。
「理久さんと結婚することも、留学についていくことも、自分で決めました。後悔はしていません」
佳乃は静かに頷いた。
「でも、理久さんの家のことや、親戚付き合いのこと、改まった場での振る舞いのことを考えると……知らないことばかりで」
美月は一度、言葉を止めた。
「理久さんに恥をかかせたくない、という気持ちもあります。でも、それ以上に、何も分からないまま小さくなりたくないんです」
佳乃は湯呑みに手を添えたまま、美月を見ていた。
「だから、会いに来てくれたのね」
美月は小さく頷いた。
「教えていただきたいんです」
佳乃の表情が、ほんの少し和らいだ。
「ええ」
その一言だけで、美月の肩から少し力が抜けた。
「一度で全部覚えようとしなくていいのよ」
「はい」
「必要なことは、その時々で一緒に確認しましょう。着物のことも、席での振る舞いも、親戚へのご挨拶も」
佳乃は静かに笑った。
「知らないことは、恥ずかしいことではないわ」
美月は顔を上げた。
「知らないまま怖がるより、知ろうとする方がずっといい」
その言葉が、胸に落ちた。
美月は深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
佳乃の声は温かかった。
「理久の隣に立つ人を、私も少しずつ知っていきたいもの」
その言葉で、美月の胸の奥にあった緊張が、静かにほどけていった。
* * *
そして、今。
美月は再び、父の前に座っていた。
母は来ていない。
父と二人だけで会うのは、久しぶりだった。
場所は、ホテルの静かなラウンジだった。
父は相変わらず、圧が強い。
隙のないスーツ姿。
鋭い目。
無駄のない所作。
ただ座っているだけなのに、周囲の空気が少し引き締まる。
昔の美月なら、この空気だけで息が詰まった。
でも、今日は違う。
怖くないわけではない。
けれど、逃げずに前に進もうと思っていた。
父が先に口を開いた。
「留学の話が決まったそうだな」
「うん」
「藤崎先生から、簡単には聞いている。詳しい話は、明日の学会のあとに本人から聞くことになっている」
「うん」
「今日は、お前の話を聞く」
その言い方に、美月は少しだけ背筋を伸ばした。
「理久の留学手続きの関係もあって、早めに入籍することにした」
父は黙って聞いている。
「入籍は四月。式は六月に挙げる予定」
「急だな」
「うん」
「だが、手続き上はその方がいいということか」
「うん。理久とも話して、そうすることにした」
父は少しだけ頷いた。
「仕事はどうする」
来ると思っていた質問だった。
美月は一度、息を吸う。
「師長には相談している。休職も含めて確認したけど、今は退職する方向で考えている」
父の表情は変わらなかった。
「病院を離れるのか」
「うん」
口にすると、胸の奥が少し痛んだ。
でも、その痛みから逃げたくはなかった。
「逃げたわけじゃないよ」
父は何も言わない。
美月は続けた。
「今いる10A病棟は、大事な場所。新人の時から、ずっと育ててもらった場所だから。辞めるって決めるのは、簡単じゃない」
「そうだろうな」
「でも、せっかく海外に行く機会があるなら、語学を身につけたいと思ってる」
父の目が、少しだけ動いた。
「語学か」
「うん。それと、教養も身につけたい」
「教養」
「理久の隣にいても、自分らしくいられるようになりたい」
父は黙っていた。
美月は膝の上の手を握る。
「理久の家に合わせるためだけじゃない。知らない場所で、小さくならないようにしたいの。分からないことを分からないまま怖がるんじゃなくて、知って、覚えて、自分で立てるようになりたい」
父は静かに美月を見ている。
「だから、海外に行く前に、理久のお母様に、いろいろ教えていただこうと思ってる」
「藤崎先生のお母様に?」
「うん。もうお願いした」
父の眉が、わずかに上がった。
「何を教わる」
「着付け。改まった席での所作。食事の場での振る舞い。親戚付き合いのことも、節目の挨拶のことも」
父は、しばらく黙っていた。
怒っているのか。
呆れているのか。
試しているのか。
美月には分からなかった。
けれど、父はやがて静かに頷いた。
「そうか」
それだけだった。
でも、その声に否定はなかった。
「お前がそう考えたなら、それでいい」
美月は少しだけ目を見開いた。
父は水をひと口飲み、窓の外へ視線を向けた。
「懐かしいな」
「何が?」
「小さかったお前を連れて、アメリカで過ごしたことを思い出す」
美月は瞬きをした。
父の口から、そんな言葉が出ると思わなかった。
「覚えてるの?」
「お前はあまり覚えていないだろう」
「少しだけ」
「そうか」
父は静かに言った。
「向こうでの生活は、楽なことばかりではなかった。言葉も違う。文化も違う。日本で当たり前だったことが、当たり前ではなくなる」
「うん」
「だが、悪いことばかりでもなかった」
美月は黙って父を見た。
「お前は、向こうの公園でよく走っていた」
「私が?」
「ああ。怖がりのくせに、知らない子どもの輪に入っていこうとしていた。言葉は通じていなかったがな」
美月は思わず小さく笑った。
「それ、覚えてない」
「そうだろうな」
父の声が、少しだけ柔らかくなる。
「でも、そういうところは昔からあった」
「そういうところ?」
「怖がるくせに、結局は行くところだ」
美月は何も言えなかった。
父の言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
「お父さん」
「何だ」
「私、ちゃんと行ってくる」
父は美月を見た。
「理久についていくだけじゃなくて、自分で行く。自分で見て、自分で学んでくる」
父はしばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「ああ」
それ以上、踏み込まなかった。
認めてくれたのか、許してくれたのかは、分からない。
でも、少なくとも、拒まれてはいなかった。
父と向き合う時間が、昔ほど息苦しいものではなくなっていた。
* * *
帰宅すると、理久がいた。
リビングの明かりがついている。
理久はソファに座り、書類に目を通していた。
美月がドアを開けると、すぐに顔を上げる。
「おかえり」
「ただいま」
理久は書類を閉じた。
「お父さんとの食事、どうだった?」
「相変わらず圧は強かった」
理久が少し笑う。
「想像できる」
「でも、前みたいに怖いだけじゃなかった」
「そっか」
美月は理久の隣に座った。
「自分の思いは、伝えられたと思う」
「よかったね」
「うん」
理久は、それ以上すぐには聞かなかった。
美月が話すのを待ってくれている。
その距離が、ありがたかった。
「明日は、お父さんと食事するんでしょ?」
「うん」
「かなり細かく聞かれると思う」
「だろうね」
「緊張する?」
「するよ」
美月は少し笑った。
「医者として話すのに?」
理久は少し考えた。
「医者として話す方が、まだ楽かもしれない」
「そうなの?」
「うん」
理久は小さく笑った。
「美月の婚約者として会う方が、緊張する」
その言い方が少し可笑しくて、美月も笑った。
「そうかもね」
「笑うところ?」
「うん。少し」
理久は苦笑した。
きっと、明日の食事は留学の話だけでは終わらない。
披露宴の招待客。
席の配置。
親戚への挨拶。
留学前の段取り。
父はきっと、必要なことを全部確認する。
細かく。
抜かりなく。
けれど、それはもう、美月がひとりで抱えるものではなかった。
父には父の役割がある。
理久には理久の役割がある。
なら、自分にも、するべきことがある。
知らないことを知ること。
分からないことから、逃げないこと。
「お母様に、会いに行ったの」
理久の目が少し動いた。
「母さんに?」
「うん。理久には言ってなかったけど」
「そう」
責める声ではなかった。
「不安だったの。理久の世界に入っていくことが」
「うん」
「でも、それを理久に言って、大丈夫って言ってもらうだけじゃ、足りない気がした」
理久は黙って聞いている。
「だから、お母様に会いに行った」
理久は少しだけ笑った。
「母さん、喜んだでしょ」
「そうかな」
「うん。たぶん、すごく」
理久は、美月の手にそっと自分の手を重ねた。
「美月」
「うん」
「ありがとう」
「何が?」
「俺の世界を、知ろうとしてくれて」
美月は胸の奥が少し熱くなった。
「理久のためだけじゃないよ」
「うん」
「私のため」
理久は、その答えを少し嬉しそうに受け止めた。
「それでいいと思う」
テーブルの上には、式場から届いた資料が置かれている。
六月の式。
四月の入籍。
留学。
渡航。
どれもまだ少し遠いようで、もう近い。
招待状の校正は、もう終わっていた。
あとは印刷され、白い封筒に入って届くのを待つだけだった。
美月は、その資料の端に指先で触れた。
「招待状が届いたら」
「うん」
「香澄と玲奈にも、渡そうと思う」
理久は静かに頷いた。
「うん」
「その時には、もう名前も言う」
藤崎理久。
自分が選んだ人の名前を。
ずっと伏せてきた名前を。
今度は、祝ってくれた二人にちゃんと伝える。
理久は、美月の手を少しだけ握った。
「怖い?」
美月は少し考えた。
怖い。
でも、それだけではない。
「怖いけど」
「うん」
「言いたい」
理久は頷いた。
「じゃあ、言おう」
その言葉は、いつも通り静かだった。
でも、美月には十分だった。
知らないなら、知ればいい。
分からないなら、少しずつ分かればいい。
その言葉を、もう一度思い出す。
白い封筒が手元に届いたら、香澄と玲奈にも渡そう。
その時には、もう隠さない。
美月は理久の隣で、静かに息を吐いた。
前に進む支度は、少しずつ整いはじめていた。